第三十七話
偶然の一言に尽きる。
洞窟を離れてから三日目の早朝、まだまだ夜の気配が漂う木々の影の中に、小さな白い点を見つけた。
まさかと思いながら、身を低く保ち、近づきすぎないよう気を遣いながら、ゆっくりとそれへと歩いていった。それの形がはっきりした時、もう当てもなく森を彷徨う必要はない事を、確かに理解した。
小指の先ほどの白い点は、白髪に覆われた悪魔の頭部だった。どこかへと動いていくそれは、極めて重要なことであるが―――こちらに気づいていなかった。
―――どうする? 距離を詰めて仕留めるか……いや。
これ以上近づけば感づかれるだろう。一気に駆け抜けるには遠く、反撃や逃走の時間を与えてしまう。姿をくらまされれば、次も見つけられるとは限らない。あくまでこれは偶然……。
待つしかない。
悪魔が何かに意識の大半を集中させる瞬間。奇襲に対応できないだけの致命的な隙を見せるのを、ひたすらに待つしかない。
そんな瞬間は果たして訪れるのか、という問題については、それほど悲観的な考えを抱いてはいない。
ヴィクトール・イスフェルド。
今回地上に降りて、始めてあった悪魔ではあるが、その内実はともかく、戦闘においてどのような行動を取るかは、大体予想できる。
―――あの男は楽しもうする。使命よりも己の快楽を優先するタイプだ。
敵集団と遭遇した時に、すぐさま攻撃を仕掛けず、不必要な会話を選択した。虚無の蟒蛇など、動揺を誘うためにやったとも解釈できるが、しかし目的はディプロスの確保である。天界と同じか、あるいはそれ以上に、魔界の王族達は少女を欲しているはず。魔王の継承権争いも絡んでいるのであれば、あの悪魔の主である王族の一人は、どんな犠牲を払ってでもディプロスを手に入れようとしているはずだった。
それを承知していないはずがないあの悪魔は、しかし状況を混乱させている。転移阻害のあの仕掛けも、設置したのならば、わざわざ己の部隊をぶつける必要もない。少女を守らなければならない執行部隊の方が不利なのだ、奇襲に奇襲を重ねて、敵の精神を衰弱させていく手もあったはずなのに、あの悪魔は最も犠牲の多い手段を選択した。八人の味方をまるで顧みなかった……。
―――必ずやつは動く。増援を待つために逃げ続けたりはしない……こちらに手を出してくる。
おそらく、その相手はエドガーだろう。
若いからと与しやすいというのもあるが、根拠の大半は勘である。自分よりもエドガーの方を面白がるのではないかと、妙な確信を持ってそう考えてしまう。
だがまあ、悪魔が何をするにせよ、こちらがやる事に変わりはない。距離を保ったまま追跡し、隙を見せたところで剣を叩き込む。それだけである。
方針を明確にすると、ヘルマンは慎重に尾行を開始した。
× × × × ×
おかしい、と。
ヘルマンがそう思ったのは、追跡を続けて半日以上経過した頃だった。
こういった極度の集中力を要する行動を取る際、彼は決まって思考を止めている。考えるという行為は、状況の理解や打破を可能とするが、同時に全てを破綻させる力を持っている。それは剣や魔法よりも扱いが困難で、下手を打てば取り返しのつかない事態を引き寄せるのだ。その最たるものが猜疑心であり、それに囚われた者は存在しない敵の影に怯える羽目になる。
ヘルマンは卓越した思考の操作術を、訓練と経験によって身につけていたが、その中で得られた結論は一つ。「思考を完全に操る術は存在しない」というものだった。故に彼は、一つの見落としが命取りになる状況では、思考を極力排除していた。それが最も有効だと考えていたからだが。
―――今回はそれが裏目に出たか……?
彼がそう思わずにはいられなかったのは、悪魔の歩く道筋に一貫性が欠片もなかったためである。
草木や石のように気配を消したまま、何をするでもなく、ずっと森を彷徨い続けている。まるで歩くことこそが目的とでも言うような、そんな足取りだった。
……幻術か?
懸念が浮かぶが、それはすぐさま否定できる。
気配はそれこそ、少し離れただけで解らなくなるほど小さいが、発せられるそれは確かに悪魔のものである。幻影や使い魔などが出す事が出来ない、高位の悪魔の気配。あれがヴィクトール・イスフェルドである事は間違いない……。
どこに向かおうとしているのか。
森の地理に疎いヘルマンには、今自分がどこにいるのかすら、正確には解らなかった。部下と少女がいる洞窟から、それなりに離れている事が辛うじて解る程度。悪魔が何を目指しているのかは全く判別がつかなかった。
―――もしかしたら、読みが完全に外れていて、増援を待ち続けるつもりなのか……?
計画を変更すべきかどうか思案し始めた、その時だった。
歩いていた悪魔が、突然方向転換し―――走り出した。
「……!」
冷水を浴びせられたような気持ちになりながら、ヘルマンは慌ててその背中を追い始めた。
―――こちらに気づいたのか!? そんなそぶりは見せなかったが、それとも最初から気づいていたのか!?
悪魔の足は早い。
暗い森の中を、風のように駆け抜けていく。
時折急激に右左に消える白い頭を見失わぬよう、必死で走りながら、ヘルマンは腰から剣を抜いた。
轟き始めた雷の音が、彼の足音をかき消してくれる。もう物音を消すのに意識を裂かなくても良い。それほどの時を置かずして、空から雨が降ってくるだろう。そうなってしまえば追跡は恐ろしく困難になる。だが同時に、こちらの奇襲も成功しやすくなる。
こちらに有利な瞬間は、決して多くないはずだ。機会を見逃さず、一撃で仕留める――――!
剣を握る手に力を込め、獲物を追う猟犬と化す。
地に食らいつく両足は勢いを増し、彼の身体を前へ前へと突き飛ばした。
白い頭が、だんだんと大きくなってくる。
あと少し。
あと少しで、剣の間合いに入る―――!
ヘルマンは呼吸を完全に止め、投げ出すように身体を前に押し出した。
瞬きを忘れた瞳に、その背中が明確に映り込み。
そして、消えた。
一瞬空白が満ちたヘルマンの頭で、磨き抜かれた彼の戦士としての勘が、けたたましい警鐘を鳴り響かせた。その指示に従うように、首だけをそちらに向ければ、驚愕に目を見開いた白髪の悪魔がそこにいた。
「――――なっ!?」
「くっ――――!」
思わず苦悶の声を上げた彼はしかし、すぐさま己の身体に指示を与えた。
重心を静めながら身体を捻り、手にした剣を一点に向けて加速させる。
「ヘルマアアアアアアアアアァァアン!」
絶叫が鼓膜を突き刺した。