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第二十九話

 ―――どうすれば良いんだ。

 俺は一体、どうすれば良いんだ……。


「……天主アーガスの目的はただ一つ。天界の存続。そのためだけに、あの男は尽力している……いや、存在していると言って良い」

 

 今まで。

 何かをしようと考えた事など、一度もなかった。

 狩りも食事も睡眠も、何もかも。

 全ては自分が生きるためだった。だがそこに意志はない。意志と呼べるものは、持ち合わせていなかった。


「今までも、そしてこれからも。あの男は天界の存続のためだけに在り続けるだろう―――だが、今回は違う」

 

 死にたくなかったのか。

 解らない。

 生きたかったのか。

 違うだろう。


「恐怖だ。ディプロスに対する恐怖と怯えだ。魔界に震えが伝わるほどに、やつはディプロスを怖れた……」

 

 俺はただ、考えたくなかっただけだ。流されたかっただけだ。


「世界が滅びる事以上に、やつはディプロスに怯えた。理由はまあ、色々あるだろう。だがその内の一つは間違いなく、死への恐怖だ」

 

 生きる。

 それは疑う必要のない、正しい目的だと思ったから。それに盲従していれば、何も考えなくて良いとそう思ったから。


「神は死なない。アーガスもその十六人の子供達も、決して死ぬ事はない。いや、正確に言えばそう―――殺す事が出来ない、だ」

 

 俺は。

 どうしようもなく逃げていたんだ。

 ずっと、ずっと。

 あの人が―――カイが俺の元を去ってから。

 脇目もふらず、全てを捨て去り、ただひたすらに、生きることだけを考えた。生きたかったわけじゃない。他に目指すものがなかっただけの話だ。死を選べるほどの意志を持っていなかっただけの話だ。


「神とは柱―――すなわち世界そのものだ。天主や魔王はそれぞれの世界から出ることが出来ない代わりに、死という概念から解き放たれている。彼らを殺すためには、天界や魔界といった世界そのものを消滅させなくてはならない。それは不可能だった―――――ある一人の男を除いては」

 

 孤独から。

 一人の自分から。

 その自覚に伴う痛みと恐怖から。

 背を向けるために、目の前の現実へと逃げ込んだんだ。

 気を抜けばすぐに死ぬ世界。

 幸い、やるべき事はたくさんあった。

 己を見つめる時間は消えた。己を知る時間は消えた。


「隷王と名乗った男――人間だ。気が遠くなるほどの遥か昔、隷王は天界と魔界を後一歩の所まで滅ぼしかけた。どうやったかは聞くなよ? 俺も知らないんだからな。隷王は別に滅ぼせなかったわけじゃない。滅ぼすのを止めたんだ。有り余る力を見せつけた上で、天主と魔王にある宣誓を行わせた。これを〝協定〟と呼ぶ」

 

 やがて。

 俺は辿り着いた。

 それを成し遂げた。

 孤独を無視する事を。苦痛と恐怖を感じない事を。

 自分を見失う事を、俺は成し遂げた。

 死が傍らにある生。

 一瞬でやってくる終わり。

 嫌と言うほど生きている実感が味わえた。

 遠のいていく己。

 麻薬のような現実。

 目を開けて夢を見ているような、そんな気分だった。


「要約すると、だ―――天魔双方の者は、人間界において人を超える力を振るうべからず―――って感じだ。具体的に言えば、天人や俺たち悪魔は、人間界に来る時には人間と同じ肉体を得るんだ。無双の剣士も卓越した魔法使いも、みんな人間レベルまで引き下げられる。つまり、驚くほどに弱くなるって事。これは重要なんだが―――人間に殺される可能性があるって事だ。隷王の狙いはおそらくそれだろうな」

 

 名前を忘れた。

 昨日を忘れた。

 明日を忘れた。

 今だけを知っていた。

 それ以外はいらなかった。それ以外は望まなかった。それだけを望んでいた。

 人を止め、獣となり、森の一部になった。

 長く、永く。

 ジンという一人の人間は、遥か彼方、誰も見つけられない闇の中で、時を止め、覚めない夢を見続けてきた。

 ―――それが……それが。


「首を飛ばされれば死ぬし、出血多量でも死ぬ。まあ、腕利きの魔法使いや俺みたいな悪魔は、致命傷じゃなければある程度蘇生可能だけどな。上位の悪魔や天人達は……まあ、例外だ。核を破壊しない限り死ななかったりするが。それでも自分の世界にいる時に比べれば、恐ろしいほどに弱体化するんだ。そしてこの弱体化を行う装置が、天界と魔界に設置されている」

 

 目覚めてしまった。

 光の届かぬはずの闇の中に、光が届いてしまった。

 偶然だ。

 誰が望んだ結果でもなく、誰が望まなかった結果でもない。

 心を持たぬ獣の前に、一人の人間が現れたのは。何の意味もない、ただの偶然に過ぎなかった。


「それは門だ。ゲートと呼ばれている。人間界に降りる方法はゲートを通る事以外にない。かつてのように、好き勝手に界層転移を行おうとするとペナルティーを与えられる。早い話、死ぬんだ。灰になって、天界なり魔界なりの空から降ってくる。冗談みたいに聞こえるだろうが、冗談を現実にしたのが隷王だ。協定を強制的に守らせるために隷王が造った装置は二つ。一つがゲート。そしてもう一つがペナルティーを与える装置、すなわち……」

 

 だが。

 そのただの偶然の過ぎないその邂逅は。

 獣の世界を塗り替えた。

 言葉を取り戻し、感情を思い出し、明日を知り、昨日に囚われ、虹を見て、心を欲した。皮を剥がされた獣は寒さに震え、しかしかつて全てを拒絶したために、日の光は獣を暖めようとはしなかった。むしろ焼き滅ぼさんとばかりに、その凍てついた肌を容赦なく熱した。


「〝虚無の蟒蛇〟だ。誰も見た事はないが、それは確かに存在するらしい。隷王が天界と魔界を滅ぼそうとした時に使った武器を、目的に合わせて改造したものとも言われている。まあ何にせよその装置は、馬鹿げた力を秘めている。人間界にいる時こそ俺たちは弱いが、自分の世界じゃ魔王や天主とまではいかなくとも、不老不死に限りなく近い身体を持っている。それを一瞬で灰にするだけの力。神もおそらく殺せるんだろうな。だからこそアーガスは――――虚無の蟒蛇を手に入れた。ディプロスを殺すために」

 

 獣を―――俺を……暖めたのは。


「どこで手に入れて来たかは知らん。少なくとも魔界の方には手に入れたという情報しか来ていない。まあ、天界じゃディプロスの存在そのものが隠されているからな、虚無の蟒蛇が天界にあるのを知っている天人は、ほとんどいないだろう。知れたら大騒ぎだ。隷王の協定にひびを入れるような話だからな。魔界は既に大騒ぎだ。ガセだと思いたいが、アーガスの動きはかなり怪しい。聖導府から役人のほとんどを追い出し、何かの準備を進めている。それも妙に落ち着き払って、だ」

 

 温もりを与えてくれた。

 氷を溶かしてくれた。

 理屈など、一つも口にしなかった。小綺麗な事など、何一つ口にしなかった。

 家族。

 家族になりたいと。

 

 ――――ずっと一緒にいたい。

 

 その言葉を囁いたのは、あいつの方が先だった。でも最初にそれを抱いたの俺の方が先だった。それだけは間違いない。俺の方が先だったんだ。

 ……痛いほどに。

 狂おしいほどに、想っている。


「いずれにせよ、ディプロスは―――あのお嬢さんは、天界に連れて行かれたら終わりだ。殺されるか……あるいは殺されたくなるような目に遭わされる」

 

 ―――イリス。

 イリス、イリス、イリス!

 弱かった。

 放っておけば死んでいた。

 名前も記憶も、何一つとして持っていなかった。

 重ねたんだ。

 自分を。

 あの日の自分を、森に捨てられていた自分を。

 助けたかった、救いたかった。もう一度やり直したかった。

 自分を。

 今この瞬間の自分を、孤独から逃げ続けている自分を。目の前のあいつを救う事で、自分が救われたかったんだ。


「アーガスが人間界であの子を殺そうとしなかった理由は二つ。殺せるかどうか解らない上に、下手に封印が解けて覚醒されては困るため。そして目の前で死ぬのを見届けないと不安だから、だ」

 

 そして。

 あいつが俺を超えてからは。

 俺が見えないものを見つけるようになってからは。

 今度は縋ろうとした。

 その手で引っ張り上げてもらおうとした。

 この穴の底から。

 暗くてじめじめして、光なんか一滴も届かない闇の中から。己で願い、己で落ち込んだはずの虚無から。逃避から。俺は更に逃げようとしたんだ。


「天界に連れて行かれてしまえば、俺たち悪魔にも―――そして人間であるお前にも、手は出せなくなる。だから人間界にいる間だけ、お前はあの子を取り戻す事が出来るんだ………お前はディプロスである事を知った今でもまだ―――あの子を大切に思っているんだろう?」

 

 ……醜いんだよ、俺は。

 直視できないほどに、醜くなってしまったんだよ、俺は。

 だから今更見ようとしたところで、どうする事も出来やしない。せいぜい鏡になって、全てを反射するくらいが限界だ。いない振りをして、緩やかに腐っていくんだよ。


「大方、お前の迷惑になるのを怖れたあの子が、自分から行くと言い出したんだろう? 例え自分が殺されるかも知れないと解っていても、あの子はきっとそうしただろう。お前達二人を見た俺なら解る。あの子はお前の事をどうしようもなく愛しているんだ。お前のためなら何だってするさ。だがお前は解ってるはずだ。いくらお前の迷惑になりたくないと思っていても、あの子の本心は変わらない。お前と一緒にいたいんだ。お前だってそうだろう?」

 

 ―――この想いすらも。いつか腐ってしまうのか。

 抉られた痛みを放つ、この確かな光り輝くものでさえ、俺は醜く歪めてしまうのか。


「あの子の本当の願いを叶えてやれよ。お前の本当の願いを叶えてやれよ。建前なんかに縛られる必要はない。自分に素直になれば良いんだ。何も怖れる必要はないんだよ」

 

 ……ああ。

 でもそれはずっと前から気づいていた。

 自分が行き着く先など、あの時から気づいていた。

 カイは。

 もしかしたら、いち早くこの臭いに気づいたのかも知れない。ものが腐る、ひどく気分の悪い臭いに。だから俺を置いていったのか。だから俺を―――俺を捨てたのか。

 憎しみは、あったのかも知れない。

 でもそれ以上に己の醜さを知っていたから。

 森を出て、あの人を探しに行こうとはしなかった。会えたところで帰ってきてくれるはずがないし―――俺に嫌な顔をするところを、見たくなかったから。

 だから二回目なんだよ、これは。

 本当は三回なんだろうけど、俺は覚えていないから。やっぱり二回目なんだよな。


『ごめんね……』


 拒絶は。

 初めてじゃなかったんだよ、本当は。

 忘れていただけ。

 忘れたかっただけなんだよ。

 だから別に……別に。

 納得する必要もないし、考える必要もないし、悲しむ必要も憎む必要もないんだ。また戻れば良いだけなんだ。流されて、逃げて、獣に戻れば良いのに―――なかなか戻れないんだ。戻るのを邪魔するものがあるんだ。


「今がチャンスだ。天人達の数は減り、しかも俺なんかよりもよっぽど強力な悪魔と戦っている最中だ。隙を見て助け出せ。俺も少しなら手伝ってやれる。なあに、今更この身体でどうにかしようとは思っていないさ。俺はもうあの子は諦めたよ。お前と共にいるべきだと思ったからな。そう、だからお前が望みさえすれば――――――――」

 

 消えないんだよ……。

 この熱は。

 この温もりは。

 与えてくれた者がいなくなっても。

 強い力で抉られても。

 暖かい。

 まだ、暖かいんだ。

 消そうとしても消えない。無視しようとしても無視できない。あいつが傍らにいたときほど輝いてはいないけど、それでもやっぱり明るいんだ。

 俺は。

 俺は……。

 

 ―――なくしたくない……。

 

 ずっと感じていたい。

 この光を、この熱を、この温もりを。

 ずっとずっと。

 持っていたいんだ。

 誰に捨てろと言われても、どんなに重くなっても。例え更なる絶望を味わうことになったとしても。

 だってそうだろう?

 これが。

 きっとこれこそが。

 俺の。

 ……俺の心、なのだから。

 もう二度となくしたくはない俺の心。この想いを。

 ――――手放してなど、やるものか。

 

『世界を敵に回す程度の覚悟じゃ駄目だ―――――守る相手すら敵に回す覚悟が、必要なんだ………』


 足りない。

 それだけじゃ、まだ足りない。

 その先にある。

 その一歩先に、俺の進むべき道がある。

 俺は。


「俺は―――――俺を敵に回すぞ」


 涙が一つ、静かにこぼれた。

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