第二十話
釣り竿を時折揺らしながら、ジンはちらちらとそちらを観察する。
隣に座るイリスの顔である。
手にしているのは彼が作った即席の釣り竿。
彼と同じように、それを水面に垂らしている。
ぼんやりと。
遠くを見つめるように、水の底を覗いている。
ジンは見た目には表情を変えず、彼女の見つめるそれを覗いてみた。
透き通った川の水は陽光を受けてきらきらと輝いてもいたし、夜の闇よりも暗い色を映してもいた。光に目がくらむのも闇に惑わされるのも、実は大して変わらないことだと、彼はそう思った。
イリスがこうなったのは、ついさっきというわけではない。彼のただ一つの心当たり、彼の過去を話して聞かせた時からでもない。だからそう、彼の話が原因ではない……のかも知れない。
ジンは思わず歯がみをした。
彼女が何を考えているのか、彼女にどのような言葉をかけたら良いのか。それが解らない自分に、どうしようもなく苛つき、悔しがっていた。
あの人は―――カイは、様々なことを教えてくれた。
必要な知識。
不必要な知識。
本当にたくさんのものを、彼に教えてくれた。
だがその中に、今彼が最も欲する情報は含まれておらず、与えられた知識は何の役にも立たなかった。
……俺は馬鹿か。
ジンは胸中でそう呟いた。
イリスを元気にしてやりたいのは自分。
その方法を求め、ここにいもしない者に頼るのは、彼女の顔を無理矢理指で押し上げて笑いの形にするのよりも劣った、粗末な行いだ。
愚かで良い。
失敗しても良い。
自分で考え、自分で選択した行いを為そう。
それが自分を家族だと呼んでくれた彼女に対する最低限の礼儀だろうし、何より彼自身がそれを望んでいる。
お前が躊躇っているのは他でもない。
彼女を傷つける事でも、己が失敗することでもなく、ただ単に自分が傷つきたくないだけだ。
―――いい加減、逃げるのは止めたらどうだ?
ジンは弱い己を切り裂くように、そう思考した。
黒い瞳がきらりと光る。
彼は軽いままの釣り竿を引き上げると、それを無造作に放り出した。
そちらに身体を向ける。
「イリス」
「……ん、何?」
自分に向けられたその顔に、彼は己をぶつけることにした。
「俺はお前が笑っていると嬉しい」
「―――な。何なの、急に?」
顔を赤くして半笑いで首を傾げるイリス。
ジンは構わず続けた。
「今までは違ったが、今の俺の気分とか感情とかは、全部お前に左右される。お前に夢中だと言っても良い」
「そ、そう」
「ああ。朝起きてから夜寝るまで、たくさんの事を考えるが、その全ての中心はイリス、お前の事だ」
「――――は、はい……」
イリスは釣り竿を素早く横に置いて、ジンに向けて姿勢を正した。
その微かに潤んだ青い瞳は、何かを期待しているように輝いている。
「明日も、明後日も、その次の日も。もしかしたら死ぬその瞬間まで、お前の事だけを考えているかも知れない。そして俺自身、それを強く望んでいる」
イリスは真剣な顔で小さく頷いた。
上気したその頬を、ジンは一瞬訝しげに思ったが、気にせず話し続けた。
「俺の全てを、お前のために使いたい。俺は―――――お前のために生きたい」
身を乗り出したイリスの喉が、ごくりと音を立てた。
だから、と続けるジンの口を、顔を、瞳を、食い入るように見つめた。
「お前の望みを教えてくれ。お前は今、何を望んでいる?」
呼吸が止まる。
桜色の唇は一瞬怯えるように震えた。
しかしすぐさまぐっと力が込められ、横に引き結ばれた。
決意を持って、それが開かれる。
「私は――――ジンとずっと、ずっと……一緒にいたい」
その声は、込められた意志の強さとは裏腹に、いや強すぎたからこそ、か細く震えていた。
放った本人は耐えられなくなったかのように、ぎゅっと瞳を閉じ、その答えを待った。
恐怖と期待が二つ。
くらくらとする熱っぽい頭の中で、少女はその後に訪れるだろう様々な想像を、光の速さで考えては消し、考えては消しを繰り返した。しかしそのどれもが朧気で、つい先日まで記憶を失っていた彼女には、明確な形を与える事が出来なかった。結果、恐怖と期待は異常なまでに膨らんでいた。
いつもより遥かに鋭敏になっていた彼女の感覚は、少年が口を開こうとする気配を一瞬で察知した。
己の心臓のうるささに、少女は今にも気を失いそうになった。
「いや。そうじゃなくて」
イリスは耳を疑った。
いくら知識も経験も浅い彼女であっても、その返答が返答でない事くらいは理解できた。
おそるおそる瞼を開けた彼女が見たのは、こちらの正気を疑うような目をした少年の顔だった。
「だから、悩みがあるなら教えてくれって。俺はそう言ってるんだけど?」
「――――な、何の話?」
急速に速度を緩めていく心臓の鼓動を聞きながら、彼女は呆然と問いを口にした。
「だからさ。お前、ここ最近ずっとぼんやりしてただろ? だから何か悩みがあるなら、俺がどうにかしてやろうって……解る?」
大丈夫か、おい。
そう言った目で見つめてくる。
カラスの鳴き声が、イリスの頭の中で鳴り響いた。
自分の顔が平坦になっていくのを意識しながら、彼女は乾いた瞳でジンを見た。
愛しい愛しいその顔に、にっこりと笑いかけた。
「―――じゃあ、私のお願い、聞いてくれる?」
「おう。もちろんだ、お前は俺の大事な家族だからな」
「ありがとう、ジン! それじゃあ、私の願いを言うね。私の願いはね………」
輝かんばかりの笑顔でそう答えてくるジンに、イリスは笑みを深め、その願いを告げた。
「私の目の前の大馬鹿野郎の頭をもう少しマシにしろ――――!」
ジンは笑顔のまま頷き、そして固まった。
イリスはそれを痛快な思いで見つめ、立ち上がるとさっさとその場を立ち去った。
ずんずんと地面を踏み抜くように歩いていく。
その背中に、慌てたジンの声が縋り付く。
「ま、待てって……! イリス、それどういう意味だよ!?」
「自分で考えたら!? それが私の願いを叶える唯一の方法じゃないかしら!」
振り返りもせずにそれをはね除け、ふんと鼻を鳴らす。
全く、人が色々と考えてたのに……もう!
苛々しながら、現在の家である遺跡へと向かうイリスであったが、足音を耳にして歩みを止める。
その顔は一瞬喜びに染まる。
が、思い出したように怒りの表情をつくると、音の方に向かって振り向きながら、声を上げた。
「もう馬鹿! 追いかけてくるの遅いのよ!」
しかしそこには彼女の予想した姿はなく。
「わ、わあ!? 申し訳ございません――――!」
金髪碧眼の見知らぬ少年が、降参するように両手を挙げていた。
イリスは首を傾げ、それに釣られるように少年も首を傾げた。
声も出さず疑問を浮かべ合う二人。
そこに足音を一切立てず、しかしため息をつきながら歩いてきた少年が一人現れた。
「イリス……何か解らないけど落ち着けって……ん?」
黒髪黒瞳の少年。
ジンだった。
「お前―――――誰だ」
一瞬で鋭く尖った彼の声に、混乱していた二人は我に返った。
驚いた顔で何かを言い合う二人を見つめながら、ジンは後ろ手にナイフを握りしめた。
静かに、静かに。
感覚を研ぎ澄ませていく。