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第三十一話

 悲鳴に目を覚ます。

 ばっと飛び起きて周囲を見渡せば、暗がりの中に二つの人影が見えた。

 大きな方は壮年の男―――隊長だった。こちらに向けられた身体は半分ほどが白い光に包まれている。眉根を寄せて、訝しげにこちらを見ていた。

「どうした?」

 咄嗟に先ほどの悲鳴について、問いかけようとしたところで、再びそれを耳にした。視線を隊長のすぐ近く、光が溢れるその辺りから。

 そこにきてようやく気づいた。

 何てことはない、洞窟の中に飛び込んできた風が、悲鳴のような甲高い音を立てているだけの事だった。

 ―――そうか。僕は今、洞窟の中にいるんだった。

 その認識が後れてやってくる。自分の置かれた状況が芋づる式に頭の中に再現され、やっとまともな思考が出来るようになった。

「……いえ。何でもありません」

 勘違いだった。

 いや。もしかしたら、本当は勘違いではなかったのかも知れない。夢を見た記憶はなかったが、悪夢の残滓のようなものが、頭をうっすら包んでいる。眠っている間に、悲鳴を聞き続けていたのかも知れなかった。

「疲労が抜けていないんじゃないか。もう少し休んでいても良いぞ」

「いえ、大丈夫です。見張りを交代します」

 労いの言葉に首を振り、立ち上がる。

 驚くほどに身体は重い。見えない鎖でがんじがらめにされているようだった。肉体にも精神にも、太い鎖が深く食い込んでいるのだろう。

 隊長は僅かに心配そうな顔をして口を閉じたが、やがて小さく頷いた。

「解った。一時間ほど眠る。頼んだぞ」

「了解」

 場所を交代する。

 隊長が小さな人影―――眠っているあの少女の側に腰を下ろすのを見て、身体を正面に戻す。外から見えない程度に、洞窟の入り口から外界へと視線を投じれば、鬱蒼と生い茂る木々の天辺の間から、朝日に染まる瑠璃色の空が見えた。

 あれからもう、一日近くが経ったのか。


     × × × × ×


 失態。

 それも最悪の。

「あ――――え……?」

 呆然とした声が、傍らから聞こえる。

 視線をやるまでもない。

 ここにいるのは六人だった。

 その内二人は目の前で息絶えており、一人は瀕死の状態で微かなうめき声を上げる事しかできていない。一人は無傷で自分の足下に転がっているが、目を閉じ意識を失っている。後はこうやって冷静にそれを確認している自分を差し引けば、声を上げられるのは一人しか残らない。

「アルメルッ! ルチアッ! ヨルゲンッ――――!」

 エドガーが叫び、三人の元へと駆け寄っていく。

 そう、距離があった。

 自分達と彼ら―――生きる者と死ぬ者の間には、確かな距離が存在した。爆発の一瞬前の記憶では、皆で一カ所に集まっていた。爆風で吹き飛んだにしては、自分達にはほとんど怪我がない。それはつまり三人が自らを犠牲にして、彼とエドガー、そして少女を守ったという事を示していた。ヘルマンは静かに、それを噛みしめた。そしてすぐさま行動を起こした。

 地面にかがみ込み、少女の容態を詳しく確認する。顔色は悪いが、それは彼らと共に来てからはずっとだったので、問題にはならない―――少なくとも今は。

 少女を利き手ではない方の腕で抱え、瀕死の部下の元へと駆け寄る。するとその傍らに膝をつき、必死に治癒魔法をかけていたエドガーが、泣きそうな顔で彼を見上げてきた。

「隊長! 僕の腕じゃ駄目です! 隊長がやってください!」

 ヘルマンはしかし立ったまま、微動だにしなかった。

「お前がやって駄目なら俺がやっても無駄だ。ヨルゲンは―――ルチアとアルメルも、もう駄目だ。ここに置いていく」

 エドガーは、何を言われたのか解らなかったのだろう、真っ白な顔で固まった。思考停止した自分の部下を見て、ヘルマンは更に続けた。

「立て。急いで撤退する。いつ敵が襲ってくるか解らない――――立て」

 凍り付いていたエドガーの時間が、再び動き出す。

 その顔が青白いままに、怒り一色に染まるのを、ヘルマンは無表情に見つめた。この部下が次に何を言うか、彼には大体予想がついた。

「――――了解、しました」

 しかし彼の予想は外れた。

 年若い武官は、彼が考えていた以上に強かった。歯を食いしばり、立ち上がると、荒れ狂う思いを冷静で覆い隠した瞳で、彼を真っ直ぐに見つめてきた。

 ヘルマンは己の胸の内に湧いた感慨を、しかし奥底へと押しやった。応えには、応えなければならないのだ。

「行くぞ」

「はい」

 走り出した彼ら二人は、とてもよく似た表情を浮かべていた。



 森を駆ける。

 向かう先はディプロス捜索の折に発見した洞窟である。捜索が長引くようなら拠点として使おうと考えていたため、高度な探査魔法を用いずとも方角と大体の感覚で場所がわかる。距離はあるが、爆発地点から近すぎるのも問題である。幸い少女の身体は驚くほどに軽く、襲撃を受けないほどの速さで走ることは可能だった。

 隣を走るエドガーが口を開く。

「―――あれは、あの悪魔の仕業でしょうか」

 冷静な声にも聞こえたが、端から怒りの火の粉が僅かに漏れている。その顔を見ぬまま、ヘルマンは答えた。

「十中八九そうだろう。あっさり引き下がったのは、あれを仕掛けておいたからだろう。気づかなかった私のミスだ」

「……いえ。アルメルは一流の魔導師です。彼女が気づけなかったのなら、隊長にはどうする事も出来なかったと……そう思います」

「かも知れんが、そうでないかも知れん。解っているのは一つ。あの悪魔が私達の上を行ったという事だ―――彼我の戦力差が圧倒的じゃなくなった。こちらは彼女を守らなければならないから、むしろ私達の方が不利な状況になった」

「解っています。これからの方針はどうなるんですか」

「最善は天界からの増援との合流だ。私達がこの森にいる事も、帰還に失敗したのも、あちらには伝わっているはずだ。準備が整い次第、送り込んでくるだろうが―――」

「あの悪魔の仕掛けが、どう働くか解らない上に、やつが合流する時間をくれるとも思えない……ですね?」

「ああ、そうだ。向こうも増員が来るだろうしな。王族同士で揉めてくれれば遅くなるかも知れんが、それは希望的観測過ぎるな。こちらもあちらも数が増えれば大規模な戦闘―――戦争になる。最悪この森全てが灰になる事もあり得る」

「森を出て、白の惨劇に巻き込まれない場所で、天界から魔導師が来るのを待つというのはどうですか? そして転移をすれば……」

「あの悪魔の事だ、森の境界に障壁を張ったか、あるいは別の罠を仕掛けただろうな。二級悪魔の障壁を突破するのは至難の業だ。加えて、こちらの行動の二手三手先を読んでる節がある。合理的に動いたら致命傷を負わされる羽目になるだろう」

「では、どうします……?」

 エドガーのその問いに、ヘルマンは一旦口をつぐんだ。それは考えを纏めるためのものではなく、言葉にするのを躊躇したためであった。しかしそれも僅か、彼はすぐさま再び口を開いた。

「―――あの悪魔を狩る。その後森を脱出する」

「それはリスクが高すぎます! 大体、こちらの行動を読むような相手を、どうやって捕捉するんですか? それどころか私達は、彼女を守らなければならないんですよ? 今までの隊長の台詞と矛盾していますよ!」

「だからこそ、だ。状況を覆すにはそれなりのリスクを背負わなければならない。ここで身を退いたら私達は間違いなく終わりだ。あの悪魔に正攻法は通じないだろう」

「ですが!」

「お前は少女を守れ。私が悪魔を狩る。大丈夫だ、悪魔達ほど騙し合いは得意じゃないが、似たような任務をいくつかやった事がある。自由に動けるという条件付きなら、私はやつを狩る自信がある」

 エドガーが沈黙する。

 様々な要素を秤にかけているのだろうと考えながら、ヘルマンはしかし、天秤が最終的にどちらに傾くかを、半ば余地に近い形で推測していた。その根拠の所以は、隊長と部下という力関係なのではなく、先ほど瀕死の仲間を置き去りにする決意を見せた、エドガーのその顔だった。

 兵士は駒である。

 常に命令されて動き、自らが思考する事は許されない。円滑に作業を行うため、鎧を身につけると共に、兵士は思考や感情を捨てていく。それがあるべき姿であり、彼や死んだ彼の部下達の姿だった。

 しかしエドガーは違う。

 思考も感情も切り離さない。

 出来ないだけなのかも知れない。若いから、経験が浅いからかも知れない。だが理由はともかく、エドガーは人であろうとする。しかし同時に、その義務感から、駒に相応しい立派な兵士を目指そうとする。

 矛盾だ。

 生と死が一瞬で交叉する戦場においては、致命的な矛盾である。感情を捨てた彼らからすれば、愚かしい有様である。褒め称える者は一人もいない。

 だが、ヘルマンは思う。

 本来兵士とは、かくあるべきではないかと、そう考える。

 切り捨てるべきものを、持ち続ける事こそが、自分達の本来あるべき姿ではないかと、そう思わずにはいられない。

 優秀な兵士の頂点に立つ彼は、今までの自分に、今の自分に後悔はしていない。だが、感情を鮮やかに現し、思い悩むエドガーを見る度に、ひどく羨ましい気持ちになるのだ。それは自分が行けなかった道を行く後続を見守るような、淡い痛みだった。

 現実と理想を共に抱いた、そんな兵士になって欲しいと。

 そう思っている。

 共に過ごしたのは短い間だったが、その僅かな時間の中ですら、エドガーは驚くほどの速さで成長していった。迷いを捨てず、悩みを捨てず、一人前の兵士へと変わっていく。彼はそれをとても好ましく思ったし、死んでいった彼の部下達も、おそらく同じ思いを抱いていたに違いない。

 何を置いても守るべき少女。

 その盾となり剣となる自分。

 そしてエドガー。

 己の命をとして守るべきものの中に、この素晴らしい後輩を加えたのだ。合理的とはとても呼べない価値観だ。任務に忠実であれば、まずは魔導師であるアルメルを優先するべきだったのだ。

 だが彼らは、あの刹那の中で、生存者の最後にエドガーの名を連ねたのだ。自分に負けず劣らず優秀な兵士である彼らが、戦場においては心を捨てたはずの彼らが、何よりも自分の想いを選んだのだ。

 エドガーはそれに気づいているのか。

 理解はしていないかも知れない。だがきっと、その鮮やかな心のどこかでその想いを受け取ったのだ。だから彼は、あの時立ち上がったのだ。

「―――解りました。彼女は私が……僕が、絶対に守って見せます」

 顔は見なかった。

 だが決意は感じた。

 その想いは確かに、受け取った。

「よし。洞窟に着いたら、食料だの水だの必要な物資を、日が暮れるまでの間に集めるぞ。その後は、まずはお前が仮眠を取れ。しばらくは一人になるから、睡眠も大して取れなくなるぞ。たっぷりと寝ておけ。その間は私が見張りをする。見張りを交代し、必要な睡眠を取った後、私は出発する。解ったか」

「了解」

 覇気に満ちた鋭い返事。

 だが感情という熱を帯びたそれは、やはり兵士とはほど遠いものだった。

 それを耳にしたヘルマンは、表情を変えずに微笑んだ。

 

 ―――こいつは絶対に死なせない。

 

 先に行った仲間達に、彼は静かな誓いを立てた。

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