第三十三話
あの男。
ヘルマンといったか。
やはり能なしだ。話にもならない。
気配を消し、足跡を消して、こちらを捜そうとしているらしいが間抜けにも程がある。魔導師でもないただの武官風情が、事もあろうにこの私を―――ヴィクトール・イスフェルドを捕捉しようとは。一体何様のつもりなのだろうか。とんだ愚か者だ………。
集団の先頭を歩きながら、ヴィクトールは嘲笑を隠すことなく顔に浮かべた。
ヘルマンが拠点らしき洞窟を―――彼の部下とディプロスの元を離れてから三日。天人による追跡劇、悪魔による逃走劇は、終局の兆しすら見せていなかった。
元より逃走者の方が有利である事に加え、ヴィクトールという悪魔は、こういった事が恐ろしく得意であった。
身を隠すのも相手の位置を知るのも、一流の魔導師である彼には容易い事だった。よしんばヘルマンが探索魔法を使えたとしても、彼の敵にはならなかっただろう。ヴィクトールはその手の魔法の網から逃れる術にも長けていた。魔力の反応のみを頼りに彼を捜すヘルマンには、いやむしろ天人悪魔を問わずほとんどの者には、彼を見つける事など出来はしないだろう。悪魔や天人が地上において被る肉の身体から、僅かに漏れ出す気配とも呼べない気配を、敏感に察知できる者でもない限りは……。
―――しかもあの男。今は全くの見当外れの場所を、ぐるぐると歩き回っている……本当に救いようがない。
先ほど行った探知魔法の結果を思い出し、ヴィクトールは鼻を鳴らした。
最初見た時から、いや、魔界でその噂話を耳にした時から、つまらない男だとは思っていた。
天界随一の剣士。
最強の武官。
その経歴は輝かんばかり。伝説とまではいかなくとも、剣の道を志す者達の憧れであり、目指すべき背中であった。
完璧な存在。
兵士として、と冒頭に付けさえすれば、何の違和感もない評価である。
彼は。
ヴィクトールは、そういった存在が反吐が出るほどに嫌いだった。
己の道を見つけ、それに向かって邁進する者。
迷いを捨て、悩みを捨て、ある種の概念じみた存在になった者。
気持ち悪い、と。
ヴィクトールはそう思わずにはいられない。
それは変化を捨てた存在だ。
辿り着いてしまった存在だ。
色の変わらぬ空を、一体誰が見上げるというのか。
変化は心を持った全ての存在に与えられた、至高の宝である。
彼はそう考える。
そしてその変化の中でも、最も光り輝くものが二つあると、そう考えている。
希望。
そして絶望である。
ヴィクトールは――――絶望が大好物だった。
絶望に歪む人々の顔を見るのが、我を忘れるほどに大好きだった。打ちひしがれ、涙を流す気力すら失い、死ぬことも生きることも出来ない屍に変わる様を見るのが、彼の生き甲斐だった。愛していると言っても良い。彼の自己にして、伴侶と呼べるものが、それだったのだ。
だからこそ。
絶望に染まらぬ存在を嫌う。
完結してしまった者を、何よりも憎んでいる。
あの男は。
ヘルマンはまさしくそれだった。
究極的なまでに兵士に徹したあの男は、のっぺりした瞳で、己を含めた世界の全てを俯瞰している。
気持ち悪い。
吐きそうなほどに気持ち悪い。
一目見て、そう思った。
すぐさまその存在を記憶の中から消してしまいたいが、そうしたところでこの不快感は残り続けるだろう。原因不明の気持ち悪さを延々と感じ続けるのはまっぴらだ。
解決法は一つしかない。
あの男を殺すのだ。
気分はそう簡単には良くならないだろうが、自分の果てなき寿命がきっと、少しづつ和らげていってくれる事だろう。それに、
――――あの少年がいる。
若き天人武官のその姿を思い出し、ヴィクトールは禍々しい笑みを顔一面に広げた。端正な顔が醜悪に歪み、周囲に悪意をまき散らす。
「くっ………くくっ、きひひっ……」
堪えきれず、狂気が口から零れ落ちた。
あの少年。
素晴らしい、素晴らしい!
色鮮やかな感情。
子供と大人の中間を生きる者だけが放つ、何とも青々しい匂い。
強い意志。
己を信じ、仲間を信じる愚直な性格。
そして何より、あの顔―――仲間の死体に駆け寄った時の顔!
心が壊れそうになりながらも、必死で蘇生を行おうとするあの姿! 自分じゃどうにも出来ない事を知った時の表情! 無能のヘルマンに、大切な仲間を捨て置けと言われた時―――自らそれを決意した時の瞳!
ああ、ああ。
何といじらしい。
何と愛らしい。
歯の根が合わぬほどに欲情してしまう。
あんな愚かな男の部下にしておくのは、もったいない。手足を切り落とし、自殺が出来ないように暗示をかけて籠に入れ、その顔を傍らでいつまでもいつまでも眺めていたい。
ああ、でも。
それはこれが終わってから。
ヘルマンを殺し、ディプロスを回収し、そして―――これを彼に見せてからだ。
悪魔は切なげな顔で微笑んだ。
背後から着いてくるその足音を耳にしながら、自分の舌に乗るだろうその美酒の味に思いをはせた。
目的地に辿り着くまで。ずっと、ずっと。
ヴィクトールは絶望を好む。
絶望に歪む人々の顔を好む。
だからかれは、それを見るためなら努力を惜しまない。その味を極上のものにするために、彼は舌に乗せる前に、決まってある一つの儀式を行っていた。それは彼の欲するものとは真逆のもの。
―――まずは希望を与えるのだ。
× × × × ×
今日でもう三日か。
洞窟の入り口から灰色の空を見上げ、エドガーは重いため息をついた。最初の間は自制していたそれも、昨日辺りからは枷が外れていた。
ひどい気分だった。
隊長が悪魔を捜しに洞窟を後にしてから、彼はほとんど休息を得ていない。敵の襲撃を恐れて緊張していたのもある。しかしそれ以上に、仲間の死が―――置いてきた三人の事が、彼の頭の中を占拠し、精神をぞりぞりと蝕んでいた。
――――三人はまだ、あそこで僕の助けを待っているんじゃないか……?
その疑問がぐるぐると回る。
アルメルもルチアも、あの時は死んでいるように見えた。ヨルゲンもあと少しで死にそうに見えた。でもそれはもしかしたら、自分の見間違いではなかったのか、と。
そんな愚かな……本当に愚かな考えが、彼の頭の中から消えてなくならない。
もちろん彼はそれを必死で否定したし、考えないようにもしていた。だがいくら理性が足掻こうが、既に心はそれに取り憑かれていた。エドガーはそれを払う術をしらなかった。
加えて、だ。
自分が生きているという事実が、自分が間違いなく彼らに生かされたのだという事実が、彼の胸を破裂させそうなほどに圧迫していた。
ディプロスである少女は言わずもがな。
最も強力な武官であるヘルマンも、少女を守るためには必要不可欠――――だが自分は、どうだ……?
所々かさぶたに覆われた唇を、エドガーは力なく噛みしめた。
……考えるな。
感じるのは三人に対する感謝だけで良い。
それ以外のものは、駄目だ。いらない。見つめてはいけないんだ。
やるべき事は解ってる。解ってるだろ?
応えるんだ。
三人の意志を受け取り、やり遂げて見せるんだ。無駄にしないために、必死で生き抜くんだ。それだけだ。やるべき事はそれだけだ。考える事も、それだけで良いんだ……!
――――僕は生き残るべきじゃなかったんだ。
ぶちり、と。
かさついた唇から血が溢れた。
しかしその痛みは感じない。
ひどく遠い。
近くに感じるのは恐怖と後悔と、そして背後から迫り来る、絶望の冷たい気配だけだった。
「………くっ、うう……」
痛かった。
心が悲鳴を上げていた。
相反する願いが二つ。エドガーを真っ二つに引き裂いていた。
死にたい。
生きなければならない。
前者の方が力は強い。
だがそれを選ぶことが出来ないほど、後者は楔となって彼の手足を縫い止めていた。彼は剣を、己に向けることは出来なかった。
任務が終わるまでは、絶対に死ねない。
三人のために、自分を信頼してくれた隊長のために、自ら死を選ぶことは出来ない。
逃げてはならない。
少なくとも今はまだ、絶対に。
立ち向かう事など到底無理だったが、目を逸らし、考えないようにする事は出来る。全てが終わるまでは、耐えなければならない。
エドガーは死人のような顔色で、洞窟の奥で眠る少女を、ふらふらと振り返った。
「ディプロスを―――あの少女を天界に連れて帰るまでは……死ねない……」
暗い熱を帯びた声で、そう呟いた。
その瞬間。
――――こいつさえいなければ……。
囁きは耳元で。
紛う事なき彼自身の声だった。
ごくりと喉が鳴る。
――――ルチアもアルメルもヨルゲンも。今も元気に笑える事が出来たのに……。
横たわった少女を凝視する。
白い肌と金髪が、洞窟にたゆたう闇の中で、ぼんやりと光って見えた。
――――どうせ連れて行けば殺されるんだ。あの悪魔がそう言った。隊長も否定をしなかった。とてもしっくり来る……。
口の中がひどく乾いていた。
水気を求めて舌を彷徨わせると、唇から入り込んだ血の味が、口いっぱいに広がった。
更に乾きが増す。
――――例え魔界に連れて行かれても、彼女に幸福は訪れない。あの少年と共にいる事だけが、彼女の望みだったのだから。彼女は今、ひどく辛い思いをしている……。
唇に舌を這わせた。
錆びた鉄の味。
酒のように頭をぼんやりと酔わせる。
少女の姿だけが、張り付いたように視界の中にある。一向に消えない。
――――楽にしてやるべきじゃないか……?
耳鳴りがした。
だというのに心臓の音はうるさいほどに聞こえる。
どくどく、どくどく。
内側からノックし続ける。
――――三人だってそれを望んでいる。優しい人たちだった……そう、これは優しさなんだ。
すんなりと心に入ってくる。
先ほどまで破裂しそうな程に苦しかったそこは、穏やかな静寂で満たされ、何かを待つ気配が漂っている。
熱くて、そして冷たかった。
――――まずは近寄って確かめてみよう。転移の失敗から四日近く、ずっと眠ったままなんだ。もしかしたら……。
足が一歩、踏み出された。
伝わってくる地面の感触は、決して弱々しくなく、驚くほどに力強いものだった。
しかしそこから張り付いたように動かない。
自分がどうしたいのか、解らない。
――――さあ……。
引っ張られるように、足が持ち上がる。
だが、地面に降りる寸前、動きを止める。
足がぶるぶると震える。
上から押さえつける力と、下から押し上げる力がぶつかり合い、拮抗を保っている。
――――さあ……。
押さえつける力が増す。
あと少しで、足の裏が地面に触れる。
歓喜と恐怖がごちゃ混ぜになって、世界を極彩色に染めていく。
楽になれる。
駄目だ。
これで良い。
駄目だ。
やっと終わる。
駄目だ………。
拒否の断末魔を皮切りに、ゆっくりとそこに吸い込まれていく。
もうちょっとで―――――
「あああああああああああああ!」
地面には触れなかった。
代わりに大粒の汗が、そこに染みこむ。
呼吸が苦しい。
頭痛がひどく、虚脱感を感じる身体は、今にも倒れ込んでしまいそうだった。そしてそれを確かに望んでもいた。
だが、倒れなかった。
歯を食いしばり、身体を起こす。
顔を上げて見つめるのは、眠ったままの少女。
「―――――っ」
足早にそちらに向かう。
先ほどまでは遠く感じた距離は、驚くほどに短かった。
その傍らで腰を下ろし、首筋に指を当てる。
確かな鼓動。
そして熱を感じられた。
「―――――はあ………」
口から漏れたため息は、地上に降りてから―――今まで生きてきた彼の人生の中で、最も深いものだった。
座り込んだまま、洞窟の天井を見上げる。
黒いそこには何もなかったが、見上げる彼の心には様々な思いが湧いていた。
彼はしばらくそれらに流されるまま、暗い天井を静かに見上げていた。
しかしやがて。
「自分になんか、負けるもんか」
色濃い疲労に彩られた顔で、小さく笑った。
エドガーは膝を屈しなかった。
それは別段、立派な理由や根拠、具体的な何かがあったからではない。
仲間を犠牲して得られた自分の命を、精一杯生きようと思ったとか、そんな素晴らしい、誰かに誇れるような想いがあったからでもない。
これは彼の話だった。
エドガーが自分の手だけで掴んだ想いだった。
―――自分になんか負けたくない。
その言葉が全てだった。
彼が今膝を折らなかったのも、訓練所を主席で卒業したのも、精鋭である執行部隊に配属されたのも、彼が彼であり続けられるのも、全部その想いが全てを支えていたからに他ならない。
エドガーはただ、負けず嫌いだった。
それだけの話。
それほどの話だった。
「よし、また頑張るか!」
瞳に強い光を戻し、身体に力を入れて立ち上がった――――その時だった。
「……エドガー」
聞き覚えのあるその声が、彼の名前を呼んだのは。