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第二十八話

 左手を右肩にのばす。

 無意識の動作。

 肩から二の腕まで触り、そしてその先に存在しないものを、どうしようもなく探してしまう。

 ザァルは何度かそれを繰り返した後、視線を正面へと戻した。

 倒れた柱のような石に腰を下ろした少年。

 つま先の前辺りの地面を、黒い瞳でじっと見つめているジン。

 ザァルから一通りの話しを聞いてから、ずっと口を閉ざしたままの彼を、夕日が僅かに溶け込んだ鳶色の瞳で、静かに見つめた。

 さて、何を考えているのか。

 少年の心を読もうと、目に力を込めた。だが無表情のその顔からは、何もくみ取ることは出来ない。あるいは無というものこそが、少年の思いなのか。

 ザァルは自分の耳に聞こえない程度に、ゆっくりと息を吐いた。

 ……参ったな。

 少年に呼び止められた時は、上手くいったと思った。最初から立ち去るつもりなどなかった。興味を失ったように見せかけたのも演技、こちらに別の思惑があるのを気づかせないためである。少女が襲われていると聞いても動かなかった時は正直焦ったが、天主アーガスの目論見を聞かされていないのではないか、という予測は正解だったらしい。少女が処刑されるだろうという言葉には、すぐさま食いついてきた。気まぐれな悪魔を演じつつ、少年が望む情報は全てくれてやった。もちろん、隠すべき事実を隠した上で、だ。しかし。

 やっぱり駄目か……?

 少年はこちらの話を聞くばかりで、自分は何も語ろうとはしなかった。なぜ少女を手放したのか、なぜ危険だと知っても助けに行こうとはしないのか、なぜ――――絶望に似た色を顔に浮かべているのか。

 黙したまま。

 身じろぎもしない。

 瞬きや呼吸をしているかどうかさえ、危ういものだった。

 故に、ザァルは困っていた。

 少年が何の反応を示さない事ではない。彼がディプロスを、あの少女を助けに行こうと言わないことが、である。

 ザァルの望み。

 それは依然として変化していない。己の身の安全、すなわちこの戦場からの脱出である。その障害となっているヴィクトールの排除、あるいは障壁の破壊を、彼は望んでいる。必要なのは覚醒したディプロス。覚醒に必要なのは少年。彼の目論見は、危険を知った少年が少女を助けに向かい、しかし逆に窮地に陥った少年を覚醒したディプロスが助けるというもの。少年を窮地に陥れるのはヴィクトールであるのが一番望ましい。

 具体的なものなど何一つ決まっていない、計画とも呼べない代物であるが、少年が行動を起こしてくれない事には何も始まらない。だからそう、彼にはこの事態はひどく苦いものだった。

 ……いっその事、魔法使って傀儡にするか? でも、もし俺が操ってる事を気づかれでもしたら、窮地に陥るのはむしろ俺の方だ。

 やはり、少年が自発的に動いてくれる方が良い。

 だが、どうやって促したものか。

 俺の計算では今頃、森の中で劇の幕は開いているんだが。こんなヒスコックの遺跡なんぞで夕日を見つめているはずじゃない……。

 ザァルは思わず頭を抱えそうになった。

 確かに、目の前の少年のことはほとんど知らない。名前と、森で住んでるらしい事と、少女を拾った事くらい。何を基準に物事を考え、どういうアプローチをするのか。その頭の中を予測する情報を、自分は致命的なまでに持っていない。だがそれでも少年が少女の危機を知れば、迷わず助けに行くだろうと確信していた。

『目的は何だ』

 あの時、彼にそう言い放った少年。

 その瞳。

 その声。

 その空気。

 全てが一つの目的のためだけに研ぎ澄まされていた。

 ―――少女を守る。

 秘められた確固たる意志。

 それを五感で感じた彼は、思わず少年に感心していた。

 これが人間だと。

 これこそが人間だと。

 神が嫉妬し、悪魔が唾を飲み込む、脆く儚い人間の姿であると。

 限りある生を知り、その先にある死を見つめてなお、望みを抱くものであると。怖れ怯え、時に膝を折り、時に後退しながら、それでも諦めずに地平を目指す人間の姿だと、彼はそう思った。

 少年は地平を知っている。

 そしてそれを目指し歩き出した者だと、ザァルはあの時確かにそう思ったのだ。

 だが。

 今目の前で地面を睨んでいるだけの少年は、歩みを止めている。その顔に見え隠れする、絶望に似たそれの名前を彼は知らないが、それをどのような者達が浮かべるかは知っている。彼らは歩けないほどの怪我を負ったのではなく、歩くことを諦めてしまったのではなく、孤独な旅に恐れをなしたのではなく。

 

 地平を見失ったのだ。


 己が目指すべきものを。

 今まで見つめ続けていたものを。

 今なお渇望し続けているものを。

 見失ったのだ。

 少年は、見失ってしまったのだ。

 どこに進めば良いか解らなくなり、途方に暮れて立ち尽くしている。

 どこにも見あたらないそれを、ひたすらに探し続けている。

 先ほど森であった時の少年は、だからこそ呆然としていたのだ。何もありはしない空なんぞを見上げ、その大きさに圧倒されていたのだ。

 当然だ。

 広大な天と地の狭間を行く彼らは。

 地平を目指して進む旅人達は、あまりにもちっぽけで弱々しいのだから。それだけを見つめて全ての恐怖に耐えてきた彼らが、それを見失ってしまえば、無慈悲な天と地に押しつぶされて呆気なく圧死してしまう。何もかも食いつぶされてしまう。

 地平を見失った少年。

 だからこそ、ザァルにはどうしようも出来ない。

 彼には少年が目指す地平に思いをはせる事は出来ても、直接目にする事は出来ない。前を歩き、進むべき道を示してやる事も、傍らで立ち、その身体を支えてやることも出来ない。誰も、誰も。それを教えてやる事など出来ない。同行者のいない一人旅なのだから。

 彼が今まで目にしてきた旅人達。

 彼らは全て、道半ばで倒れた。

 少年と同じように地平を見失った者もいれば、歩く力を失った者も、他者から足を切り落とされた者もいる。だが彼らは等しく砂に埋もれ、大地の一部と成り果てた。泣きながら、笑いながら。果てしない旅を終えたのだ。何人も何人も。数え切れないほどたくさんの者達が、倒れていった。

 地平に辿り着いた者を、彼は一人しか知らない。

 その者は道の途中で様々な力を手に入れた。世界を支配していた傲慢な天魔を黙らせるほどの力。完全な存在に限りなく近いはずの彼らを、見下ろせるほどの力を、その者は手に入れた。その者がやがて地平に辿り着いたことを、一人の悪魔がひっそりと記した。虚言しか紡ぐ事の出来ないその悪魔は、それを記した後、塵に還った。

 ザァルは――――羨ましかった。

 地平に辿り着いた者よりも、塵に還った悪魔の方に、彼は激しく魅せられた。

 旅人の歩みを、挫折を、立ち上がるのを、地平に辿り着いた時に浮かべた表情を、誰よりも近くで見つめ、感じ、そして飲み干した悪魔が、彼は乾くほどに羨ましかった。その悪魔のようになれるのなら、塵に還る事など少しも怖くはなかった。彼はそう、その悪魔のことを知ったときから、ずっとそれを夢見てきた。

 旅人を。

 己の全てを賭けるに値する、その人間との邂逅を。彼はずっと望み続けてきた。今までずっと、その望みを叶えられずに来た。

 少年を見たとき。

 ザァルは一瞬、彼こそがそれなのかと思った。

 ひどく感覚的なもので、すぐさま消えてなくなった。勘違いだとか、こいつは全く話にならないとか、そんな事を考えながら、しかし心の奥底で、もしかしたらと考えずにはいられなかった。そして同時に、正気を失いそうなほどに恐怖していた。旅人との邂逅を望み、望んでいなかった。

 味を知らぬ禁断の蜜。

 それに舌を伸ばすのを怖れた。怖れたからこそ彼は、少年を殺そうとした。無意識に、恐怖に駆られて、本物がどうかも解らない邂逅を遠ざけようとした。

 そしてそれを失敗した彼は。

 必要以上に森から離れる事を望んだのだ。旅人の翳りを見せる少年の元から、一刻も早く遠ざかろうとしたのだ。恐怖所以。そして離別を拒否したのは願望所以のものだった。

 ザァルは未だに無自覚だった。

 自分が少年の元に来た理由が、少年を利用するためという合理的なものだけではなく、少年を再び見定めたいという無意識な願いが含まれている事を。彼は知らなかった。

 だからこそ。

 少年の顔を上げる気配を察知した時、それを見つめようとする自分の瞳に、期待と恐怖が鮮烈に色づいていたことを、彼は気づいてはいなかった。


「俺は――――――」


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