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第十六話

 草木と土の匂い。

 嗅ぎ慣れたそれは、こうして目を瞑っていても解る。

 彼が生きる世界―――森の匂いだった。

 ジンはゆっくりと目を開いた。

 見えたのは、彼を覆い隠そうとするかのように広げられた木の枝葉、そしてその隙間から見える青い色をした空だった。

 この色だともう少しで夕方だな、と。

 何故だかひどくぼんやりした頭の中で、彼はそう呟いた。

 色々と考えるべき事はあったのだが、今の彼にはその気が起きない。一切合切を頭の片隅に押しやると、緑と青のコントラストをただただ見つめ続けた。

 ふと、その視線がずれる。

 足音を耳にしたのだ。

 ジンの発達した聴力は、彼がぼんやりしてようがしてなかろうが、遺憾なくその能を発揮した。彼が聞いた足音は虫の囁きほどに小さく、その主が姿を現すまでにはかなりの時を要した。

 木々の隙間から出てきたのは人影。

 革袋を背に担いだそれは、イリスに違いなかった。

 ジンがこちらを見ているのに気づくと、ぱっと顔を輝かせた。どたどたと足音を立てながら駆け寄ってくる。

「ジン! 良かった、起きたんだ……私もう、心配で心配で―――でも色々必要なものを取りに行かないといけないし、でもジンを置き去りにするのは嫌だし、でも………」

 でも、でも、でも、と。

 喋るイリスを、最初はぼうっと見つめていたジンだったが、言い訳じみたものを延々と聞き続けるうちに、次第にその瞳にいつもの鋭さが戻ってきた。

 彼はため息をつくと、両手を挙げた。

「落ち着けって。別に何も怒っちゃいないから。順を追って話してくれ」

「う、うん……」

 彼は耳を傾けた。

 が、中々イリスは話し始めない。

 その顔は困惑と躊躇いの二つの色を映している。

 ジンは訝しげに眉をひそめると、どうしたと声をかけた。

 するとイリスは窺うようにジンを見つめ、口を開いた。

「ジンは、どこまで覚えてる……?」

「どこまでって、そりゃあ」

 ごく自然にイリスの問いに答えようとして、しかし自分の口から何も出てこないのに驚いた。彼はついさっき目を覚ましたばかりで、意識を失う以前の記憶が混乱していた。

 あー、と額を指で叩くジンに、イリスはその名前を口にした。

「ザァルさんの事は覚えてる?」

「ザァル…………あ!」

 閃光のように、彼の頭の中を一連の記憶が駆け抜けた。

 頭部のない熊の死骸。

 椅子に腰掛けた男。

 その不気味な微笑み。

 そして首を絞められた時の、死を予感させる苦痛。

「―――っ!」

 記憶と一緒に今思い出したかのように、首が鈍い痛みを発し始めた。

 首を押さえるジンに、イリスは背に負った革袋から布を取り出すと、水筒の水でそれを湿らせ、彼にさっと手渡した。

 ジンはしかめた顔で礼を言いつつ、冷たいそれを慎重に首に当てた。

 微かに痛みが和らぎ、彼はほっと息をついた。

「……あれから、一体どうやって切り抜けたんだ?」

「それがね、実は私も良く覚えてないんだけど……」

「ん?」

 いつになく暗い顔のイリスに、ジンは首を傾げた。

 まさか何かまずい事になったのかと、緊張に顔を強ばらせ始めた彼に、イリスは意を決したように頷くと、

「ごめんなさい!」

 目を瞑り、深く頭を下げた。

 まさか謝罪が来るとは思っていなかったジンは、きょとんとした顔をした。

 イリスは顔を上げると、悲壮な表情を浮かべ、己の行いを告白した。

「ザァルさんも家も何もかも、私が全部吹き飛ばしちゃったみたいなの!」

 そうか、と頷いたジンはやがて。

「――――――――はあ?」

 己の耳を疑った。


     × × × × ×


 全く、信じられんねえ。

 

 ザァルはその台詞を何度も何度も繰り返した。

 やはり森の中。

 その端を目指して歩く彼は、ひどい顔色をしていた。

 理由はその姿を見れば一目瞭然だった。

 右腕がない。

 それどころか、方の付け根から腰の辺りまで、大きなスプーンで抉られたように、身体の半分近くを失っている。

 断面は黒く焼け焦げ、ぶすぶすと煙を上げている。

 肉も骨も何もかも、完全に炭化しており、これが人間の一部だとは誰も思えないほどだった。

 否。

 男は人の形をしているが、人間ではない。

 超常の力を有する悪魔である。

 故に人ならば疾うの昔に死んでいるこの状態でも、こうして何とか生きながらえている。

 何とか、である。

 死など容易く超越したはずの悪魔ですら、その傷は致命傷に近かった。こうして歩いているだけで痛みに気を失いそうになり、そして意識を失えばまず間違いなく塵に返ってしまう。加えて睡魔に似たそれが、彼を奈落の底へと引きずり込もうとしており、その誘惑に負けそうになる度に、彼は真っ黒な傷口に指を立て、生じる激痛を味わうことでそれに耐えていた。

 肉体よりもずたずたになっているザァルの精神は、彼がこのような状態になった時の記憶ばかりを、延々と再生し続けていた。


     × × × × ×

 

 もがく少年を、面倒くさそうに見つめる。

 手の内に伝わってくる脈拍は、既に瀕死に近いものだった。

 全く悪魔のやる事じゃないな、と。

 ちっとも悪魔らしい仕事をしないザァルは、声に出さずため息をついた。

 でもまあ、もう少しでこの仕事も終わる。

 少年が死ねば後は楽だ。

 そう思いながら、彼の手を少年の首から放そうと必死に奮闘する少女を横目で見た。

 如何なる神の一柱と言えど、力を封じられていればこの程度、弱い力で殴りかかってくる事しか出来ない。意識を奪うのは容易いし、捕獲すれば天人どもの目を気にしなくても良くなるので、開けっぴろげに魔法が使える。そうしたらまずは、このぼろぼろのコートを元に戻そう、と。手の中で少年の首が軋むのを感じながら、ザァルはそう考えた。

 そして、


「あ――――あああああああああああ!?」


 悲鳴を上げた。

 右の二の腕から生じた激痛が、一瞬で彼から平静を奪うほどの激痛が、彼の身体の中を駆け抜けたのだ。

「がああああっ、ああ――――ぐあああ!」

 腕を押さえ、床を転げ回る。

 どんと何かにぶつかり、反射的に視線がそちらを向く。

 床に投げだれされた少年の身体だった。

 しかしザァルの見開かれた目は、少年の青い顔には一瞬たりとも行かず、その首にへばりついたそれだけを凝視していた。

 ひどく見覚えのあるそれ。

 二の腕から先しかない、千切れた腕。

 彼は痛みに頭を焼かれながら、それでも思わず自分の右腕に手を伸ばした。

 しかし。

 あるはずのものは、そこにはなかった。

 それでもまだザァルは、淡い期待にすがっていた。だから彼がそれを目にしようとしたのは、決して確認のためなどではなく、否定を欲したからに他ならない。

 だが彼は、現実をそこに見た。

 ない。

 二の腕から先が、ない。

 焦げている。

 煙が立ち上り、嫌な匂いが広がっている。

 どうしようもなく鼻につくそれが、己の肉の焦げる匂いだと知った彼は遂に気が触れかけた。

 しかし彼が狂乱する事はなかった。

 

 それは気配である。

 

 濃密な、どろどろした、思わず吐きそうになってしまうほどの、尋常ではない気配。

 背後から感じるそれが、彼の意識を一瞬正常な状態に戻したのだ。

 軽い足音が一つ。

 ザァルは条件反射的に、しかしゆっくりと、呼吸を止めてそちらを振り返った。

 虹色の瞳が二つ。

 じっと彼を見ていた。

 感情を一切排し、ただ一つ傲慢のみを抱いて、少女は床に這いつくばった彼を超然と見下ろしていた。

 ザァルは己の死を悟らされた。

 少女の身体に集められた、集められ続けている魔力の総量は、彼の主―――魔界の第五王女であるレギィトラナすらも、軽く上回っている。

「―――――化け物か………」

 ぽつりと、ザァルは無意識に呟いた。

 しかし悪魔をしてそう言わしめた少女は、己の力に何の関心も抱いてはいなかった。

 己にも。

 そして実は目の前の悪魔にさえ。

 虚ろな顔は確かに傲慢を携えてはいたが、それはどうやら感情の類ではなく、少女が生まれつきそういう地位にあるためらしい。遥か高みに座する者にとって、見下ろすという行為はごくごく自然なもの。

 つまり少女は、そういうものであったのだ。

 身動き一つ出来ず、しかし思考だけは燃え尽きるほどの速さで回転させていたザァルは最終的に、己の主を呪い、そして己の不運を呪った。

 彼は思考を放棄した。

 考えたところで、目の前の少女から逃げる術は見つけられない。虚ろに見える癖に全く隙がなく、そしてまだ何もされてないにも関わらず、巨人の手で身体を握りしめられているような圧迫感が、抗う意志をあっさりと捻り潰した。

 少女の小さな手が自分に向けられるのを、ザァルは憔悴しきった顔で、ただただ見つめた。

 その指先に莫大な魔力が捻るように収束されていくのを肌で感じ、彼が終わりを覚悟した、その瞬間だった。


 ―――――ことん。


 小さな音が、傍らから響く。

 咄嗟にそちらを見ると、少年の首に食らいついていた彼の右腕が、床に転がっていた。

 ザァルは鼻で笑った。

 せめてコートくらい、直しときゃ良かったな、と。

 未練たらしくそう考えながら、顔を正面に戻した。

 自分を殺すはずの少女をそこに見て―――――心の底から驚いた。

 虹色の瞳は彼を見てはいなかった。

 見つめているのはザァルのすぐ横。

 少年の、その顔だった。

 ザァルが驚いたのは、少女が自分から目を逸らしている点ではない。

 少女の超然としていた虹色の瞳が、ゆらゆらと揺れていたためである。感情が欠片もなかったはずのそこに、小さな光のようなものを見つけたためであった。

 そして同時に、自分の身体が僅かにだが動けるようになったのを、彼は確かに感じ取った。

 決断は光よりも速かった。

 ザァルは次の瞬間、一世一代の賭に出た。

 残された左腕を素早く伸ばし、少年の身体を引き寄せた。

 少女がはっと我に返ったように、ザァルに視線を戻す。

 一瞬で憎悪に染まった虹色の瞳を隠すように、掴んだ少年を力一杯少女の方へ突き飛ばした。

 避けるか。

 あるいは受け止めるか。

 魔力を高速で練り上げながら、ザァルは少女が少年を大切に思っている事を強く祈った。

 悪魔の彼が祈ったのは誰に対してだったのか。

 彼自身咄嗟の事で解らなかったが、それはどうやら名のある神であったらしい。

 転移魔法を発動する時間を、彼に与えた。

 だが彼を救ったものは、悪魔から代償を引きずり出す希有な神でもあったのか。

 光に包まれながら、喜びに顔を輝かせたザァルの右半身に、虹色の炎が食らいついた。

 彼の悲鳴は、空間の狭間に取り残された。


     × × × × ×

 

 信じられねぇ……。

 封印された状態のはずなのに、あの力。

 終焉の主。

 そう呼ばれるだけの事はある。

 覚醒したあれとやりあって勝てるやつなんざ、魔界にも天界にもいやしない。

 天の主殿が殺そうとしたのも解る話だ。

 むしろ手に入れたいと願う我が主や、他の王族連中の方が理解できない。あんなもの、力として使うには強すぎる。きっと灰も残りはしないぞ。

 それに加えてこの傷、一向に治癒が始まらない。普通なら、瞬き一つの間に元に戻せるはずなのに。

 くそ。

 俺はもう手を引くぞ。

 主殿が何と言おうが、絶対に耳を貸すものか。

 王族の継承権争いなんぞ、もう知ったことではない。

 あれはそんなレベルの話じゃねぇ。

 少なくとも、俺みたいなひ弱な三等悪魔が口を突っ込める話じゃない。

 いや、こんな身体になっちまった今となっては、四等悪魔かそれ以下だ。

 ああ、くそ。

 本当に信じらんねぇ……。


 ぶつぶつ言いながら、しかしきびきびと動くザァルの足は、いつもよりはかなり弱々しく、その動きにもキレがなかったが、彼の目的を十分に果たすだけの能はまだ備わっていた。

 森の境界に辿り着く。

 木々の向こう側に、見覚えのある防壁の残骸が見えた。

 ザァルはここに来て初めて安堵の息を吐くと、疲労しか見あたらない顔で笑みを浮かべた。

 主への連絡は後回しにして、今は出来るだけ遠くまで離れよう、と。

 木々の隙間をくぐり抜け、森を後にしようとしたのだが。

「がっ―――――」

 突然身体の正面に走った衝撃に、ぐらりと傾いた。呆気なく後ろに倒れ込んだザァルは、呆然した顔でそれを見上げた。

 目に見えない何か。

 しかし確かに存在するそれは、瞳に魔力を宿せば目にすることが出来た。

 彼がそこに見たのは魔力で編まれた堅牢な壁であり、そして。

「―――天人の結界………そうか、俺が魔法を使ったから…………」

 

 更なる絶望の、その一端だった。 

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