第十三話
一瞬、ジンは目の前の光景を理解できなかった。
それは彼の想像をあまりにも超えすぎていたのだ。
ぞくり、と。
背筋が震え、そしてそれは治まらない。
あまりの緊張により汗すら浮かばず、ぎょっと身を固まらせたジンの姿は、ちょうど蛇に睨まれた蛙にも似ていた。
冷静で優秀な狩人。
彼を恐怖の糸でがんじがらめにしたのは蛇ではない。それどころか、それは生きてはおらず、明らかに死んでいる存在だった。
大きな熊。
その死骸である。
しかし熊自体は、決して珍しいものではない。遭遇することは多くないが、それはジンがそういう風に行動しているためである。猪とは比べものにならないほどに危険な熊は、彼が避けているだけで、森の中にはそれなりの数がいた。故に、その死体がある事も、あり得ない話ではなかった。
―――問題は。その死に方にあった。
持ち前の精神力で、硬直から回復したジンは、ゆっくりと死骸の方へと近づいていった。
その黒い瞳は、一点をずっと見つめている。
首。
本来頭があるはずの、その部分である。
何もない。
森の土だけが見えるばかり。あるはずの頭は、どこにもなかった。
刃物で切り落とされたのか、と。
一瞬ジンはそう考えた。
しかしその断面を覗き込み、それが間違った推測であったことを思い知らされた。
「――――――」
彼の喉が大きく上下した。
肉と骨が見える首の断面は、ぐちゃぐちゃに引き裂かれていた。それは刃物で切り裂いた跡ではない。もっと野蛮で、暴力的な手段をとらなければ、このような傷痕は出来ない。例えば、そう。
―――力任せに引きちぎった、とか。
ジンは自分の想像に、思わず両腕を強くかき抱いた。その顔からは血の気が引き、唇の隙間から見える歯は、かたかたと音を立てていた。気を抜けば今にも倒れてしまいそうな、そんな様子であった。しかし彼がそうならなかったのは強靱な精神力のお陰などではなく、ただ単に、爪を立てた両腕が痛みを発しているからに他ならない。
疑問が頭の中をぐるぐると回っている。
何が。
いったい何が、こんな状況を作り出したのか。
熊の全長はジンの倍近くもある。
四つん這いになっていても、彼より目線が下に来ると言うことはない。
首をねじ切る。
それが可能な大きさと力を持った獣など、彼は見たことがない。
いや。
これはそもそも獣の仕業なのか……?
獣たちが他の獣を襲う理由は二つ。
一つは自分の命や縄張りを守るため。そしてもう一つは、純粋に餌を確保するため。
確かにこの時期、冬眠を前にした熊は、脂肪を蓄えるために広い範囲で餌をあさる。だから他の獣の縄張りを侵すというのはあり得ない話ではない。
だが不可解なのは、これもやはり死骸の状態である。
目立った傷は一カ所だけ。
首だけである。
獣であれば、例え防衛のために襲ったのだとしても、貴重な肉を前にして、一切手を付けないと言う事はあり得ない。脂肪を蓄えたいのは、別に熊だけじゃない。肉を食わない獣なら、防衛で熊を襲ったりはしないはずだ………。
と。
そこまで考えたジンは、目の前の死骸に傷がないのをもう一度確かめると、今度はためらいがちに腕を伸ばし、首の断面を指で触った。
「―――暖かい……」
そう呟いた瞬間、ぱっと身体を起こすと、ジンは物凄い速さで走り始めた。
正面だけを見つめ、叩きつけるように足で地面を蹴り続けるその横顔は強い焦燥に彩られている。噛みしめられた歯がぎしぎしと軋み、彼の内情を更に表している。
殺されたのはそんなに前の話じゃない。
食われた跡のない、僅かとは言え熱を持った死骸が、それを示している。
だとすれば。
あれを殺した『何か』は、まだ近くにいるかも知れない。
その『何か』がどういう理由を持って動いているかは解らない。熊を殺した後、遠くに行った可能性もある。
だが。
だがもし、まだ近くにいたら。
一刻も早く、どこかに逃げなければならない。
家。
それは本来、一番安全な場所。
獣の嫌がる植物や仕掛けが、家の周囲にはたくさんある。それらは上手く機能し、今まで危険な獣を一切寄せ付けて来なかった。
しかしそれらは全部、彼が知っている獣相手のものである。大熊を一撃で殺すようなものなど、想定していない。
家は既に安全ではない。
そしてその安全ではない場所に、あの少女はいるのだ。
昼の支度をして待っているだろうあの少女は、危険が身に迫っている事を知らず、例え知っていたとしても、一人ではどうする事も出来ない。知識を得て、技術を身につけた程度では、森を一人で歩くことは出来ない。五感で捉え、経験として蓄積していくしか、森の道を見つける方法はないのだ。
ジンは血が出るほどに唇を噛んだ。
一人で出歩くな。
そう教えたのは他でもない彼である。
そしてそんな少女を一人にしたのも、彼である。
後悔と自責。
二つの黒く激しい感情に胸の内を荒らされながら、一直線に家を目指し、ひたすらに彼は走り続けた。
ジン。
彼はいつだって現実だけをひたすらに見つめ、己だけを頼りに生きてきた。
信じられるのは己の中にあるものだけで、それ以外のものに縋る事など全くなかった。
彼を育てた男―――彼の最愛の者が姿を消した時ですら、その帰還を願いつつも、決して幻想を抱いたりはしなかった。
しかしその彼が今。
生まれて初めて、祈りを捧げていた。
どうか。
どうかあいつが―――イリスが無事でありますように。




