第十七話
「これはまた……豪快だな」
ジンの呟きを、風がかき消した。
家。
家が建っていた、その場所である。
彼は咄嗟に、自分が見知らぬ土地に来たような、そんな錯覚に襲われた。
しかし目の前の〝更地〟にある黒こげの木の残骸には、微かだが見覚えがある。おそらく、いや間違いなく、彼の家を支えていたあの大樹だった。
「ごめんね……」
「だから別に良いって」
「ごめんね……」
再び嗚咽を漏らし始めたイリスの頭を、優しく撫でてやりながら、彼はこっそりとため息をついた。
家は一区画を残し、消滅していた。
燃え滓すら見あたらない。
夕日に照らされている真っ黒な大地の上には何もなく、何とも言えない寂しさを感じさせる。炭化を免れた家の一部は、奇妙なことに断面以外は全くの無傷であり、そこだけ見ていれば何もなかったかのようにも見える。
線を引いたようだ、と。
そう思ったのはこれで二度目である。
だからこそジンはその有様を見ても、少し困ったような顔をしただけで、別段取り乱すことはなかった。
森でジンが目を覚ました後、謝罪から始まったイリスの話は、どうにも曖昧としていて理解しがたいものだった。
曰く、ジンが殺されると思ったら、頭の中がいきなりぐちゃぐちゃになった。良く解らないうちにジンが床に転がっていて、良く解らないうちに男がいなくなっていた。気づけば家は壊れており、辺りがもの凄く熱くなっていた。危ないから家から離れたところまでジンを運び、自分は必要な物を集めに家に取りに帰った。
……とまあ、ほとんど説明になっていないものであった。
どうやら本人も良く覚えていないらしい。
それなら別にお前のせいじゃないかも知れないだろう、と。肩を震わせるイリスにジンはそう諭したのだが、彼女は頑なに首を横に振った。
覚えていないけど、やったのは間違いなく私だ。
弱々しいがはっきりした口調で、そう断言した。そこまで言われてしまうとジンは反論しづらく、結局話はそこで打ち切ったのだが。
思い出すのはあの男―――ザァルの話である。
魔界。
天人。
ディプロス。
どれもこれも、聞き覚えのない、理解の出来ない単語ばかりだった。彼を何者かと勘違いしていたようだが、彼には何一つ心当たりがない。
解ったのは二つ……いや三つ。
あの男はイリスを狙っているのだと言う事。
他にもイリスを狙う者がいるのだと言う事。
――――そして、イリス本人はどちらも望んでいないという事。
一瞬彼は微笑みを浮かべた。
しかしすぐさまそれを打ち消すと、今己が為すべき事を考え始めた。
ザァルという男は得体が知れず、攻撃的かどうかはいまいち解らなかったが、必要であれば力を振るうことを躊躇わなかった。そしてその力はジンとは比べられないほどに強く、ザァルが口にした同胞や天人とやらも、それと同じかあるいはそれ以上の力を有している可能性がある。
やり合っても勝ち目はない。
イリスを守るのであれば、それらと遭遇しない事が絶対条件である。だがザァルは広い森の中で容易くイリスの居場所を特定した。一日中ずっと逃げ続けるのは不可能だし、あまりにも情報が足りない。追ってくる者が何者であるのかも、何故イリスが追われているのかも、彼には全く解らないのだから。
ジンは首を横に振ると、イリスの頭を撫でる手に、より一層の想いを込めた。
関係ない。
こいつが何であろうが、俺には何も関係ない。
こいつはイリスだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
俺が守りたい、俺の大切な――――ただ一人の家族なんだ。
絶対に。
絶対に、誰にも渡すものか。
ジンは黄昏に染まる空を強く睨み付け、無言の誓いを立てる。
黒い瞳は夕日の光を拒絶するように、何度か烈しく瞬いた。
研ぎ澄まされた意志は、気安く触れれば命を奪われてしまいそうなほどに荒々しく、そして神々しかった。
瞼がそれを覆い隠した後、瞳はいつもの色に戻る。
まるで先ほどのそれが見間違いであったかのような、素早い変化である。
彼は意図的にそれを消したのだ。
少女にそれを見られるのが、何となく嫌だったのだ。
まだぐずぐずやっているイリスを見やり、いつもの調子で声をかけた。
「いい加減泣き止めって。別に大したことじゃないんだから。家も道具も、また作れば良いだけの話だ。だから、な?」
涙で潤んだ青い瞳が、夕日を反射してきらきらと輝く。
「大したことあるよ……家は一つだけ。ジンと一緒に暮らしてきた家がなくなったんだ、ジンが今まで生きてきた家がなくなったんだ、ジンが―――――大切な人と一緒に暮らしてきた家が、なくなったんだ……私が、なくしちゃったんだ」
ぽつりと呟くように言った後、耐えきれなくなったように先ほどよりも激しく泣き始めた。
ジンはその言葉をぽかんとした顔で見つめ、ため息をつくと所在なさげに頭をかいた。
「……何かと思ったら、そんな事かよ。お前と暮らしてきた云々なら、今度は今まで以上の時間をかければ良いだけだし、俺についても同じだ。安全に寝られる場所って以外の意味を、俺は家に見出してはいない。最後のやつも―――」
ぽんとイリスの頭に手を乗せた。
「むしろすっきりしたくらいだよ」
イリスは思わず顔を上げた。
その声は本当に言葉通りの軽い調子のもので、そして彼女がそこに見たジンの表情もまた、どこかほっとしているようにも見えた。
青い瞳には困惑と疑念が色濃く映る。
それを目にしたジンは肩をすくめ、微笑みを薄く浮かべた。
「説明は長くなるから、向こうに着いてからにしよう」
「向こう……?」
「ああ。取りあえずの寝場所だ。周囲に危険な獣もいないし、近くに川もある。使えそうな物はお前があらかた集めてくれたみたいだし、暗くならないうちに行こう。今から行けば、向こうに着くのはちょうど日暮れと同じくらいになるだろうから」
「う、うん……」
何が何だか解らない様子のイリスの腕を引き、ジンは歩き始めた。
ジンの予測通り、二人は日暮れと時を同じくして、目的地に辿り着いた。
開けた土地の上に建つ、不思議な物体である。
巨大な石を組み合わされて出来たそれは、間違いなく人工物であるのだろう。しかし時が経ちすぎたためか、元が何であったか解らないほどに形を失い、何とも呼べない姿になっている。
ジンはその前で一旦荷物を置くと、今日はここで寝るぞとイリスに告げた。
「ねえ、ジン……これ、何なの?」
目を丸くしてそれを見上げたイリスは、傍らのジンに尋ねる。
問われた彼はさあと首を振る。
「解らん。遺跡だとか神殿だとか。俺はそういう風に聞いたけど。色々説明してくれたんだけど、俺も小さかったからなあ……」
「遺跡、神殿……ねえ、良くわかんないけど、それって勝手に寝泊まりして良い場所なの?」
「構うものか。もうここの主人がいないのは確かなんだ。文句言うやつなんていないさ」
「でも……良いのかな」
「嫌なら野宿しかないぞ。今から場所を探す時間はないんだから」
「……うん。解った」
頷くのを見届けて、ジンはイリスを促した。
二人は出来るだけ石壁で囲まれている場所を探し、落ち葉や動物の糞などを取り除いて綺麗にすると、すぐさま夕食の準備に入った。
イリスはここまで来る途中で集めた山菜や木の実を水で洗い、ジンは木の棒を使って火をおこした。鍋がないので山菜は生で、木の実は軽く火であぶってから食べる。二人とも疲労が強く、空腹は感じていなかったのだが、いざ食べ始めると手も口も止まらず、無我夢中で食事を続けた。満腹にはほど遠かったが、食材を全て平らげると、それなりの充足感を得ることが出来た。
たき火を前に、身も心もゆったりと落ち着いたところで、ジンは口を開いた。
「イリス、眠いか?」
問われたイリスはその言葉の意味を悟り、青い瞳に真剣な色を浮かべると、首を横に振った。
「大丈夫。話を聞かせて」
「……そうか。解った。少し長くなるかも知れないから、眠くなったら言えよ。続きは明日にでもするから」
「うん」
頷きが一つ。
ジンはそれを確認した上で、一度目を閉じた。
ぱちぱちと火のはぜる音をしばらく耳に入れた後、瞼を開き、少し重く感じる口をゆっくりと開いた。
その瞳には揺れ動く炎の影が映り込んでいた。
「まずは一人の男の話をしよう。俺に名を与え、生きる術を教え、俺を育てた男の話をしよう」
ジンは不意に、自分の口が己のものではないような感覚に囚われた。
重かったはずのそこからは、次から次に言葉が溢れてくる。
苦笑が薄く浮かぶ。
火の向こう側で、真剣な目をして自分を見つめる少女の顔を、気づかれぬように見やった。
……そうか。
俺はこいつに、こんなにも自分の話を聞いて欲しがっていたのか。
そう思うとなんだか、ひどく暖かい気分になった。
「男の名はカイ。この話は、カイが森の外れで一人の子供を拾ったところから始まる――――――」
はぜた火が、小さな音を立てた。