第二話 出会い
ジンは森の中を歩いていた。
もちろん散歩などではない。
いつものように獲物を探していた。
兎。
鹿。
猪。
大抵は兎などの小動物で、鹿や猪は本当に時折しか捕まえない。
彼は弓を使うが罠も多用する。
警戒心の強い森の動物たちを見つけるのは基本的に困難であり、遭遇するのは希だった。
彼にとって狩猟は生活の糧であり、娯楽などであるはずもなく、それ故に獲物が捕れないという事実は、その日の食事が野菜だけになるという事になる。
それでは翌日満足に動けず、狩りの精度が落ちると言う悪循環になってしまう。
だから彼は一日最低でも兎二匹を捕まえることを目標にしていた。
現在、腰に下げた猪の皮で出来た袋は空っぽである。
それはつまり、捕まえた獲物がゼロであると言うことを意味した。
しかし昼過ぎである今、朝から歩き回っているジンの顔は暗くはない。
家を出たときから表情は少しも変わらず、ただ淡々としている。
それは彼が狩人であるが故だった。
獲物が捕れない時などざらにある。
でもそれに焦りを抱いてしまえば、ろくな結果にはならない。
いつも通り、ゆっくりと落ち着いて獲物を探す。
それが狩人を生業としている者の考え方であり、彼の考え方でもあった。
ジンの足取りに迷いはない。
彼がどれだけの日々を生きてきたが、それが解るものの一つだった。
ふと、音を立てずに歩いていた彼の足が止まる。
しかし木々が生い茂る彼の周囲には何も見えない。それどころか彼は目を閉じた。
そして何かを見つけたのか、さっと方向転換し、早足で歩き始めた。
耳で獲物の気配を見つけたらしい。
もし彼が狼のような耳を持つ動物であったのなら、彼は自分の耳をピンと立て、くるくると動かしていただろう。
ぼうっとしていた彼の目が、突然見開かれる。
下を向いた視線の先には、柔らかな腐葉土の上に残る獣の足跡があった。腰をかがめ、それに触れるとさらさらと崩れた。
足跡が残されてからそれほど時間が経っていないことが解る。
ジンは腰をかがめたまま、その足跡を追い始めた。
足を動かしながら、その頭に思い浮かべたのは一つの獣の姿。
猪のそれである。
足跡の大きさから、その主は大きな雄であると判断した彼は、その顔に緊張の色を滲ませた。
猪は手強い。
その身体を覆う剛毛と分厚い皮膚は、ジンが用いる矢を容易く弾き返す。
罠も簡単に蹴散らされてしまう。
攻撃に転じれば、凄まじい突進の勢いを付与されたその硬い鼻と鋭い牙は、ジンを一撃で行動不能にする力を持っている。
狩るには非常に困難な獲物、それが猪だった。
ジンの足がぴたりと止まる。
大きな木に張り付くように身体を預け、その根元に腰を下ろした。
細心の注意を払いながら、木の陰からゆっくりと顔を出す。
視線の先。
木々の開けたところ、巨大な猪の姿があった。
ジンの喉がごくりと音を立てる。
猪は彼の予想以上の大きさだったのだ。
地面を前肢と鼻で掘っているその姿は、大きな黒い岩のようだった。
身体を覆う硬質の毛は太陽の光を跳ね返し、ぎらぎらと輝いている。
口の隙間から覗く牙はいかにも鋭く、突き刺さったときに生じるであろう痛みの想像が、ジンの身体を硬くした。
ゆっくりと顔を前に戻し、彼は目を閉じた。
狩れるか否か。
それを判断する間、彼は自分の持つ道具を順番に手で触っていった。
弓と矢。
投石用の布。
金属製のナイフ。
強靱な紐。
使えそうなものはそれくらいだった。
対猪用の大きな落とし穴も準備はない。
普通に考えれば、ここは退く以外の選択肢はなかったのだが。
ジンは目を開けた。
その顔つきは確かに狩人のものであったが、本来冷たくあらねばならないその瞳は、強い熱を持っていた。
興奮していたのだ。
今まで遭遇した獲物の中で、最も大きい猪を前に、彼は自分を試したくなっていた。
狩猟はジンにとって生活の糧である。
だが同時に、自分という存在を全身で感じる事が出来る、自己表現にして自己確認の場であった。
ジンは微笑んだ。
それはあまりにも獰猛な笑みで、人間と言うよりは獣のそれだった。
だがそこに透けて見える好奇心は、明らかに人間のものだった。
音を立てず、ゆっくりと大きく深呼吸をした。
手頃な大きさの石を引き寄せ、それを布でくるみ、宙をかき混ぜるように回転させ始めた。
風切り音がなる速度まで到達した瞬間、木の陰から半身を出し、鋭い投擲を放った。
ヒュンッという甲高い音と、ゴツッという鈍い音はほぼ同時に聞こえた。
頭部に走った痛みに驚き、次いでそれを自分に与えた人間の姿を見つけた猪は、怒りの咆吼を放った。
ギイイイィィィ―――――!
森の中にそれが響き渡る。
驚いた鳥たちが木々から飛び立っていく中、ジンは疾走を開始した。
ドドドドドと足の裏から伝わってくる振動を聞きながら、時折方向転換したり、速度を上げたりしながら森を駆け抜けていく。
後ろは振り返らない。
そんな事をしなくても追ってきているのは解るからだ。
背筋にがりがりと牙を立てる恐怖が、視覚以上にその存在を感じさせたからだ。
だがやはり、ジンの目からはあの光が消えない。
冷や汗で顔をぬらしながらも、彼はその恐怖を楽しんでいた。
恐怖のすぐそばに自分を感じたのだ。
自分の命を全身で感じていたのだ。
それは一種の麻薬のようなもので、ジンの頭の中を恍惚とさせた。
ぞくぞくと背筋が震える度に、ジンは全身に力が漲るのを感じ、疲労も空腹も一切感じなかった。
どこまでも走っていけそうな気がしていた。
突然、走るジンの表情が変わる。
それは想定の外からやってきたものに対する驚きではなく、予想していたもの、待っていたものが現れたことに対する覚悟の色だった。
猪が再び咆吼を上げる。
付かず離れずで走らされていた猪は、やっと足が遅くなった敵を見て、喜びの声を上げたのだ。
度重なる方向転換は猪にとってストレス以外のなにものでもなく、大きな不満がたまっていた。
その原因となったものを押しつぶす事が出来ると知り、走行を妨げる木々の数が減ってきた事と相まって、更に突進のスピードを上げた。
それはジンが日頃使う矢のスピードよりも速かったかも知れない。
あと少しで鼻が捉える。
そう思った猪は身体を前に突き飛ばすように、四肢に力を込めた。
しかし突然、敵の背中を見失う。
混乱しながらも、減速をしようとした矢先、背中に大きな衝撃を感じた。
猪にはその姿は見えない。
だが、その匂いは感じられた。
敵のそれである。
自分に痛みを与え、自分を走らせ、自分を虚仮にし続けた敵が、今自分の背中に乗っている。
その耐え難い屈辱に、猪は怒りを爆発させた。
空を無理矢理引き裂くような、身の毛もよだつ咆吼を上げ、身体を回転させるように振り回し始めた。
敵を振り落として自分に叩きつけ、それを蹄で押しつぶし、牙で抉る事を猪は激しく欲した。
そして背から重みが消える。
猪はそれが意味することに喜び、再び咆吼を放とうとしたが。
しかしそれは悲鳴に変わる。
突然、前が見えなくなったのだ。
それどころか両目に痛みさえ感じる。
抉られる痛みではなく、染みる痛さだ。
だが視覚を失った猪には痛みの程度は関係なく、混乱と恐怖が身体を支配していた。
前足で目にへばりつくそれを何とか剥がそうとし、しかし生じた鈍い痛みに中断を余儀なくされる。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
続けざまに三つの痛みが身体を走り、猪の混乱は加速した。
猪が冷静であったのならば、それが平地で彼がミミズを食べていた時に与えられた痛みであると解っただろう。
だが今の猪にはそれが解らず、自分が追っていた敵の事も忘れて、得体の知れない何かが自分を攻撃していると思い込んだ。
目が見えぬままに突進を繰り返す。
しかし敵の肉の感触どころか、木々にぶつかる感触もなく、空振りを続ける。
時折身体に走る痛みのだけを目印に、その方角へとひたすらに突進した。
そして、突進が急に止められる。
停止をかけた力は正面や後方、側面からでもなく、それは真下からだった。
足が重い。
ずるずると引き込まれていくように、地面にめり込んでいく。
鼻のすぐ近くまで飲み込まれてから、やっとそれが何であるか猪は気づいた。
それは猪が好むもの。
泥の匂いだった。
ジンは猪が泥で窒息したのを見計らい、長い木の枝とロープを使って猪を沼から引きずり出し始めた。
猪は大きく、また沼の泥がそれを何倍にもしていたので、恐ろしいほどに重たかった。
縄を木の幹に回して体重を乗せて引っ張るのだが、一度に小指の先ほどしか動かない。
思わず諦めたくなるような作業であったが、ジンはそれとは無縁だった。
今日の成果。
今までで最高の獲物。
それをここで手放す気など、彼には塵ほどもなかったのだ。
全身から汗を流し、口からは荒い呼吸を零しながら、彼はロープを引っ張り続けた。
興奮の余韻が疲労を感じさせなかったのかも知れない。
何にせよ、彼は成し遂げた。
夕日が空を赤く染めた頃、ようやくジンは猪を沼から引っ張り上げることが出来た。
「―――ぷはっ!」
泥まみれの猪の横に倒れ込む。
木々の隙間から見える赤い空を見上げ、大きく息を吐いた。
自分の力だけでは本来狩れない獲物。
それを彼は、知識と経験を持って覆した。
まず最初に頭に思い浮かんだのは、この深い泥沼ではなく、猪の目に塗ったそれの方である。
樹液だ。
ジンはいつだったか、粘りけの強い樹液を分泌する木を見つけた。
一瞬それを蜂蜜と勘違いした彼は、それが食べられないものであると知り、その時非常に落胆した。
しかし今まで何の意味も見いだせなかったそれが、今回は非常に役に立った。
布や泥程度で覆ったところで、猪は平気でそれを引きはがしてしまう。
しかし半ば固形に近い樹液であればそうはいかない。
視界を失ったところで攻撃をすれば、猪の混乱は最高潮に達する事を彼は知識として教わっていた。
それを思い出し、彼は狩りの計画を思い描いたのだった。
ジンはのそりと起き上がった。
このままじっとしていれば日が暮れてしまう。
まだ作業は終わりではない。
獲物を家に持ち帰るらなければ、収獲とは呼べないのだから。
ロープを身体に巻き付けるようにして、全身で猪を引きずっていく。
もちろん速くは歩けない。
沼から引き上げる時よりはましだったが、このペースでは家に着く前に日が暮れてしまう。
ジンも当然それを理解していたので、彼は住処ではなく、近くの泉まで向かっていた。
そこで猪の身体を解体し、必要な部分だけを家に持ち帰るつもりだった。
疲労に疲労を重ねながら、やっとの事で泉に辿り着いた。
一休みしたい気分だったが、一度座ると立てなくなりそうだったので、すぐさまナイフ片手に解体作業に入る。
鮮やかな手つきで皮を剥ぎ、巨大なその身体をばらばらにしていく。
肉はもちろん、皮や牙のような硬い骨は色々と役に立つ。
必要なものを毛皮で包むようにすれば、何とか持って行ける大きさになっていた。
ジンは身体についた猪の血を落とすべく、服を脱いで泉の中に入っていた。
最初は水の冷たさに身を震わせていたが、慣れてくると今度は泳ぎ始めた。
疲れていても彼はやはり若く、その気力はある程度回復していた。
泉の底を探索したり、水の中から水面を見上げたりして、しばらく遊泳を楽しんだ。
泉から出てみれば、ジンの顔からは疲労の色がほとんど消えていた。
水気を払い手早く服を着た彼は、収獲を手に巣に帰ろうとして、ふと動きを止めた。
泉の向こう側の岸。
木々が鬱蒼と茂る辺りに、何か光るものを見た気がしたのだ。
好奇心旺盛なジンは、猪の肉を他の動物に採られないように木陰に隠すと、すぐさま泉の端を回り、対岸へと向かった。
手には念のためナイフを握っている。
だらりと下げられたそれは、もし何かが襲ってきたら一瞬で跳ね上げられる形だった。
好奇心と共にしっかりした警戒心を併せ持つところが、如何にも彼らしかった。
目的地に辿り着く。
木々の間に隠れるようにしながら視線を走らせれば、それが目に飛び込んできた。
黄金の糸である。
夕日を反射してきらきらと輝くそれは、ジンが今まで見たものの中で一番美しいものだった。
その衝撃故か、狩人の警戒心が一瞬薄れ、彼は不用心に真っ直ぐそれへと歩いていった。
そして、それが糸でない事を知る。
金色の髪。
それを辿れば、一人の少女が倒れていた。
ジンは咄嗟にナイフを構え、しかし少女が何の反応も示さない事に気づくとそれを下ろした。
恐る恐る近づいてみると、その微かに膨らんだ胸は一定の間隔で上下している。
生きている。
それを知ったジンは、いくつもの表情を続けて浮かべた。
安心。
驚き。
緊張。
怖れ。
そして最終的には。
「どうしよう………」
途方に暮れた。
空は暗く、夜へと近づいていった。