第一話 若き狩人
少年が一人、木々に紛れている。
腰を落として身動き一つしない彼は、まるで森の一部であるかのように振る舞い、そしてそれには一切の違和感がない。
彼は森の中で生きるものに違いなかった。
弓を構える。
音を立てずに弦を引き、矢羽根を唇の端まで持ってくる。
視線はぶれない。
獲物に張り付いたまま、瞬き一つしない。
鼻から微かに漏れる呼吸は、例え鼻の穴の横に耳がついていたとしても、音が聞き取れないほどに静かだった。
射線も問題ない。
獲物も木の実を囓るのに忙しい。少年には全く気づいていない。
いける。
その判断もまた静かに行う。
ちろりと矢羽根の端を唇で咥える。
慣れ親しんだ味が口の中に広がった。
何の意味もないその行為は、しかし何千何万と繰り返してきた記憶を思い出させ、驚くほどの安心感を与える。
呼吸が殊更に浅くなっていき、やがては完全に止まる。
周囲の気配を五感で探る。
最高の瞬間を待ち、頭の中を空白にしていく。
刹那。
指が離され、弱い風が一つ駆け抜けた。
コトンと、小さな音を立て、獲物は地面の上に横たわった。
起き上がることはない。
成功したのだ。
「――スゥ……」
もう静かにする必要はないのに、なぜだか身体は音を立てるのを拒否する。
毎回の事である。
別段止める必要はない事なのだが、どうしてもこうなってしまう。
もしかしたら命を奪うことに、なにがしかの抵抗を感じているのだろうか。
やれやれと首を振る。
木々の隙間からさっと飛び出して、矢の突き刺さった獲物を拾い上げる。
まるまると太った兎である。
それをじっと見つめ、薄く笑みを浮かべた。
少年の頭の中に広がったのは罪悪感ではなく、今夜のスープを彩る肉の味だった。
× × × × ×
森の早い日暮れ。
少年は住処へと帰還していた。
小さな巣である。
大樹に寄り添うようにして建てられたそれは、家と呼べるかどうかは議論の余地があった。
しかし見た目はみすぼらしいが、構造は意外としっかりしており、強風程度ではびくともしない程のものだった。
急激な変化の少ないその森の中では、これで十分だった。
人が住まうのを家とするならば、それは少年にとって間違いなく家と呼べるものだった。
屋根の端、煙突らしき細長く伸びた筒から、今は薄い煙が上がっている。
煙と一緒に美味そうな匂いが漂ってくる。
少年は我が家の中で、湯気の立つ鍋を杓子でかき混ぜている。
兎の肉と山菜を一緒に煮込んだスープ。
今日の夕飯である。
少年は鍋の中で肉が踊るのを見ては、溢れる唾を飲み込み、必死で自制していた。
もしそれが少しでも緩めば、杓子はスプーンに早変わり、そのまま一気にかっ喰らったことだろう。
だがどうやら少年は誘惑に耐えきったらしい。
満面の笑みを浮かべながら、鍋をテーブルへと運んでいき、スープを椀へと注ぎ分けた。
瓶から水を一杯汲んでくれば、少年がやることはもう一つだけだった。
すっと目を閉じ、頭を下げたかと思うと、凄まじい勢いでスプーンを手に取り、それを椀に突っ込んだ。
零さないよう細心の注意を払いながら口に運び、ゆっくりと飲み干した。
ごくりとその喉がなる。
少年は感極まったように何度も頷いた。
それからは早くもなく遅くもなく、しかしスープが冷めない程の速さで、少年は食事を開始した。
スプーンを動かすその横顔は若い。
見た目から考えれば、おそらく十代の半ばくらいか。
黒髪黒目のその顔は若干幼さが残るが、子供と呼べるほどではない。
何より少年が身にまとう空気は、庇護が必要なそれではなく、己だけを頼りに生きる人間特有のものである。
食事の時こそ年相応の表情を浮かべるが、狩猟の時に見せる顔は恐ろしいほどに研ぎ澄まされていて、とても子供とは呼べない。
少年は立派な狩人だった。
一人である。
近くに他の人間の姿は見えず、それがいた痕跡もない。
少年のその独特の雰囲気を見れば、かつてはどうだか解らないが、長い間彼が一人で暮らしてきたことは明白だった。
だが孤独とは無縁らしい事は、食事を取る彼の顔からも解る。
どんなに美味な食事だろうが、普通なら彼ほど豊かな表情を浮かべはしないだろう。
楽しんでいるのだ。
孤独を感じている人間には出来ない事である。
狩人という生き方を考えてもそうだが、少年の精神はごく一般的な人間よりも強靱に出来ているのだろう。
少年は食事を最後まで楽しんだ。
食べ始めるのと同じ、目を閉じると静かに頭を下げた。
どうやらそれは彼なりの、命の糧とする相手への感謝であるらしい。
手を組み合わせたり、祈りの言葉を捧げたりはしない。
簡素にして素早いものである。
しかしそれ故に意味のある行為だった。
少年は片付けを始め、それを終えると小さな寝床に丸まるようにして横になり、あっという間に寝息を立て始めた。
少年が眠りについた頃、森は完全に日が沈み、真っ暗になった。
蝋燭の明かりもない少年の家では、日没そのものが就寝の合図だったのだ。
そして日が昇ると共に起き、また狩りをしながら一日を過ごす。
森と生きる少年。
それが彼、ジンだった。