第十九話
狸である。
その姿は青い瞳の少女が射損ねたものにも似ていたが、まるで違うようでもあった。
しかし必死で餌を探す姿は共通である。その注意力が散漫になっているのも、また然り。
だが次の瞬間に起きたことに関して言えば、注意力の大小は関係がなかった。
それは普通の獣に予想できる事象ではなかったのだ。
―――ビシィッ!
何の脈絡もなく、耳が痛くなるほどの鋭い音が辺りに響く。
泡を食った狸はその場で飛び上がった。
首が千切れそうなほどに周囲を見回すと、一目散に走り去った。
狸は草木以外の何の姿も見はしなかったのだが、不気味な音に警戒心を最上位まで引き上げた結果、逃走を選択したのだ。
一見臆病すぎるとも思えるその行動。しかしそれはこの場合、とても素晴らしい判断であると言わざるを得なかった。
狸が走り去ったの同時、再びその音が響く。
しかし今度は音以外の変化が現れる。
突然空間が発光した。
雷のように強烈で、直視すれば視界が焼かれるほどの光である。ほとんど間を置かず明滅を繰り返し、そして最後に一際大きく輝いた。光が消えた後、そこには五つの人影が現れていた。
年齢、性別、体格。
その全てがばらばらである。
黄金の髪と青い瞳、身にまとう白を基調とした軽装鎧が、辛うじて統一感を与えている。しかし一見すると、何の関係もない者達が一所に集まっているだけのようにも思える。だが彼らは間違いなく同じ目的を有するグループであり、その意志も心も、同じ色を帯びていた。
それは彼らの顔つきを見れば解った。
最年長らしき体格の良い中年の男から、十代半ばの少年まで。彼らは一様に引き締まった表情を浮かべ、その瞳は使命感に煌々と燃えている。盲目的な危うさすら感じさせるほどの、強固な決意が滲み出ていた。腰に履いた長剣と相まって、彼らは領土の守護を命じられた騎士のように誇り高かった。
しかし彼らは騎士ではない。
本来はそうであったかも知れないが、少なくとも今回は違う。
彼らに与えられた任務は二つ。
標的の捜索。
そして回収だった。
「転移成功。各自異常はないか」
一番年かさの男が口を開いた。
その態度と声の質から考えるに、どうやら集団のリーダーらしい。
「異常なし」
「同じく」
「同じく」
はきはきとした三つの声が返ってくる。
一つ足りない。
「エドガー、どうした?」
男は訝しげに、そちらに視線を投げる。
じっと虚空を見つめたまま、身動き一つしない少年。
それを見て、苛立たしげに舌打ちをした。
「エドガー! 異常があるのか!」
びくりと少年は身を震わせた。
きょろきょろと周囲を見回し、吸い寄せられるように自分を見つめる男へと顔を向けた。
慌てて口を開く。
「あ、ありません! 隊長!」
反り返るほどに背筋を伸ばして答えるその姿に、男は深いため息をついた。しかし苦笑を浮かべると、そのガチガチに強ばった肩を叩いた。
「落ち着け。初任務で緊張しているのは解るが、それでは空回りするだけだぞ」
「も、申し訳ありません! 落ち着かせていただきます!」
「だから落ち着けと言っているんだ……心配するな。お前は優秀だ。最年少で聖務執行部隊に配属されるほどにな」
「恐縮であります!」
「それに俺たちは部隊だ。お前に及ばないかも知れないが、俺たちもしっかりサポートするから。な、みんな?」
男がにやりと笑って後ろを振り向くと、同じような表情を浮かべた三人の男女の頷きが返ってきた。
「頑張るわよ。エドガーは物足りないかも知れないけどね」
「エドガー様のためにな」
「粉骨砕身でね?」
少年はうっと唸り声を上げ、色白の顔を真っ赤に染めて俯いた。
「か、からかわないでください……」
笑いが溢れる。
緊張がほぐれたのを見計らって、男はぱんと手を打った。
「さあ。それでは御身の捜索に入ろう」
「隊長、例の悪魔の反応についてはよろしいのですか?」
二十代前半程に見える女が声を上げる。
隊長と呼ばれた男はそれに首を振って答えた。
「優先順位は御身が上だ。障害になるようなら排除するが、悪魔の反応は小さかった。どうせ斥候の下級悪魔だろう」
「念のため結界を張ってありますが、どうやらまだ中にいるようですよ」
今度は違う男がそう告げる。
「構わん。向こうにやり合う気があっても、可能な限り戦闘は避けよう。これは討伐ではないのだ、御身を天界までお連れするのが我々の仕事だ。それに、この森の中におられると決まったわけでもないしな」
「やはり、目印がないというのは痛いですね」
「だな。人間と変わらぬレベルまで力を抑えられているからな。だが先ほどの悪魔の反応、その前後に起きた強力な力の波動は、とても低級悪魔のものとは思えん」
「可能性は高い。そう言うわけですね」
「ああ。しかし可能性だけを考えるなら、反逆者―――『隷王』の可能性もなくはない」
男がぽつりと呟いた言葉に、男の部下達は一瞬呼吸を止めた。しかしすぐさま引きつった笑みを浮かべた。
「まさか。最後に罪名が確認されたのは、千年以上も前の話でしょう?」
「そうですよ。仮に生きていたとしても、狂天使は死滅が確認されましたし、一級悪魔『道化』も行方知れずと……」
必死で否定を唱える彼らの姿は、逆にそれを肯定しているようにも見えた。
隊長たる男はそんな部下達に淡々と告げる。
「確かに反逆者は力を失ったのかも知れん。だが千年の時が過ぎた今でも、依然として上層部はあの男に怯えている。一方的に突きつけられたはずの『協定』を守り続ける程にな。だから我々だって、こうして人の肉を被っているのだろう?」
「しかし……」
「ですが」
彼らは咄嗟に反論を口にしようとしたが、続く男の言葉にそれを飲み込んだ。
「まあでも、今回は間違いなくあの男は現れんだろう。やつに干渉する意志があれば、我々は今ここにはいないはずだ。問題が生じる前に片がついているはずだ。隷王は先の先を読み、天界魔界の行動を封じていったらしいからな」
「史書には確かに、そう書かれていましたね」
「とにかく、注意は怠るなよ。隷王はともかく、『放浪者』は現役だ。目的は不明だし、無力なのかそうでないのかも解らない男だ。だが『白の惨劇』にも関わっているという話を聞いたことがある」
四人は咄嗟に、空白の頭の中に、出撃前の資料の中で見た街の残骸を思い浮かべた。
原因不明の破壊。
魔力玄素の変質。
転移魔法程度ならともかく、高位の魔法を用いようとすると、かき集めた魔力玄素に術者が精神を喰い殺される。
白の惨劇について、彼らが徹底的に教え込まれたのはただ一つ。
近辺では魔法を使うな。
その言葉が、彼らの頭の中で木霊した。
「隷王よりもむしろ、やつの方が厄介だ……遭遇してはならない」
男はどこか遠くを見るようにして、静かにそう告げた。
それは誰かに当てた言葉というよりも、独白に近い空気の震え方だった。
耳にした四人は、男らしからぬその口調に首を傾げたが、男がいつものように彼らを見つめてきた時には、その違和感を打ち消していた。
「脅す訳じゃない。ただ注意は怠るな。我々に失敗は許されないのだからな―――――解ったか?」
彼らは兵士。
すなわち駒である。
駒は自ら考えず、指し手によって動かされるのみ。
優秀な兵士である彼ら、優秀な駒である彼らは、その場における指し手である男の言葉に、一瞬で全ての疑問から解き放たれた。
「了解」
「了解」
「了解」
「――りょ、了解」
新米故か。
一人後れた少年の返答に、男はまだまだだなと苦笑いを浮かべた。
そして森に現れた時と同じ顔つきに戻ると、部下を伴い歩き始めた。
森の中、一人の少女を捜して。