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第三十話

「俺は―――――俺を敵に回すぞ」


 宣言。

 それは誓いの言葉だった。

 囁きにも似た、小さな呟き。

 決して弱々しくはないが、しかし強い風が吹けば簡単にかき消されてしまう程度の声。

 当然だ。

 誓うべき相手は自分自身。他の誰に聞こえる必要もない。声に出したのはきっと、言葉を剣に換えて、自分の心に刻み込んでおきたかったからだろう。だから彼がそれを聞き取ったのは、間違いなくただの偶然だった。

 ザァルは確信した。

 静かに。

 そして滾るような熱を抱えて、その事実を受け入れた。

 自分の誓いを目を閉じ反芻している少年。

 痛みに耐えるように歯を食いしばり、細い涙をひっそりと流すその人間が、それであると理解した。

 旅人。

 己の全てを賭けるに値する存在であると。

 鳥肌の立った身体で震えながら、ザァルは無意識の予感を、現実として目の当たりにした。歓喜とも悲哀ともつかぬ表情を浮かべ、引きつった顔で少年を食い入るように見つめた。

 胎動する熱を胎んだ沈黙は、長くは続かなかった。

 少年が瞳を開ける。

 黒いそれがこちらに向いたその瞬間、ザァルは奇妙な感覚に囚われた。

 瞳だけが二つ、宙に浮いている。

 咄嗟にそんな事を考えてしまった。今なお考えてしまっている。

 存在感がある、とでも言うべきなのか。

 別段強烈な光を放っているわけでも、鋭く尖っているわけでもないその瞳は、漠然とした理由すら与えず、ひたすらに彼を吸い寄せ、留まらせた。

 魅了とはまた違う。

 陶酔のような熱を、彼は感じてはいない。むしろひどく冷えているような気分だった。見つめていても明確な感情は生まれず、しかし思考を妨げられるという事もない。かといって心が乾いているかと言われれば、違う。ますます持って得体が知れない。解っているのは一つ。それから目を逸らすのは容易ではないという事実だけだった。

 だからそう、金縛りに似た不思議な感覚から彼が解き放たれたのは、少年が自ら目を逸らしたからに他ならない。彼らが見つめ合っていたのはほんの僅かな時間、まさしく一瞬の出来事だった。

 ザァルは逸らされた少年の目を見つめながら、ふと気づいた。少年は何らかの意図を持って彼を見たのではなく、視界の中にあるものに反射的に視線を送っただけなのだと。

 少年はザァルの視線などお構い無しに、座っていた石柱からさっと腰を上げると、何やら忙しく動き回り始めた。ザァルはそれを見てはっと我に返り、慌てて立ち上がった。

「ま、待て―――――今の言葉の説明は!?」

 いくらか裏返った声が、その口から飛び出す。

 弓に弦を張っていた少年は、露骨に面倒くさそうな顔をしてザァルを振り返った。

「別に説明する必要ないだろ」

 それは当然の台詞だった。

 少年と彼の関係を考えれば、馬鹿馬鹿しいほど当たり前な言葉だった。

 ザァルは思わず、そんな事はないと断言しそうになったが、少年の平たい瞳に言葉を詰まらせた。引きつった笑みのようなものを浮かべながら、ザァルは素早く頭を回転させた。彼は必死で、それらしい理由を口から吐き出した。

「ほ、ほら、協力するには、やっぱり相手の考えてる事くらい知っておきたいだろ?」

「は?」

 少年は首を傾げ、ザァルから顔を背けると手元に視線を戻した。作業をしながら、どうでも良さそうに言葉を返す。

「協力なんてしねえよ。何言ってるんだか」

 ぴしり、と。

 ザァルは一瞬で凍り付いた。

 半笑いの顔を、夕焼けがあざ笑うように撫でさする。

「他人の力なんて借りない。これは俺の戦いなんだからな」

「―――だ、だがほら!」

 ザァルは微熱の赤橙を振り払い、三流詐欺師のように両腕を広げて―――が、右腕を失っていた事を思い出して左腕だけを広げて―――新しい言い訳を言葉で示して見せた。

「あのお嬢さんを助けるんだろ? だったら一人でも手が多い方が良いじゃないか。そりゃあ、自分一人で助けたいっていうお前の気持ちも理解できるが、でも一番重要なのは、お嬢さんを無事に救出するって事だろ? だったらさ―――」

「違う!」

 ―――俺の力も使うべきだろ?

 そう言いかけたザァルの口は、しかし少年の鋭いその一言に遮られる。

「………へ? な、何が?」

 怯える狸のように、ぎこちなく首を動かしたザァルは、少年の視線に串刺しにされた。

 身体がぎくりと歪な音を立てるのを、ザァルは確かに耳にした。

「一番重要なのはそれじゃない。違うんだ―――」

 そう独りごちると、少年はザァルから視線を逸らした。

 しかし今度は作業に戻る事はなく、その両手は固く握りしめられている。その視線が注がれたのが何であるか、ザァルには解らなかった。だがそれはおそらく遥か遠く、ここではないどこか。少年にしか見ることが出来ないもの。少年が目指しているだろう、地平の景色だったのかも知れない。

「あいつを―――イリスを守るためなら何でもする………今までの俺だったら、確かにそう考えたに違いない。あいつのために自分の全てを投げ出すと、それが自分の覚悟だと。そんな馬鹿な勘違いでどこかに飛んでいったんだろうな」

「勘違い……?」

 己を嘲るようなその言葉に、ザァルは思わず口を挟んだ。少年は彼の声を聞いたのか聞いていないのか、視線をそこから動かすことなく、独白を続けた。

「とんだ勘違いだ。自分に酔ってただけだ、この熱に浮かされていただけだ」

 胸の辺りを強く押さえる。

 痛みからか、少年の顔がいびつに歪む。

「それは覚悟なんかじゃない。ただの自慰行為だ。その建前だ。自分が何を捨てるのか、何を失うのかもちっとも考えず、片っ端から放り出す―――ほら、お前のためならこんな簡単に捨てられるんだよ、ってな」

 ざわりと空気が震える。

 嫌悪を通り越して憎悪に近いその感情に、ザァルはごくりと唾を飲み込んだ。

「保証があったんだよ。俺を大切だと言ってくれたあいつなら、俺をずっと思っていてくれるって。それはきっと事実だ、俺の目がどれほど腐っていてもそれくらいは解る。だが、腐った心は、腐敗した俺はそれに応えようとしなかった。俺はただ―――捨てられたくなかっただけだ」

 怒気が息絶える。

 そして後悔が両腕を広げてやってくる。

「………今度こそ、置いていかれまいとしただけだ。鎖で繋ぎ止める事に必死だっただけだ。偽りだったんだ。全部全部、自分のためにやってただけなんだ。だから、一言拒絶を口にされただけで、動けなくなる。諦めようとした。次を……別のものを捜そうとしたんだろうな」

 地平を見据えるその瞳。

 そこに映っているのは、万人が欲する輝く黄金などでは決してなかった。

「俺が守りたかったのは自分だ。あいつに大切にされている自分を、あいつに愛されてる自分を、ただ守りたかっただけなんだ。捨てるつもりなんて、欠片もなかったんだよ。この暖かさすら失う事なんて、全く考えてはいなかったんだ――――でも」

 瞬きをしない瞳が涙で覆われる。

 それはやがて粒となり、頬を伝い、そして大地へと落ちた。乾いた大地、不毛の世界。少年が立つ、その黄昏の世界へと、吸い込まれていった。

「腐ったこの心の中で、確かなものが一つだけあった。それにようやく気づいた。だから俺はやっと立ち上がれる、やっと歩き出せる。自分の大切なものを、一つ一つ自分の手で握りつぶしながら、その先にあるものへ―――俺の望みへと向かって歩き出せる」

 儚い黄金が、その瞳に見えた。

 醜い醜い灰色の黄金だ。価値と呼べるものは一切無く、きっと道ばたの石ころ以下の代物だった。手で握れば呆気なく崩れ去ってしまいそうなほど、弱くて脆い黄金だった。

「望みへと向かう、絶望の旅路だ。俺の真ん中に居座るこの暖かさを殺しながら、泣きながら笑いながら狂いながら、一歩ずつ歩いていくんだ」

 だからこそ。

 だからこそ、手を伸ばす価値がある。

 己だけにしか見出せない黄金だからこそ、求めずにはいられない。

「一人だけだ。俺だけで、行くんだ。だからあいつには悪いが」

 ふっと可笑しそうに顔を緩ませ、少年はザァルを横目で見た。

「俺が失敗した時は、あいつは終わりだ。未だに良く解らんが……お前達にしろ、あいつらにしろ、連れて行かれた先じゃこの森で暮らすよりもひどい状況になるんだろ?」

「――――え、ああ。そうだ、が」

「生きるか死ぬか知らないが、その時は好きなだけ俺を憎んでもらうさ。あいつが泣こうが喚こうが、俺は意志を変えるつもりはない。あいつが死ぬかもと考えただけで、どうしようもなく震えてしまうけど……」

 強固なその決意は少年に笑みを促した。

「この恐怖こそが俺の覚悟だ。俺があいつを求めるのに必要な絶望だ」

 己の言葉を噛みしめるように、深く深く頷いた。

 そしてザァルを見つめ、肩をすくめた。

「まあ、何だ。話すつもりはなかったが、それがお前の質問に対する俺の答えだ。俺はただ一つの望みのために、他の全ての望みを殺す。今までの俺を、これからの俺を殺すんだ。俺は俺を敵に回すんだよ………解ったか?」

 少年のその瞳が、今度こそ間違いなく自分に向けられた事をザァルは理解し、そして深く頷いた。

「―――――――ああ。十分だ、ありがとう」

 瞳を閉じ、安からかな笑みを浮かべた。

 悪魔と名乗った男らしからぬその表情に、少年は訝しげに首を傾げたが、再び肩をすくめると、中断していた作業に―――少女を救いに行くための準備に、戻っていった。

 ザァルはその音を聞きながら、ゆっくりと目を開けた。

「一つ、俺から提案があるんだが、聞いてくれないか?」

「……ん、何だ?」

 少年の背に語りかけたその瞳からは、先ほど少年を意のままに操ろうとした時のような、ざらついた色は完全に消えており、驚くほどに純粋だった。

 それはザァルという悪魔が、何かを真っ直ぐに見つめる事が出来た、初めての瞬間だった。

「誰の手も借りないというのは解った。だが、君がそこにあるものを利用するというのは、別段構わないのだろう?」

「ん? どういう事だ?」

「つまり、だ。まずはイリス嬢の置かれている状況から、具体的に分析していくと――――――」

 そして悪魔は語り始めた。

 嘘を用いず、真実を隠さず。

 その人間と契約したわけではない、見返りがあるわけでもはない。

 だがひたすらに誠実に、心を晒して言葉を紡いだ。

 

 だがその顔はとても、満ち足りて見えた。 

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