第二十一話
エドガーは混乱していた。
最初、天人の特徴である金髪を目にして、咄嗟に部隊の仲間だと考えた。
追いかけてくるのが遅い。
そう言われた瞬間、やはりそれが正しかったのだと―――自分が今標的の捜索中で、他の仲間もそれぞれの持ち場に散らばっているにも関わらず―――そう思い込んだ。
反射的に謝罪を口にし、両手まで上に挙げてしまった。
まるで犯罪者の様な己の振る舞いを恥じ、何やら言い訳じみたものを口にしようとしたところで、自分を見つめている目の前の人物に見覚えがないことに気づいた。
いや、それは正確ではない。
部隊の仲間の顔の中に見覚えがなかっただけで、よく考えればどこかで見た顔である。
しかしどこだったか。
出てきそうで、出てこない。
頭の中に引っかかったまま、彼は目の前の人物に釣られて首を傾げた。
と、そこに、ため息がやってくる。
首を傾げたまま、エドガーはそちらに視線を飛ばした。
黒髪と黒眼。
見た目だけで言えば、自分とさほど年が変わらないように見える少年。ため息の主はその人物だった。
僅かに後れて彼を見つけたその黒い瞳は、一瞬で槍の穂先のように鋭利になる。
「お前―――――誰だ」
ぞくりと背筋が痺れた。
殺意ではない。
敵意でもないのかも知れない。
そもそも感情がないのだ。
ただその問いは、ひたすらに冷たく、そしてその瞳同様、どこまでも無慈悲だった。
喉元に剣の切っ先を突きつけられたような感覚が、エドガーを正気に戻し、そして引っかかっていた記憶の浮上を促した。
――――あ。
声こそださなかったものの、彼はそういう顔をした。
黒髪の少年に張り付いたままの視線を何とか引きはがし、彼は金髪の人物―――少女の方を振り返った。
驚きに目を見開いた顔は、資料の中で見たものとはかなり異なるが、間違いなく標的のそれだった。
………ディプロス!
世界を破滅に導くと言われている少女は、戦慄に身を震わせる彼を指さした。
エドガーは心臓を鷲掴みにする恐怖に、身をぎょっと強ばらせた。
「あなたはだーれ?」
これは特務である。
身元は出来るだけ明かしてはならない、と。
隊長にそう言われていたにも関わらず、新たな混乱―――先ほどよりも激しい混乱に襲われていた彼は、反射的に答えてしまっていた。
「せ、聖務執行部隊、第四班所属、エドガー・バリエントス三等武官であります!」
「せ……な、何?」
眉をひそめて尋ねてくる少女を見て、彼は己の失態に後れて気づいた。
しまった!
そう言いかけた口を慌ててつぐみ、奥歯を強く噛みしめた。
ぎゅっとしたその感覚に、彼は幾ばくかの落ち着きを取り戻した。
標的と接触した場合の対応。
まずは……隊長に連絡を取る!
自分の為すべき行動を理解すると、エドガーは身動き一つせず、すぐさま魔法を使おうとした。
しかし、
「――――動くな」
鋭い制止にそれを遮られる。
黒髪の少年が、熱のない瞳で彼をじっと見つめていた。
エドガーは顔を強ばらせた。
……まさか。
行動を見抜かれたのか……? 馬鹿な……声に出さず、念話で通信しようとしたんだぞ? しかもまだ、魔力玄素すら練り上げていない。考えただけなのに……ひょっとして気配だけでそれを察知したのか? あり得ない……。
疑問の波に攫われそうになっているエドガーを無視し、少年は言葉を続ける。
「お前はマカイの者か、それともテンジンか。三つ数える間に質問に答えろ」
一、と。
少年が数を数え始めたのを耳にし、彼は慌てて頭を回転させ始めた。
「……二」
しかし、こういった場合にとるべき対応は教えられておらず、依然として放たれる少年の威圧感に押し潰されかけていた彼は、三と告げられた瞬間、
「こ、答える義務はない!」
第三の選択を口にした。
張り詰めた時間がしばらく流れ、そして突然終わりを告げる。
そうかと頷き、威圧感を打ち消した少年を見て、彼は己の選択が正しかったのだと、ほっと心をなで下ろした。
しかし彼は訓練所を出たばかり、今回が初任務の新米武官であった。
訓練は山ほど重ねてきたが、経験は圧倒的に少なかった。
故に判断力も認識力も低く、結果として愚行を重ねてしまっていた。そして何より致命的なのは、それに気づいていない事だった。
だが次の瞬間。
強制的にそれを気づかされた。
最初に彼を襲ったのは、背筋の凍る、その感覚だった。
「――――――っ!?」
驚愕に顔を歪めたエドガーの頭は、それに反応していなかった。
反応したのは彼の身体―――何千何万と行ってきた訓練により、無意識に防御する事を叩き込まれた、彼の肉体だった。
ギイイィィィッ!
耳障りな音を立ているのは、彼の右手が咄嗟に引き抜いた長剣と、そしてぼろぼろの短剣。
膝の前で長剣に食らいついたそれ。
視線で辿れば、黒髪の少年がそこにいた。
まさか、と。
エドガーは思わず笑いそうになった。
大股で歩いても、優に三歩は必要なはずの距離にいた少年は、一瞬で―――視覚が反応しないほどの一瞬の時間で、彼に接近していたのだ。
殺意を持って。
しかしそれを微塵も滲ませず、しかも胸や喉ではなく、反応のし辛い腰下を狙って、だ。
痛みに身をかがませた後に、急所を狙う算段だったのか。解らない―――解らないが、彼の長剣が受け止めているそれは、明らかに彼の命を狙っている。
その理解は、しかし。
逆にエドガーから混乱を取り除いた。
「ハッ――――――!」
長剣の柄を両手で握り、腰から突き出すように短剣を跳ね飛ばした。
ふわりと突然軽くなった感触は、つまり少年自身が自ら後方に飛んだことを意味する。
間髪入れず長剣を正眼に構え、黒髪の少年を見つめる。
が、そこに人影はない。
代わりに見えたのは銀色の点が一つ。
一瞬で大きくなったそれは投擲された短剣の切っ先、エドガーは思考を捨て置き、喉を狙ってきたそれを剣で右にはたき落とした。
瞬間、剣が重くなる。
その異様な感触に視線を転じれば、剣の柄に絡みつく無骨な指が数本見えた。
―――こいつ、僕から剣を奪うつもりか……!
頭の中が沸騰する。
力任せに、しかし鋭く、低い位置のあるその頭に左の膝を放った。
黒髪に己の膝が吸い込まれていくのを見て、彼が勝利を確信した、その時だった。
ふわりと。
緩慢にすら見える動きで、少年が回った。
頭に疑問符を浮かべたエドガーは、しかし次の瞬間、大地を見失った。ぐうんと視界が流れ、
「ひゅ――――――かっ!?」
砕けた。
そう思うほどの衝撃が、背中から全身に走り抜けた。
思考は消し飛び、痛みに塗り潰された。
彼は呼吸の仕方を思い出そうと必死で、口を大きく開けた。
だがそこからは何も入ってこず、代わりに掠れた悲鳴のようなものを内側から吐き出した。
明滅する視界。
そこに振ってくる銀光を見て、彼はしかし、一瞬後に訪れるであろう死の気配に、その時気づくことはなかった。
そしてその後も、なかった。
× × × × ×
「―――――待て!」
制止の声。
だが振り下ろそうとした長剣の切っ先を、ジンは止めるつもりはなかった。
しかし。
「ジ―――ジン……」
咄嗟に手首に力を込める。
倒れた少年の頭のすぐ横に、剣の切っ先は突き刺さった。
ギリギリと軋む音が聞こえそうな動きで、彼はそちらを振り返った。
複数の人間。
彼らの手にした剣。
彼らに囲まれた少女―――怯えたイリス。
それらを一瞬で頭に焼き付けたジンは、
「……………」
無言で、滾った。
剣を地面から引き抜き、両手で構える。
一歩、踏み出す。
「待て。君は悪魔ではないな。人間だな?」
イリスを囲む者の一人。最も年かさの男が、真摯な声でそう尋ねた。
しかしジンは答えない。
音もなく、二歩目を踏み出した。
「おい! 聞こえないのか! 我々は君に敵意はない――――我々の目的は」
三歩目。
それを踏み出しざま、彼は腰を落とし、全身に力を貯めた。
それが戦闘の準備動作である事を一瞬で見抜いたその男は、口惜しげに舌打ちを一つすると、周囲の者達に視線で合図した。
緊張を滲ませた男の顔はしかし、視界の隅でそれを捉えて、呆気なく緩んだ。
「――――このっ!」
かけ声と、ごんと響いた肉を打つ音。
「ジン―――――!」
少女の悲鳴。
そして最後に、少年が地面に倒れ込む音が響いた。
青い顔でふらふらとその後ろで立っているのは、倒れている少年と同じくらいの年格好の男。
ついさっきまで地面に転がっていた彼―――エドガーだった。
「生きてる敵に背を向けるんじゃないっ!」
的外れのその言葉は、彼の仲間を思わず苦笑させた。