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第二十六話

 気配が増えた……?

 いや、違う。これは同族――――しかも間違いなく上級悪魔!

「畜生!」

 足を止めたザァルはぶつぶつと恨み言を口にしながら、しかし素早くその場にしゃがみ込んだ。

 コートの内側をあさり、小さな銀色のナイフを取り出した。刃先まで精緻な装飾が施されたそれを、彼は無造作に地面に突き立てると、荒々しく線を引き始めた。あっという間に、彼の肩幅よりちょっと大きいくらいの円が出来上がる。彼はその内側に入り、腰を下ろした。魔力を練り上げ、詠唱を開始する。

 短く感じる時間の後。

 朗々と響いていた声は終わりを迎える。

 その瞬間、地面に描かれた円は、音もなく紫色の光を放った。オーロラのように宙に壁を作ったそれは、しかし突然かき消えた。地面に引かれた線だけが、淡い色を残している。ザァルはそれを確認すると、汗の浮いた額を左腕で拭った。

 急ごしらえの防壁。

 無いよりはましと言った程度で、本気で攻撃魔法をぶつけられたら一溜まりもない。だが逃げ回っている間に背中に流れ弾をもらうよりは、薄紙程度の効果しか無くとも、この中にいる方がよっぽど生存確率が高い。

 しかし、状況に応じて移動する事も必要。

 結局は情報の収集が不可欠である。

 それも気配のような漠然としたものではなく、状況の変化を予測できるような、明確な情報が欲しい。直接近づいて覗き見する事は出来ないが………。

 ザァルは視線を空に走らせる。

 正確には空ではなく、突き刺すように天に伸びる木々の先端。そこで彼は何かを捜していた。

 と、視線が止まる。

 鳶色の瞳の先には、黒い翼を嘴で手入れをしている一羽の鴉の姿があった。

 ザァルは鋭く口笛を鳴らす。

 びくりと身を震わせた鴉は、きょろきょろと辺りを見回した後、地面に腰を下ろしたザァルに顔を向けた。

 その黒い瞳が彼の瞳とかち合うタイミングを、ザァルは逃さなかった。

 見開かれた鳶色の目から、魔力が矢のように放たれる。不可視のそれは、異変を感じた鴉がその場を飛び去ろうとするよりも早く、黒い瞳に突き刺さるように飛び込んだ。びくんと鴉が身を震わせ、そしてザァルの身体はだらんと力を失った。

 ぶつんと実際に音がしたわけではないが、彼が感じた感覚はそれに近かった。

 視界。

 見下ろす大地に座り込む、赤いコートを着た男――――彼の肉体がそこにあった。まるで糸の切れた人形のようなその姿を見ながら、

「狭苦しいが、耐えられないほどじゃないか」

 鴉はザァルの声で呟いた。

 順序としてはそれが正しい。

 ザァルは鴉の肉体を奪ったのではなく、一時的に借り受けただけである。完全に乗っ取ってしまえば、勘の良い者には気づかれる可能性があるのだ。可能な限り己を出さず、普通の鴉として振る舞うのが最良の選択だった。

 鴉は身体を慣らすように何度か大きく羽ばたくと、鋭く空へと舞い上がった。

 風を翼で捕まえながら、まだまだ白さが残る青い空を一直線に飛んでいく。

 尋常ではない気配が発せられる、しかし未だ静かな戦場の元へと、黒い翼は向かっていった。


     × × × × ×


 木々の間から出てきた人影を見た時、ヘルマンは表情を少しも変えなかった。

 心中がどうであろうとも、指揮官である自分は動じてはならないと、強く己を律していただめである。だがまあ、例え思いが顔に現れていたとしても、彼の表情は今とほとんど変わらなかっただろうが。

 彼は冷静に、敵の人数を数えた。

 一人、二人、三人……九人。

 二級悪魔が三名。残りは三級悪魔といったところか。この森を彷徨っていた負傷した悪魔は、どうやら合流してはいないらしい。あるいはそもそも別口だったのか。

 まあ、どちらでも良い、と。

 ヘルマンは必要のない思考を破棄した。

 集団の先頭を歩いて来た男―――どうやら集団のリーダーらしき悪魔が、足を止めた。その顔に浮かぶ表情を考えるとどうやら話したがっているらしいと、彼はそう推測した。そしてそれは的中する。

 紅を引いたような艶やかな男の唇が、透明な笑みを作る。

「やあやあ、天界の皆様。お仕事ご苦労様です――――私は二級悪魔のヴィクトールと申します」

 濃紺を基調とした上等な貴族服に身を包んだその男は、手にした杖を胸に当てると軽く頭を下げた。

 真っ白な髪が、さらりと揺れる。

 自分を真っ直ぐ見つめる灰色の瞳に、返答を促す色を見つけて、ヘルマンは仕方なく口を開いた。

「隊長のヘルマンだ」

 それだけを告げて唇を閉じる。

 彼は言葉を操る外交官ではなく、剣を振るうことが仕事の武官である。必要とは思えない会話をするつもりは毛頭無かった。

 無言の主張を受け取ったのか、男は不服そうな笑みを浮かべたが、やがて肩をすくめた。

「まあ、仕方ありませんね。単刀直入というのは、あまりにも粗野で、私の好むところではないのですが。今はあなた方の流儀に従いましょう」

 嫌みなその台詞も、男にかかれば逆に相手を褒めるようにも聞こえた。

 くすりと可愛らしく笑うと、男は彼の後方―――彼の部下に両脇を囲まれる少女に、視線を飛ばした。

 ヘルマンは振り返らなかったが、少女が身を震わせたのを確かに感じた。

「そちらが………なるほど。我らが救世主となられるお方ですか」

 一瞬。

 男は―――ヴィクトールと名乗ったその悪魔は、笑みの下から本性を現した。

 肉を前にした飢えた獣のような、恐ろしく獰猛な気配を身にまとった。

 しかしすぐに消し去る。

 ヘルマンに視線を戻した時、悪魔の顔は再び淡い笑みで隙間無く覆われていた。

「お渡しいただきましょう」

 簡潔に告げられる。

 その台詞はしかし、相手に有無を言わせぬ力を影に忍ばせていた。灰色の瞳に、顔のすぐ前で見つめられているような気分になりながら、ヘルマンは自分の中に一瞬湧いた畏怖を蹴散らすべく、首を強く横に振った。

「断る。こちらは天界のお方、魔界の者が口を出す話ではない。お引き取り願おう」

「天界のお方、か。はは―――良くもそんな事が言えたものですね。まるでその方を大切に思っているような口ぶりじゃあないですか」

 ヴィクトールは余裕を見せつけるように、やれやれと首を振った。聞き分けのない子供を相手にしている風でさえある。

「そいつは嘘ですよ。あなた方ではなく、我々の専売特許です。使ってはいけませんよ」

 しかしその瞳だけはどこまでも冷たく、視線で射殺そうとでもするかのように、じっとヘルマンを捉えていた。

 ―――この男。やはり我々以上に情報を掴んでいるらしい。

 確信を抱く。

 ディプロスを手に入れ、魔界に連れて帰ろうとする上位悪魔。その背後にはまず間違いなく王族が存在するはずだ。ディプロスに関する情報をほとんど与えられなかった彼ら聖務執行部隊に比べ、より多くの事実を掴んでいるというのは、決してあり得ない話ではなかった。むしろ目の前の悪魔の方が普通で、彼らの方が異常であるのだから。

 ともあれ、彼の立場は変わらない。

 手駒である自分の意義を深く理解していた彼は、自らに思考を禁じていた。

 だからそう。次の瞬間悪魔の口から飛び出した言葉を、彼は決して待ち望んでいたわけではなかった。

「〝虚無の蟒蛇(うわばみ)〟―――協定を無視して隷王の領土に侵入し、あれを盗み出してきたのは他でもない。ディプロスの抹殺が目的でしょう……?」

 見下す灰色の瞳が、冷たく凍る。

 瞬間。

 ざわりと空気が震える。

 それは後方、今まで優秀な兵士特有の冷静さを身にまとっていた彼の部下達が、息を飲んだその音だった。動揺と混乱が広がっていくのをヘルマンは背中で確かに感じた。

 目の前では悪魔が満足そうに笑っている。

 ヘルマンは己の失態を悟った。

「やはり知らされてなかったようですね。まあ、あなた方はどうでも良いのですが――――そちらのお嬢様は、どうです? 我々と共に来る気になられ」

 ましたか、と。

 そう続けようとした悪魔の頭は、回転しながら宙を舞っていた。

 ごとんと音を立てて地面に転がる。

「隊長――――」

 隣で呆気にとられたような声を上げたエドガーには答えず、ヘルマンは剣を振り抜いた姿勢のまま、鋭く命令を発した。

「彼らを障害と認定。迅速に排除する」

 背後のざわめきがぴたりと消える。

 冷静さを取り戻し、己の為すべき事を知った彼の部下達は、迷うことなく行動を開始した。

 身体を包む補助魔法の暖かさをヘルマンは感じながら、首を失いながらも未だ立ち続けたままの悪魔の胴体へと斬りかかった。

 しかし彼の剣は空を切る。

 驚くほど俊敏な動きを見せた首無しの身体は、大きく横に跳んでいた。

 憎たらしいほどの優雅な動きで、憎たらしいほどの柔らかい笑みを浮かべた頭を、それは両手で拾い上げた。

 ステッキを持ったのと反対の腕に抱かれたそれは、くすくすと囀った。

「ご立派ご立派。悪くない判断です。ですがやはり野蛮、見るに堪えない醜さです」

 ヘルマンは耳を貸さず、今度こそ悪魔を抹殺するべく、踏みしめた土が爆ぜるほどの勢いで距離を詰めようとした。

 しかし、視界の外から飛び込んできた銀光に、それを止められる。

 襲撃を受け止めた彼の剣がびりびりと震える。

「隊長殿の相手は俺だ」

 無骨な両手斧を持った大男が、ぎらぎらとした目でヘルマンを見つめていた。

 彼は素早く後ろに跳び退ると、剣を大男に向けて静かに構えた。

 男が目に喜悦の色を浮かべるのを見ながら、彼は胸の内で小さく呟いた。

 あの憐れな少年が、彼らを追って来ないで本当に良かったな、と。

 最後に見たその顔を思い出して、寂しげに笑う。

 ――――もしかしたら自分は、本当は彼が追いかけて来るのを望んでいたのかも知れない。彼が少女を連れて逃げ出してくれるのを、心の底で望んでいた……今でも望んでいるのかも知れない……。

 風を巻き込みながら迫り来る斧の軌跡を見やると、ヘルマンは頭の中から少年の顔を消し去った。


 駒達の戦いが始まった。 

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