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第二十五話

 魔法障壁に脱出を阻まれた後、ザァルは行く当てもなく森の中を彷徨っていた。

 きびきびと動く足はいつも通り。

 しかしその顔には、いつもの様な怠惰を望む色は少しも見あたらず、焦燥と恐怖、そして後悔に似た何かがぴりぴりと走っていた。

 くそっ、と。

 今にも毒づきそうな風だったが、その余裕すらもないほどの事態である。そしてそれが解る程度には、彼はまだ冷静さを失ってはいなかった。頭の中は状況の分析とその対応に追われている。

 あれは天人の魔法。

 強力無比な構成から見て、間違いなく武官。それもかなり上位の……おそらく天主直属の執行部隊だろう。未だに天人達に事実を隠蔽しているのであれば、動かせるのはせいぜい小隊程度。周囲の目を気にするアーガスの事だ、それは間違いないはず。だとすればこの森の中に来たのは、十人以下の精鋭武官。戦闘にでもなれば彼の首は一瞬で宙を舞うだろうが………。

 ―――連中もなるべく戦闘は避けたいはずだ。白の惨劇の余波があるし……何より事は急務、一刻も早くディプロスの回収を目指すはず。

 あのレベルの障壁を張るくらいだ、広域探査くらいは気軽にやるだろう。例え万全の状態だったとしても、容易く発見されるに違いない。だが彼らはよほど接近でもしない限り、彼を攻撃しようとはしない。願望も多分に混じっているが、その確率は決して低くないはずだ。

 だとすれば、だ。

 ディプロスを捜す連中から逃げ続ければ、彼のひとまずの身の安全は保証される。幸い気配を読むのは得意である、相手が行動範囲を変え続けたとしても、その〝視界〟に入らない様に動くのは可能。まだまだ絶望する様な状況じゃない。

 行動指針が固まりかけたその時。

 ザァルのきびきびと動いていたその足が、地面を踏みしめる寸前、宙でぴたりと静止する。

 彼の顔は緊張に張り詰め、一方を睨んでいる。

 唾を飲み込むような音が聞こえてきそうな視線の先、青々とした木々ばかりが広がっている。特に何の姿もなく、この森の中であればどこにでもある景色である。

 しかし彼が見ているのは、更にその先。

 目では捉えきれないほど遥か遠く、気配だけがびりびりと走ってくるその空間だった。

「来やがったか………!」

 ザァルは吐き捨てる様にそう呟いた。

 歯を食いしばり、顔を向けていたのとは真逆の方角へと早足で歩き始めた。

 焦燥は相変わらず。

 しかし彼は走らない。

 走ることが出来ないのではなく、彼は歩くことを選択したのだ。

 先ほどから途切れる事なく肌を刺す強力な気配は、まだ目立った動きを見せてはいない。もし彼らがこちらにやって来た場合、離れすぎると逆に自分を追い詰める羽目になるためだった。

 なぜなら彼がいるのは区切れた空間、障壁で囲まれた森の中だけなのだ。距離を稼げばうまく行くというほど甘い話ではない。彼我の距離と行動可能なエリアを見比べながら、頭を使って接触を回避する。それが彼のやるべき事だった。

 肉体よりも、精神力との勝負。

 心が折れ、諦めが全てを支配した時、彼は死に飲み干される。

 集中力を切らさず、しかし適度に気を抜きながら。

 敵よりもむしろ己と戦い続ける。

「上等だ……くそ野郎」

 早くも背筋を舐め上げた絶望の舌を、鼻息荒く振り払った。

 遠くの気配が動き出す。

 顔は緊張で強く歪みながら、しかし彼は瞳で笑った。

 

     × × × × ×


 エドガーは集団の先頭を歩かされていた。

 その後ろに続く隊長の判断である。

 冷静が戻った様ではあるが、目の届くところに置いておかないと不安であると、隊長を含めた誰もがそう考えたためである。

 誰からも見えない彼の顔は、というと。

 ―――やってしまった。

 そんな表情を浮かべている。

 とは言え、さすがに訓練所の全ての教官達から逸材と褒め称えられただけはあり、その意識は既に切り替えられている。隙のない鋭い目つきで周囲を警戒しており、何か事が起きたときのため、頭のほとんどは無意識に近い空白で満たしている。傍から見れば、誰もがきっと満点に近い評価を下した事だろう。

 しかし残念ながら、内実は異なった。

 頭の片隅。

 そのさらに隅の隅で、エドガーはぐるぐると同じ命題を考え続けていた。一定の答えが見つからない問いに良くある話、それは理論ではなく感情で量られていた。

 気の抜けた少年。

 日暮れと共に出発した彼らに、何も言ってはこなかった。

 会いたくないと言ってきかない少女も、最後まで少年に別れを告げることはなく、結局飛び出していったあの時が、二人の離別となった。

 少女は天界のどこかに幽閉され、そこから出されることはなく、神に与えられた永劫の時を過ごす。

 少年はこの森で今までのように生き、やがて死ぬ。

 人の一生は短い。

 千年近い寿命を持つ天人の彼から見れば、恐ろしく短い。

 人間達は彼ら天人の十分の一ほども生きられないのだ。自分の生に何が意味を見出したときには、既に死が間近に迫っている事だろう。ならば人間は自己の獲得と共に、深い絶望を味わうのではないか。あまりにも短い自分の時間に、例えようのない痛みを覚えるのではないか。生きることを、どうしようもなく厭うのではないか。と、彼はそう考えてきた。

 ―――そして今、彼はそう考えてはいない。

 例えばこの寒さだ、と。

 エドガーは冷たい身体を小さく震わせた。

 彼はこんな感覚を味わった事は今まで一度もなかった。天界の気候は変わらずに温暖で、暑さも寒さも存在しない。悩みと言えば、天気の良い日に何もせず外にいると、思わずうとうとしてしまう事くらいだ。気候が本気で恨めしいと思った事はない。

 人間界には四季がある。

 その中でも冬は殊更に厳しく、命を落とすものさえいるのだと、幼年学校の授業で教わった。

 想像などつかなかった。

 だが、仮にそれほど過酷なものであるのならば、きっと誰もが冬を嫌がるに違いない。少なくとも自分は嫌いだと、そう思った。

 だが、今。

 実際にその一端を肌で感じている彼は、確かにこれを好んではいない。全身の感覚は鈍いくせに、手足の先などは集中力を削るほどに痛む。身体を包む冷気は無闇に孤独を感じさせたし、熱を失った鼻の頭の感触も気になって仕方ない。

 ……でも、悪くはない。悪くはないんだ。

 静かに胸中で繰り返した。

 この寒さは、負の面が確かに多い。生きるものにとって―――彼の身体にとって、冬は可能ならば避けたいものであるだろう。まだまだ寒くなるという話だし、授業で聞いた時は冗談のようにしか聞こえなかった死の危険も、形が見えるほどに明確になってきている。冬は肉体を死へと誘う。

 しかし心は。

 肉体と同様、寒さに震え、暖かい故郷への到着を待ち望むこの心は、かつて無いほどに色鮮やかではないだろうか。張り詰めた過酷な世界の中で、より一層の光を放ってはいないだろうか。そこに抱かれた意志は、自分でも驚くほどの力に充ち満ちてはいないだろうか。

 あの少年だ。

 森で出会ったときの、あの黒い瞳だ。

 残酷とも言える世界の中で研ぎ澄まされ、身震いするほどに烈しかったあの意志だ。

 生の傍らには常に死が存在し、だからこそあの瞳はどんな宝石よりも光り輝いていた。

 あの光は、安穏な天界では得られない。

 そこにあるものに対し、どこまでも無慈悲で苛烈なこの世界、この森だからこそ、手に入れる事が出来るものだ。

 ――――違う。

 生きようとしたものが、自ずと研ぎ澄まされるだけだ。

 純粋にして唯一の、しかし達成するにはあまりにも困難な望み。それを叶えるために結果として手に入っただけの爪牙なのだ。

 だからこそ。

 だからこそ、この森で生きるもの達は―――あの少年は、嫉妬するほどに美しいのだ。全力で生き足掻いている彼らは、それ以外の事など見向きもしない。よそ見する余裕などありはしない。

 だからあの時。

 淡々と問いを発してきた時の、あの少年は。

 きっと彼を見ていたが、きっと彼を見ていなかったのだ。

 あの少年が見ているのはいつだって一つの未来。一瞬先、自分が生きているその世界のはずだから。

 ……だとすれば。

 今のあの少年は、それを見失っているのか……?

 声にならないエドガーの呟きを遮るように、後ろでぱんと手を打つ音が響いた。

 足を止めて振り返れば、皆の顔を見回す隊長の姿があった。

「ここいらで一旦休憩にしよう……イリス様は、そこの木の根元辺りにお座りください」

「……はい」

「この布をお敷きください」

 隊長に誘導される少女の顔を、周囲の見張りに立ちながら盗み見た。

 落ち込んでいる。

 というその表現は、少々生ぬるいだろう。

 生気がない。

 絶望に似た色さえその瞳は抱いている。

 見ているだけで痛々しく、その表情を生み出した自分達がどうしようもない悪党のようにさえ感じた。

 どうしても消えない口の中の苦みを噛みしめながら、エドガーは視線を前に戻した。

 ……イリス様、か。

 隊長はおそらく、あの少女のことを考えてそう呼んでいるのだろう。本来名前のないはずの少女が、あの少年に与えられた名前。少女にしてみれば、おそらく命と同じくらいに大切であろう、その名前。それを呼ぶことで、少しでも気を休ませようとしているのだろう。しかし本当に呼んで欲しい人間は、ここにはいない。少女が自分で置いてきてしまった。

 どっちも馬鹿だ、と。

 エドガーは苛立たしげに鼻を鳴らした。

 少女は少年の身を案じる余り、少年が最も大切であろうものを奪ってしまった。自分の選択に心を引き裂かれ、痛みに狂いそうになっている彼女には、少年の顔も心も見えてはいなかったのだろう。母親に捨てられ子供のようなあの顔を、一目でも見ていたなら、きっと自分の選択が間違いだった事に気づいたはずだ。対人経験の薄い、見た目に反してまだまだ子供の彼女にそれに気づけと言うのは、酷な話かも知れなかったが。

 ……やっぱり、あいつが馬鹿だ。

 エドガーの青い瞳に険が宿る。

 森で生きる少年。

 過酷な世界で、己が生き延びるためだけに足掻いてきただろう少年。

 ある日少女を拾って、少年が何を考えたのか、彼は知らない。

 だがそれでも解る事がある。

 少女を守るために、迷わず自分に襲いかかってきた少年の姿に、見えたものがある。

 命。

 己の生。

 少年が欲する一瞬先の未来。

 少年が生きている世界。

 少年が望むその世界に、確かにあの少女が存在しているのを、彼は見たのだ。

 ―――なのに、何を迷っているんだよ……! 何を見失っているんだよ!

 かつてはともかく、今はその世界のために生き足掻いているというのに。なぜ彼女を手放したんだ。彼女を手放すという事は、生きるのを諦めるという事なのに――――。

 制御できない激情に、エドガーがぎりぎりと歯を噛みしめた、その時だった。

「隊長! 近くで転移魔法の予兆を確認! この構成は――――悪魔のものです!」

 叩きつけるように放たれた仲間の声が、エドガーの熱を帯びた頭を一瞬で冷ました。

 咄嗟に長剣を腰から引き抜き、周囲を警戒する。

 心臓が大きく跳ねた後、急速に静かになっていくのを、エドガーは全身で感じていた。

「全員警戒態勢を取れ。アルメルは引き続き探査を、ヨルゲンは補助魔法を皆に、ルチアは防壁、エドガーは私の横に来い」

 隊長は落ち着いた声音で、しかし素早く指示を飛ばす。皆、それにすぐさま従う。準備と呼べるものが全て終わったところで、隊長は小さく息を吐いた。

「白の惨劇に巻き込まれないように移動したのが、逆に仇となったか……」

 違う、と。

 隊長のその言葉を、彼は心の中で否定した。

 到着時もそうだったが、白の惨劇のせいで転移魔法が可能な場所は極めて限られている。少女を回収してすぐに転移せず、ここまで歩いてきたのは確かにそのためである。あと少しで転移可能な地点まで辿り着くことが出来たのだが、こまめに休憩を入れなければ、彼ら執行部隊はともかく、見るからに弱っている少女の身体はもたなかった。

 仇となったのは行動の選択ミスでも、移動に費やせる時間が足りなかった事でもなく。

 ―――あいつとこの子を引き離した事だ……!

 剣の柄を握る手にぐっと力を込めるエドガーの耳に、敵襲を告げる仲間の声と、木々の向こうから聞こえる足音が、うるさいほどに突き刺さった。

 そして状況に取り残された少女の小さな呟きが、一番大きく響き渡り、長く残り続けた。


 ―――ジン……。


 夜明けの色を残す青空の下。

 呼ばれた者は、しかしそこにはいなかった。 

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