第十二話
夕食後。
ジンとイリスは、日課である『授業』を開始した。教師であるジンが、生徒であるイリスに、様々な知識を教える時間である。
椅子に腰掛けた二人の間にあるテーブルには、何も乗っていない。
だがこれは、今日に限ってのことではない。およそ勉強と呼ばれる行為において、決まって必要になってくる紙は、外界から途絶されたこの場所では手に入らないものである。よって何かに書き記して覚えていくと言う事は出来ず、耳で記憶していかなければならないのだ。
それは当然、困難なものである。
事実、ジンは自らが生徒であった時は非常に苦労した。例え教えられた事柄が少量であっても、その日は覚えているが、次の日にはもう思い出せなくなっている事などざらにあった。幸い、彼の教師は根気強い性格をしていたため、嫌な顔一つせず、彼が忘れる度に何度も説明を繰り返した。やがてコツを掴んでからは、短い時間で効率的に覚えられるようになったが、それまでにかかった時間は恐ろしく長かった。
だからジンは、自分も根気強く教えていこうと覚悟していたの。だが、結果としてそれは杞憂に終わった。イリスは彼の話を一度聞いただけで記憶し、そしてすぐさま理解した。彼女はジンが辿った道のりを、彼の十倍ほどの速さで駆け抜けていた。
青い瞳から好奇心を溢れさせるイリスの顔を見て、ジンは一つ頷くと話し始めた。
「今日は人間の社会について話す」
「よし、来い!」
「ほとんどの動物たちと同じように、人間も群れを作って生活する。理由は何だと思う?」
「その方が効率が良いからじゃないかな。生きるためには食べ物が必要だし、たくさんで集めた方が安定するはず。それに、外敵から身を守るためにも、やっぱり数が頼りになるし」
「そうだな。良くできた」
「やった」
イリスは手を挙げて喜んだ。
ジンはそれに笑みを浮かべ、話を続ける。
「人間の群れにおける最小単位は家族だ。大人の男と女、その二人の子供が何人か。子が大人になり、更に子をなせば、何世代かが同居する事にもなる。動物と異なる点はたくさんあるが、解りやすい例を挙げるとすれば、成熟した雄の子供を、群れの外に出すという習慣がないところか。これは人間のような雑食の動物には珍しい。何でだ?」
「群れには長がいるんだよね。獣の場合、雄は本能的に長になろうとするから、群れの長は自分の地位を保つために、自分の子供といえど、大人になってしまえば雄は外に放り出す……?」
「そうだな。動物の本能的なものだ。雌に自分の子を産ませるために、自分が群れの長になる。では、同じ動物であるはずの人間はなぜそうしない?」
「えっと……心があるから?」
ジンはその言葉を聞いて、思わず笑ってしまった。
イリスはむっとした顔をする。
「悪い悪い。心か……間違っちゃいないが、それは非常に定義が難しいものだからな。ひどく曖昧だし、動物や植物、果ては風や空にだって心はあると言われても、否定するのは厳しいだろうしな」
「それじゃ、何でなんだよ」
「実はこれも、理由はたくさんある。そのうちのいくつかを紹介しよう。一つは人間が農耕を始めたからだ」
「農耕?」
「ああ。簡単に言えば、野菜を大量に育てる事だ。生えているものを探しに行くんじゃなくて、身近で育てたものを収穫して食べるんだ。たくさん育てるほど、腹は膨れる」
「その作業に人手が必要……?」
「そうだ。動物は狩りが基本。当然、縄張りが形成される。縄張りの中で取れる獲物数はほとんど変わらないし、養える数も決まってくる。子を産む雌はともかく、雄の価値は低い。人間は拡大可能な縄張り―――農地を手に入れた事によって、群れの拡大も可能にしたわけだ」
「なるほど……」
「後はそうだな……人間が言葉を手に入れたからか」
「言葉? それが雄を群れから出さない理由になるの?」
「と言うよりも、人間の行いの全てに共通する理由でもある」
「……どういう事?」
イリスが真剣な目でジンを見つめる。
「獣の鳴き声とは違い、人間の言葉は無限とも言える表現を可能にしている。そしてその無限は、人間の発達を促した。思考が発達し、本能から次第に解き放てるようになった。知識、知恵、技術。人間は様々なものを手に入れた。農耕もその一つだな」
「凄いんだね、言葉って」
「そうだな。凄いんだ。凄すぎて、だからその反動も強かった」
「反動?」
「〝それを使えば、それに使われる〟と言う言葉がある。これは解るか?」
「……何となく、だけど。良いことばかりじゃないんだよ、って事だよね?」
「ああ、その理解でも良い。言葉が与えたものは、良いものばかりではなかったんだ。人間にとって致命的になったのは、発達した思考そのものだった」
「考えるって事が、いけない事なの?」
「いや。そうじゃない。考えすぎが、まずいんだ。目の前の現実よりも、自分の中の思考を重視する。例えば、そうだな………イリス。もし俺が崖から落ちそうになっていたら、お前はどうする?」
ジンはにやりと笑ってそう言った。
問われた少女はかっとした顔になって、強い口調で答えた。
「もちろん助けるに決まってるじゃない。当たり前だよ、そんなの」
「そうかそうか。有り難う。もし放っておくと言われたら、話が進まないところだった」
「ひょっとして、私を馬鹿にしてるの……?」
「違うってば。例えの話だよ、例えの話。しかしもし、俺を助ける代わりにお前が崖から落ちてしまう状況だったら、お前はそれでも助けるか?」
その言葉に、今度こそイリスは怒りをあらわにした。
噛み付くように身を乗り出す。
「当たり前! 自分だけ助かろうなんて、絶対に思わないよ!」
「例え自分が死ぬ事になっても?」
「ジンを助けるよ!」
鼻息あらく、そう断言した。
ジンはそれが望む答えであったにも関わらず、何とも言えない表情をした。困ったような、嬉しいような、でも喜んではいけないと己を戒めているような、そんな顔だった。
だがしばらく後、小さな声で囁くように言った。
「……まあ、ありがとよ」
「もちろん!」
ジンはイリスの覇気に気圧されながら、しかし話を戻した。
「えっと、まあ、お前は死んでも俺を助けてくれると言ったが」
「嘘じゃないよ! 本当だよ!」
「……疑ってないから、落ち着けって。でもそれは、生き物の本能的に考えると、まずい話だよな?」
「どうして!? 私がジンを助けちゃいけないって言うの!?」
「だからそうじゃないって……」
ジンはため息をついた。
全く、頭は良い癖にこう言うところはいつまで経っても治らないな、と。
そう思いつつ、しかし全く嫌がっていない自分の姿を見つけ、苦笑を浮かべた。
「あくまで本能的な話だよ。自己の保存を最も優先すべきはずなのに、時に人間は他者のために命を投げ出す。他の動物にも時折あるが、人間ほどじゃない。人間のそれは、一種の病気と言って良い程だ」
「……へえ。私は病気なんだ?」
「だから拗ねるなって。俺は嬉しいって、さっき言っただろ?」
「ふうん? それじゃジンは、逆の立場だったら私のこと助けてくれるの?」
意地悪い瞳でそう尋ねてくるイリスに、ジンは疲れた顔をしつつも、躊躇わずに頷いた。
「もちろんだ。考えようが考えまいが、俺はお前は助けるだろうよ」
イリスはジト目でしばらくジンを睨んでいたが、やがて顔を緩ませると、胸の前で両手を組んだ。
「へへ、ありがとう」
どうせそれが聞きたかっただけだろうと、ジンはやれやれと首を振った。
「ったく……話を戻すぞ。人間の思考は、言葉によって形成された人間の自我は、時に本能を無視する。究極の場面以外に置いても、純粋な物質的利益よりも、形のない目では見えないものに、突き動かされる。情と呼ばれるそれは、その最たるものだ」
「情?」
「愛情だ。人間は人間に強く執着する。例え群れの中の自分の地位を奪うかも知れない、雄の子供に対しても。自分と血が繋がっていなくても、共に長くあれば、家族と同じか、あるいはそれ以上の執着を持つ。土地や物、概念的なものにも、な。人間は愛情を抱くんだ。愛情を超える理由がない限り、群れから切り捨てる事は早々ない」
イリスはふうんと相づちを打ち、
「じゃあ私は、ジンに愛情を抱いているの?」
と首を傾げた。
ジンは面食らった顔をして硬直した。
しかしすぐにはっと我に返ると、おずおずと口を開いた。
「どう、だろうな。お前の近くには俺しかいないから、何とも言えないな。比較する相手がいないから。子が親を慕うような雰囲気もあるし」
「解らないんだ」
「そうだな……俺には解らないな」
ジンは唇を噛んだ。
しかし自分の考えに没頭していたイリスはそれに気づかず、更に問いを重ねた。
「家族って、血が繋がってる人たちだけなの?」
「いや。そんな事はない……と思う」
「ジンは家族がいるの?」
「俺、に―――――?」
大きな背中。
温かい掌。
微笑む瞳と、柔らかい声。
そして。
その全ての消失。
頭の中を走り抜けた数々の記憶は、束の間ジンに呼吸を忘れさせた。
「私はいない……もしくは私が覚えていないだけかも知れないけど。家族ってどういう感じなのかなあ。ねえ、ジンは知ってる?」
自分を覗き込んだ青い瞳に、彼は過去から現実に引き戻された。
取り繕うように、慌てて口を開く。
「さ、さあな。俺は小さい頃この森に捨てられてたらしいから、親はいるんだろうが、育てられた記憶はないし……」
俺を育てたのは、血の繋がらない男だった。
そう続けようとして、しかし彼はその言葉を口にする事は出来なかった。それを言ってしまえば、目の前の少女に、何もかもをぶつけてしまうかも知れないと、咄嗟に危惧したのだ。最悪、まだまだ危ういこの少女に、寄りかかってしまうかも知れない。
俯き奥歯を噛みしめるジンに、しかしイリスはちっとも構うことなく、あっけらかんと笑った。
「そっか。じゃあ私と同じだね。へへ」
はっと顔を起こしたジンは、しかし続く言葉に更に驚く事になった。
「ねえ、私達家族になろうよ」
「……え?」
「家族が本当はどういうものか解らないけど、私達は私達だけの家族になろうよ。きっとね、とっても幸せな気持ちになれると思うんだ。ねえ、どうかな?」
イリスはそう言って、真っ直ぐにジンを見つめた。
ジンはあまりの事にまともに考える事が出来ず、口をぱくぱくと動かすだけ。
それを見たイリスはどう受け取ったのか、不満そうな顔をした。
「それとも嫌なの? 私じゃ駄目?」
「え、ああ―――別に、駄目って事は、ないけど」
「良し! それじゃ決まりだ。今日から私達は家族。決定!」
「決定って……」
ジンはどうして良いのか解らない。
意味もなく手をぱたぱたと動かし、眉根を寄せては首を傾げ、ぶんぶんと頭を振る。
混乱したままの彼だったが、イリスの次の言葉に我を取り戻した。
「あ。子供とかつくらないといけないのかな?」
「つ――――つくるか馬鹿野郎!」
「な、何で馬鹿なの!? 私のどこが馬鹿なの!?」
「全部だ全部! この大馬鹿野郎が!」
「な、何だとっ―――――!」
喧嘩が始まった。
しかし言い争う二人の顔は、怒ってはいるものの、どこか楽しげであった。
家から漏れるその声は、静かな森に大きく響いた。
遠く、遠く。
暗褐色のコートを着た一人の男のところまで。