第三十八話
緑色の閃光が空を焼く。
空気中の水分が一瞬で蒸発する音、匂い。
生じた無数の風達がその鋭い爪で、周囲に存在するありとあらゆるものを、無慈悲に引き裂いていく。木々の太い幹は一撃で分断され、軽々と宙を舞う。短い浮遊の後、それらが地面に衝突し、連鎖的に森を轟かせた。
そして、静寂が訪れる。
一連の破壊が終わった時、そこは驚くほど見通しが良くなっていた。
広い空間。
切り倒された木々が、無造作に地面に転がっている様は、例え赤い血が流れていなくとも、身の毛のよだつ光景に違いなかった。
ヘルマンは傷ついた身体を、ゆっくりと振り返らせ、それらを見渡した。彼の視線がすぐさま一所に留まる。それを見て、彼は未だ手応えの残る剣を、鋭く構え直した。
惨劇の中心に立つ、白髪の悪魔。
彼に背を向けて佇む男の左半身は、肩の付け根から腰下まで、線を引かれたように綺麗に切り取られていた。幽鬼のような動きで、彼を―――その半身を切り落としたヘルマンを、振り返った。
その顔は笑っていた。
顔を歪ませ肩を振るわせ、しかし声は出さず、音もなく笑っている。
瞳は笑ってはいない。
如何なる感情をどれほどの濃度で混ぜ合わせたのか、頭上の曇天よりも更にどす黒い色を湛えたそれは、ヘルマンから逸れることは決してなかった。二つの瞳はまるで歯を持たぬ口のように、彼を飲み干そうとしているようにも見えた。
ヘルマンはしかし、何の感慨も抱かなかった。
彼はただ、先の己の一撃が躱された事、戦闘が終結していない事だけを、簡潔に確認した。取るべき行動も、理解する。
身を低く構え、無言で疾走を開始する。
敵との距離は遠くもなく、近くもない。見通しは良くなったが、木々の残骸が残る足場は返って悪くなっていた。しかしヘルマンの走る速度は平野を駆ける時とほとんど変わらず、驚異的なバランス感覚で滑りやすい木々の幹を踏み抜いていく。
悪魔の元に辿り着くのには、三秒もかからなかった。
だが、ゼロではない時間というのは、一流の魔導師にしてみれば、限りなく広い有限に等しい。魔力で強化されたヘルマンの視界の中、悪魔の失われた半身は突然回復し、その二つの腕がまるで抱き留めるようにヘルマンに差しのばされる。そこに収束した魔力が指向性を持つのと、彼が剣を振り下ろしたのは全くの同時だった。
ギギンッ―――!
耳をつんざくような音が響き、ヘルマンの剣が鋭く弾かれる。
防いだのは魔法の盾。
悪魔が高速で展開したそれは、衝撃を受け止めず縦横無尽に受け流すという、障壁系の魔法の中ではトップクラスの代物だった―――しかし、それは既にひび割れ、防御の能を失っている。それは別段、ヘルマンの斬撃が殊更に重かったからではない。彼はむしろ軽い攻撃を放った―――角度の違う三つの斬撃を一息で放ち、衝撃を複合させて盾を打ち砕いたのだ。
悪魔の顔が憤怒に歪む。
しかしひび割れた盾をあっさりと打ち消し、間髪入れず攻撃魔法を放った。
至近距離から飛んできた槍状の閃光を、ヘルマンは身体を僅かに傾けただけで回避すると、後退しようとしていた悪魔に向けて剣を振り下ろした。
剣が襲いかかったのは首や心臓といった急所ではなく、地面を踏みしめる足。
悪魔の悲鳴が、雷の轟音にかき消される。
右足を付け根から切断され、為す術なく地面に転がった悪魔に、ヘルマンは立て続けに剣を振り下ろした。
左足、右腕、左腕―――。
剣によって次々と胴体から分断されていく。
悲鳴を上げつつも、絶命する気配を全く見せない悪魔に、ヘルマンは剣を止める。同時に左手を伸ばし、その頭を強靱な五指を持って握りしめた。
「があああああああああ」
首と胴体だけになった悪魔を片腕一本で持ち上げ、曇天に向けて掲げる。
雷鳴に負けず、めりめりと音を響かせるのは、握りしめられた悪魔の頭部。手の隙間から見える灰色の瞳は、飛び出さんばかりに膨れあがっている。ヘルマンはそれを冷静に観察しながら、左腕にますます力を込めていく。
「―――!」
しかし、突然悪魔を放り捨てると、後ろに素早く距離を取った。
顔を動かさず、視線だけを己の膝に向ける。
鈍い痛みを発するそこには、真っ黒な蛇が絡みつき、彼の膝に牙を立てていた。
ヘルマンは顔色を全く変えず、蛇を膝から引きはがすと、目の前に放り上げ剣を一閃した。
ひゅんと音を立て、蛇の頭が切り落とされる。
しかしそれは地面に落ちる寸前、黒い霧のようなものに形を変えると、そちらへと―――悪魔の方へと流れていった。それは身体に近づくと、右腕へと形を変え、切断されたそこに音もなくくっついた。
悪魔が霧に覆われ、両足と左腕を取り戻していくのを見ながら、ヘルマンは蛇に噛まれた己の左膝が痺れていくのを確かに感じていた。
すぐさま全身に魔力を駆け巡らせ、体内に侵入した毒を打ち消していく。全快した悪魔が立ち上がるのと、彼の膝が感覚を取り戻したのは、奇しくも同じタイミングだった。
悪魔が両腕を空に掲げる。
そこに今までとは比較にならないほどの魔力が集められるのを見て、悪魔に向かって駆けだしていたヘルマンは、この一合が勝負を決める事を悟った。
目の前の悪魔は、ほぼ不死身。
首をはねても死なず、心臓をえぐり出しても死なないかも知れない。
上位の悪魔が命の起点する核。
それを破壊しない限り、何度でも蘇り、戦いは終わらない。
だが、肉体の呪縛から解き放たれているという事はすなわち、その生死が魔力に支配されるという事である。早い話、魔力を全て使い切るか、魔法の制御に失敗すれば、あっけなく塵に返る。強大な力と仮初めの不死を手に入れる代わりに、最も脆弱な生き物となりはてた存在―――それが一流の魔導師であり、目の前の悪魔である。
―――あの魔力の規模ならば、意識集中のレベルを少し落としただけで魔法は暴走する……!
頭部に一撃。
くさびを打ち込めば、悪魔は自らの力に飲み干される。
悪魔が魔法を完成させ、解き放つのが先か。
こちらの剣がその頭を両断するのが先か。
恐ろしく単純な話。
ぞっとする程に長い距離を駆けながら、ヘルマンは自我を捨て、一本の剣となる。
己の腕が届く間合いを正確に計り、肉との邂逅を待ち望む。
無情に、無機質に、無慈悲に。
人である事を止めた男は、だからこそ、
――――自分が間に合わぬ事を悟った時も、何も変わらなかった。
× × × × ×
勝利を確信する。
ヘルマンの剣はまだこちらには届いていない。
快感を生み出すありとあらゆる感情に、心と身体を支配されながら、組み上げた最大級の魔法を放つべく、目の前の敵へと掌を向け―――そして。
ヴィクトールは思考を何ものかに中断された。
集中が霧散し、枷の外れた魔法が暴走を始める。
己の内側から生じた業火の熱に、彼は始めて狂気から解き放たれた。狂気よりも強いそれは、意志をもつ者が皆等しく抱く、根源的な恐怖だった。
確定した己の死滅。
力強い腕で身体を抱きしめる圧倒的な孤独感に、しかし震えることすら出来ず、永遠とも思える長い時間の中で、彼は目の前に迫り来る白刃を、最後の瞬間までただただ見つめ続けた。
―――剣はまだ、私に届いてはいないのに……。
胸中で零したその呟きが、彼の断末魔となった。
× × × × ×
剣で頭頂部から真っ二つに両断した悪魔が、足下で炎に飲み込まれている。炎はすぐさま収まり、後には黒い灰のようなものが僅かに残った。
いや。
灰の上に、細い棒のようなものが落ちている。
一本の矢。
あの時。彼は―――ヘルマンは、その鈍色の鏃が、己の勝利を確信した悪魔の額から飛び出してきたのを、確かに目にした。
そう。
本来、こうして地面に転がっているのはヘルマンであったはずなのだ。
彼の剣は間に合わず、悪魔の魔法の方が先に完成した。彼の剣は全てが終わった後で、悪魔を切り裂いたに過ぎない。彼が剣を振るう以前に、悪魔の死亡は確定していたのだ。
………一体誰が―――。
悪魔の亡骸と、その命を一撃で奪った矢を呆然と見下ろしていたヘルマンは、鳥の羽ばたきを耳にして顔を上げた。
見上げれば、一羽の鴉が曇天を背景に、黒い翼を羽ばたかせ、どこかへと飛んでいくところだった。その姿が視界から消えた後も、彼は空を見上げていた。
ぽつり、と。
空から降ってきた滴が一つ、彼の額を叩いた。
すぐさま二つ三つと落ちてくる滴の数は増え始め、虫の囁きのような音が森に満ち始めた。
彼は視線を空から外し、地上へと降ろした。そして――――そこに男の姿を見つけ、絶句した。
悪魔が広げた空間の端、無傷な木々達が立ち並ぶその隙間から、一人の男が滑り出してくる。
彼が絶句したのは、他でもない。
その男が、自分と全く同じ姿―――同じ顔をしていたためである。
「お前は………誰だ」
感覚の薄れていた腕に力を込め、剣を強く握り直す。
ヘルマンの問いかけに、しかしその男は答えない。降りしきる雨の中、不気味なほどに音を立てず、ヘルマンの顔をしたその男は、しばらく歩いたところで立ち止まった。
「――――ろ」
男は何か呟いたが、何を言ったのかはヘルマンには解らなかった。しかしそれが何を意味するかは、すぐさま理解する。理解させられた。
男の身体が淡い光に包まれる。
光は一瞬で消え失せ、男の姿が―――ヘルマンとは異なる顔、異なる姿をした男の姿が現れる。
幻術。
それを理解したヘルマンは落ち着きを取り戻し、しかし真の姿をさらしたその者の姿を目にして、再び混乱に陥った。
「お前は……君は――――!」
雨の中、弓を携えた少年が一人。
黒い瞳を静かに輝かせ、彼を見つめていた。