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第三十五話

 時刻は夕暮れ。

 しかし空は黄昏に染まらず、黒々とした分厚い雲に覆われている。まだ雨粒こそ落ちてこないものの、吹きすさぶ風は既に湿り気を帯びていた。遠くからごろごろと聞こえる雷の音が、地上に生きる者達に不安をかき立てる。しかしそれも、幾人かの例外を除いての話であった。 

 その一人、ヴィクトール・イスフェルドは自分を取り巻く世界に対し、少しも注意を向けてはいなかった。彼が己の全ての感覚と思考を投じているのは、彼を鋭く睨む一人の少年だけだった。

「素晴らしい。全く持って、素晴らしい」

 彼は繰り返した。

 驚嘆と賞賛を込めて、熱を帯びた吐息を漏らした。強く叩きすぎて痺れた己の手を擦り合わせながら、震える声で早口に、言葉を弾く。

「素晴らしい―――この三人は身体に残った魂の残滓を元にして、思考と性格を再現したもの。本来なら見分けがつかない完成度、並みの武官であれば疑問を抱かずに受け入れる。それどころか己にとって都合の良い状況に、自ら進んで猜疑の目をふさぐ。整合性よりも感情を優先する。対して一流の武官―――ええ、この三人や、あなたのあの忌々しい上司であれば、曖昧な対象にすぐさま攻撃を加える。あるいは受け入れた振りをして、より多くの情報を引き出そうとする。彼らは感情を排し、状況から全てを判断する。しかしあなたはどちらとも違う―――」

 恐れおののくように、ぶるりと身体を震わせた。

「―――あなたは理性と感情を同居させている。元は一つであった、しかし相反する形に変化したその二つを、あなたは混ぜ合わせた。年老いた者には不可能な行為―――強くて弱い、若者だけがたどり着ける刹那の境地。信じられない……人間ならともかく、不変の安穏に満たされた天界で、そのような魂を手に入れられるとは……いや、安穏の天界から苛烈の地上に降りたからこそ、得られたものであるのか……ははは、はははははははは!」

 狂ったように哄笑を上げる。

 それと呼応するように、空に稲光が走った。びりびりと、大気が怯えたように身を震わせる。

 しかし悪魔は唐突に笑いを止める。

 何が起きたわけでもない。

 悪魔はただ、狂気の中で更なる狂気を求めたに過ぎない。

 仮面が剥がれる。

 美しい悪魔。

 享楽主義者。

 それらの下から現れたのは、涎でべとべとに覆われた大きな大きな赤い口。

 悪魔は静かに震えながら、決して満たされる事のない飢餓を瞳に宿し、下から覗き込むように少年を見つめた。

「……もっと、もっと見せてください。更なる希望を、その先の絶望を、この卑しい私に見せてください……まずはそう、あなたがおっしゃった通り、その震える剣で彼らを殺して見せてください……ああ、一つ言っておきますが」

 稲光に横顔を照らされた悪魔の顔は、幼い子供のように無邪気に微笑んだ。

「―――彼らは何も知りません。自分が本当は死んでいる事も、私に操られている事も、全く知りません。彼らが言った言葉は、彼らにとっては紛れもない事実なんです……ふふ、今だってあなたの仲間のつもりですよ。彼らから見ればおかしいのはむしろあなたの方。解りましたか。これは仲間同士の殺し合いなんですよ―――さあ、では」

 華々しく両腕を空に掲げ、高らかに歌い上げた。


「楽しい楽しい絶望の始まりです!」


     × × × × × 


 手元の震えが大きくなる。

 動揺するなと必死で言い聞かせるが、全く効果がない。気を散らされる言葉をいくつか耳にしただけで、膝は崩れそうなほどに力が抜けていた。

「お、おい……エドガー、大丈夫か? 取りあえずは剣を下ろせ―――俺もほら、武装を解除するから」

 ヨルゲンが緊張に顔を強ばらせたまま、鞘に入ったままの剣をベルトから外し、足下に下ろした。その後方で、似たような表情を浮かべたルチアとアルメルもそれに倣う。三人は皆、すぐ近くで笑う悪魔には全く注意を払ってはいなかった。

 己を認識できないように、悪魔が魔法を使って何かしているのか。あるいは気づいていない振りをしているだけなのか。それとも、

 ―――僕が狂ってるだけなのか……?

 心臓の鼓動を一瞬止めたその考えを、歯を食いしばってかみ砕く。

 惑わされるな。

 僕は僕だ。

 エドガー・ベルディクスだ。

 見出した現実。それが客観的に見て虚構や幻想でしかなかったとしても、何も変わりはしない。己を信じるだけ。それで十分だ。

 ……なのに、何故だ? 何故身体が震えるんだ?

 理解しているのに。

 頭の中は冷静で、落ち着いている。心は確かにここにあり、どこに消えたわけでもない。だというのに、身体は……何故身体は言うことを聞かないのだ。何故―――切っ先を下げようとするのだ……!

「あああああああああああ!」

 叫びと共に、無理矢理切っ先を跳ね上げる。

 大上段に構えた長剣を、ありったけの魔力を込めて、叩きつけるように地面に振り下ろした。

 どん、と洞窟が激しく震える。

「くっ――!」

 渋面をつくったヨルゲンが、大きく後方へ飛び退る。額には冷たい汗が浮かんでいた。

 エドガーの剣が突き刺さった地面は、抉られるどころか激しく陥没していた。エドガーが得意とする魔力を純粋な力へと変化させた斬撃。剣や盾で受け止める事が出来る者は、ほとんどいない。天界最高の剣士とされるヘルマンですら、受け流すことが精一杯であり、一流の魔導師の生み出す強固な障壁も、その圧倒的な暴力の前には薄紙一枚の効果もない。それが生み出す結果を目にすれば、本能的な恐怖を覚えずにはいられない、そんな一撃だった。

 砂埃が舞う洞窟の中。

 元は純白だった軽装鎧を身にまとった少年は、暗がりの中、黒でも白でもなく、灰色として存在していた。

「悪魔だろうが、天人だろうが、神だろうが。僕は誰の言葉にも従わない。僕は僕の魂にだけ従う。従うんだよ、そう決めた―――決めたんだ」

 震えの止まったその腕は血だらけだった。

 先ほどの一撃は、彼自身の身体にすら傷を与えていた。決して浅くないそれは、もしかしたら彼が望んだものかも知れなかった。

 エドガーは腰をかがめ、あらぬ所に転がっていた剣を―――ヨルゲンの剣を手に取ると、洞窟の入り口に向かって投げつけた。

 弧を描いたそれは、二人の女の元まで後退していた男の足下に、重い音を――しかしどこか乾いた音を立てて落下した。

「剣を取れよ。ヨルゲン。ルチアもアルメルも、剣を抜け」

「―――エドガー……?」

 聞き返したのは誰だったのか、エドガーには定かではなかった。だが彼は三人に答えるべく、突き刺さった長剣を地面から引き抜き、正眼に構えた。

「―――――スゥゥ……」

 細く、深く。息を吸い込み続ける。

 戦闘の呼吸。

 それを目と耳で知覚した三人は、一瞬で空気を変えた。身体から緊張と動揺を捨て去ると、覚悟を固めた。

「アルメル、ルチア。取りあえずエドガーを戦闘不能―――いや、行動不能にする。加減はしなくて良い。蘇生した後に話を聞き出す。解ったか」

 執行部隊副隊長であるヨルゲンが、素早く二人に指示を飛ばすのを、エドガーは自分の呼吸音と一緒に耳にする。頷く二人の姿を目にするのと同時、肺が空気で満杯になった。口を閉じる………

「ヒュッ―――――!」

 息を吐きざま、地面を全力で踏み抜く。

 ―――ダンッ!

 爆発じみた鋭い音が足の裏から響き、視界が急速流れ、ヨルゲンの顔が一瞬で目の前まで近づく。踏み込みの勢いを収束させて、倒れ込むように剣を振り下ろす。

 手応えは―――なし。

 剣の切っ先が食らいついたのはまたしても地面。しかしエドガーは初撃を外した事は気にせず、素早く剣を構えた。

 遠く、洞窟の外に出た三人の姿が目に入る。全員の身体を覆っているのは補助魔法の光―――移動加速。操られているにしてはヨルゲンの手際は早すぎるなと、いらぬ考えを抱く心を叱咤し、三人を追って洞窟の外へと飛び出した。

「放てっ!」

 鋭い声と、高速で飛来する何かの気配が、洞窟から出たばかりのエドガーに襲いかかる。死角から飛んできたそれを勘だけを頼りに躱すと、顔のすぐ横を拳大の火球が駆け抜けていった。

 ―――アルメルの高速詠唱……ルチアが来る!

 予測を現実へと転じたのは銀光。

 視界の隅から小さな点となって、腹を狙ってくる細剣の切っ先を、剣の柄頭で打ち落とす―――が、その動きを読んでいたのか、銀光は柄頭に当たる直前で軌道を変え、ひゅんと首筋めがけて跳ね上がってきた。

「――――っ!」

 無理矢理首をひねって躱す。が、体勢を崩したところで、ぞくりと背筋が震える。それに突き動かされるように咄嗟に身体を前方に突き飛ばすと、背中を熱が直線に走った。

 斬られた―――が、傷は浅い。

 痛みを無視したまま前転し、振り返りながら素早く立ち上がると、自分がさっきまで立っていた場所に、剣を振り下ろした姿勢のヨルゲンが横目でこちらを見ていた。

 ―――三体一。その上連携に隙がない。正攻法じゃ勝機はない……!

 最初から解りきっていた事。故に動揺も、思考が硬直する事もない。飛び込んできたルチアの攻撃を躱しながら、唯一の勝機とも呼べるその姿を捜す。

 ……いたっ!

 離れたところで、ねっとりとした視線でこちらを見る、白髪の悪魔の姿を見つける。

 元凶であるあの男を倒せば、操られている三人も倒れるかも知れない。根拠と呼べるものがない推測だが、試してみる価値はある。一個の生物のようにまとまった動きを見せる三人を相手にするよりかは、よほど現実的な話である。

 問題はどうやって近づくか、だが。

「枷よ―――!」

 ヨルゲンの声に、反射的に魔力を身体から放出して呪文をレジストする。

 対象の動きを鈍らせる魔法。

 戦闘時、味方のサポートにヨルゲンがよく使う呪文だった。それを知っていたからこそ反応が出来たが、知らなければルチアの剣か、

「フッ―――!」

 ―――こいつにやられていた……!

 胸中でそう毒づきながら、背後から飛んできた不可視の矢―――アルメルの魔法を、横に飛んで躱す。

 着地よりも早く、ヨルゲンの斬撃が眼前に迫る。

 それを剣の腹で受け止めながら、しかし足は止めず、緩急をつけて走り回る。

 ―――読まれてる。当然だ……こちらが相手の出方が解るように、向こうにもこちらの反応が予想できるんだ。ならばそれを逆手に取れば……!

 洞窟前の狭い空き地。

 誰と誰の距離もほとんど変わらず、一歩踏み出せば剣が届く。この空間と―――そしてあれを利用する!

 ルチアの飛来する無数の矢のような攻撃を、剣で大きく払い落とす。返す刃をその胴に叩き込むべく、一歩大きく踏み出そうと足に力を込める。するとそれを察知したルチアは、己の斜め後方にいるヨルゲンと位置を入れ替わるべく素早く後退する―――が、それは狙い通り。

 瞬間、横に振り抜いていた剣を―――エドガーは手放した。

 加速したエドガーの重い剣は、その軌道上、彼に向かって攻撃を放とうとしていたヨルゲンを直撃した。しかしエドガーはそちらは一切目をやらず、軽くなった身体でルチアに向けて鋭く間合いを詰めた。

 驚きに目を見開いたルチアは、後退により重心を後方に残したまま、それでも斬撃を放つべく目の前に迫ったエドガーに向けて腕を振り下ろした。

 しかし、ルチアの顔は更なる驚きに歪む。

 振り下ろした腕に手応えはなく―――それどころか彼女の意志よりも深く振り下ろされ、振り下ろされていく。

 自分に何が起きたか悟ったときには、彼女は既に宙を舞っていた。回転するルチアの視界に唐突に滑り込んできたのは顔。自分の弟分の少年の顔ではなく、姉妹のように仲が良い彼女―――驚愕に彩られたアルメルの顔だった。

 悲鳴と衝突音を耳にしたエドガーは、自分が投擲した剣を打ち落としたらしいヨルゲンが、こちら向けて踏み込んでくるのを視界の端に捉えていた。

 下から跳ね上げるようにして放たれた斬撃を、後転して躱す。視界は暗雲立ちこめる空、茶色の地面と変化し、そして最後に、追い打ちを放たんと剣を振り上げたヨルゲンを映す。座り込んだ自分の肩に剣が飛んでくるよりも一瞬早く、エドガーは手の中に握り込んだそれを手首のスナップだけで素早く放り上げた。

「――――――っ!」

 ただの土。

 だが唐突にそれを顔に受けたヨルゲンは、目を瞑ることすらしなかったものの、剣の軌道を甘くさせてしまっていた。鈍い音を立ててそれが突き刺さったのは、エドガーの背後の木の幹。慌てて剣を引き抜いたときには、ヨルゲンは腹部にエドガーの拳による強烈な一撃をもらっていた。衝撃吸収の補助魔法のお陰で、致命傷にはならない。しかしヨルゲンの肉体は数秒間動きを止めることを強いられた。

 エドガーは既に走り出していた。

 地面に転がっていた己の長剣を、走る速度をゆるめずに回収し、そちらを―――白髪の悪魔の元を目指していた。

 先ほどの一連の攻撃は奇襲。

 それも致命傷になり得るまともな攻撃は一つも与えてはいない。聖務執行部隊は少数精鋭。所属する隊員の特性は攻撃力の高さではない。彼らが最も強く要求されるのは強靱さである。精神と肉体が尋常じゃないほどにタフなのだ―――先ほどの奇襲は二度と通じないし、瞬きを三回ほどすれば回復して再び彼に襲いかかってくるはずだった。

 短いはずなのに、恐ろしいほど遠く感じる悪魔との距離。

 剣の届くところまで近づいた時には、エドガーの精神は焦燥で消し炭になる寸前だった。

 時間の猶予はない―――一撃で倒す……!

 袈裟懸けに振り下ろそうと、剣を右肩の上まで掲げた、その時だった。


「駄目ですよ。殺し合うのは私とじゃないでしょう?」

 

 粘り着くような悪魔の声は、むしろ後れて聞こえた。

 最初に耳に入ったのは、ざくりと響いた、鈍い音。

 その次に悪魔の声。そして最後に自分の剣が地面に落ちた、重い音だった。

 悪魔の灰色の瞳から視線を外し、ゆっくりと下へ―――自分の腹部から生えた、それへと移す。

「―――――は……」

 血にまみれた剣の切っ先。

 目にした途端に生じた激しい痛みに、息が止まる。

 崩れ落ちそうになるのを押さえ、緩慢な動きで後ろを振り返れば、無表情のヨルゲンが握手をするようにこちらに手を差し出していた。

 ―――握手、なわけない……剣を投擲したのか……。

「彼らの動きを遠隔制御に切り換えさせてもらいました。ルール違反ですが、破ったのはあなたが先ですよ。仲間同士で殺し合えと、ちゃんと言いましたよ? 私自身は殺し合いなど好みませんので」

 どこまでも自分勝手な悪魔の呟きと共に、倒れていたルチアとアルメルが、人形のようなぎくしゃくした動きで起き上がるのを目にする。

 その視界が、僅かに霞む。

 歯を食いしばり、明滅する思考を必死で手繰り寄せる。

 ―――この程度なら僕の回復魔法でも十分治せる……が、そんな時間はあるのか……?

 耳鳴りが鳴り響くエドガーの耳に、悪魔の声がするりと入り込んでくる。

「さて、もう一戦……というのは面白みがないですね。ここは別の趣向を―――――え」

 悪魔の声が唐突に途切れる。

 いつの間にか下を向いていたエドガーは、ひどく重く感じる頭を、のろのろと持ち上げた。

 どさり―――。

 彼が目にしたのは、地面に落下した男の――ヨルゲンの首と、倒れ行くヨルゲンの胴体。そして、


「―――――ヘルマンだとっ!?」


 剣片手にアルメルとルチアに躍りかかる隊長の、その残像だった。


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