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第十話

 家に帰ると、すぐさまイリスが駆け寄ってきた。

「お帰り。今日の収獲は?」

「兎二匹と山菜、木の実、後はキノコだ」

「おお、凄い凄い」

 兎だけを取り出し、その他の入った革袋を手渡した。それを受け取ったイリスは、心得た風に軽い足取りで調理場へと向かっていく。ジンは兎の皮を剥ぐべく、家の外に出た。

 手早くナイフを動かし、捌いていく。

 ふとジンの耳に、イリスが歌っているらしい鼻歌の音色が入ってきた。

 一瞬彼は手を止める。

 が、すぐに作業を再開し、黙々と手を動かし続けた。手元は狂わず、いつもよりも若干速い速度でナイフを振るう。それは端から見ればいつも通りのジンである。だがその心中は、決していつも通りではなかった。

 

 ―――鼻歌など、俺は歌ったことがない。

 

 あいつに教えた事もない。

 イリス。

 最初はどうしようもなく子供だったはずなのに、あっという間に成長した。

 それは良い。

 俺の望んだ事だから。

 俺が教師で、あいつが生徒。

 ちょうどあの人と俺が、そういう関係だった。不器用な俺と違い、あいつは驚くほどに飲み込みが早い。身体能力や様々な技術はまだ俺に及ばないにしても、知識だけで言えば俺ともう変わらない。

 いや。

 あいつは、俺が教えた以上のものを手に入れた。

 俺が知らないものを知っている。

 同じものを見つめても、あいつには見えて、俺には見えないものがある。

 少しだけ。

 今はまだ、でもすぐに増える。

 たくさん。

 たくさん。

 そしてあいつは俺とは全く違う存在になり、そして俺とは全く違うものを追い始める。

 そして、ここを去る。

 あの人のように。

 俺を置き去りにしたあの人のように。

 いなくなる。

 どこか遠くへ。

 旅立っていくんだ。

 俺はまた、一人に――――――


「ジーン。こっちは終わったよー」


 ジンはその声にはっと我に返り、慌てて返事をした。

「ああ……今行く」

 血にまみれた手を水で洗うと、いつの間にか綺麗な肉だけになっていた兎を抱え上げ、家の中へと入っていった。

 その身体は汗でじわりと濡れていた。


   × × × × ×


 力を抜け、と。

 そのがちがちに硬くなった肩をぽんぽんと手で叩いた。

 頷くイリスの顔に汗が浮かんでいるのを見て、ジンは思わず苦笑を浮かべた。

 自分も最初はこうだったなと、いやこれ以上にひどかったなと、そう考えた。

 イリスが睨む先、一匹の狸が落ち葉の中で餌を探している。冬を前に少しでも多く脂肪をつけるべく必死になっているため、いつもより周囲に対する注意力が散漫になっている。大きな音を立てない限り、こちらには気づかないだろう。的も大きく、こちらに襲いかかってくることもないため、非常に手頃な獲物と言えた。

 弓を握ったイリスの手が震えている。

 それもそのはずだ、もうかなりの時間、ずっとこの体勢でいるのだから。狸を見つけた後、じりじりとここまで忍び寄ってきて、弓に矢をつがえた。しかし獲物に狙いを定めてから、イリスは中々矢尻から指を離そうとはしなかった。

 その心中はジンには解らない。

 だが、何も考えず簡単に矢を放つよりも、馬鹿みたいに時間をかけて、そしてやっと指を離す方がずっと良いと、そう思った。

 と、睨みすぎで乾いていた青い瞳の中で、鋭い意志が火花のように散った。

 矢羽根が風を切る甲高い音。

 トサッとそれが刺さったのは、狸からかなり離れた地面の上だった。

 ぎょっと身を震わせた狸は、一瞬で林の中に走り込んだ。その姿が見えなくなってしばらくして、イリスは大きく息を吐いた。緊張から解放された安堵と、失敗したことによる落胆。ジンがそこから読み取れたのはそれくらいだった。

 がくりと下がった肩を叩いてやる。

「最初はそんなもんだ。落ち込むな」

「うん……でも、やっぱり私駄目だな……」

「何でだ?」

「自分が生きるために必要な事だって解ってるのに――――」

 思い詰めた顔で歯を食いしばるイリス。握りしめたその手は、小刻みに震えていた。

 ジンは小さく息を吐いて、頭を横に振った。

「……お前は別にそれで良いんじゃないか。自分の命と他のやつの命を、同じくらいの重さに感じるのは別に悪い事じゃない。思いやりとか、優しさとか。人間はそう呼ぶらしいから」

「でもっ!」

 イリスは今にも泣き出してしまいそうな顔で、ジンを振り返った。

 強い光を放つ青い瞳に映り込んでいるのは、冷たい色をした黒いそれだった。

「それだと生きていけないじゃない! 私は―――ジンが捕ってくる動物を、今までたくさん食べてきた。やっぱり野菜や木の実よりも美味しかったし、きっとこれからも食べたいと思う。森の獣たちだって、他の命を奪って生きているんだ。自分の手で、殺して、食べて生きてるんだ。なら、私だって――――!」

「自分の糧を自分で手に入れる。それも一つの生き方だ。でも、それが全てじゃない。他の生き方だってあるんだ」

「植物だけ食べて生きるとか? どのみち命を奪ってる事には違いないじゃない!」

「街に行けば良い。人の群れの中に入れば、直接何かを殺す必要はなくなる。労働を対価に、必要な糧を得る。ほとんどの人間がどうして生きている。俺のようなやつの方が特殊なんだ」

「―――それは変だよ。私はこれまでの記憶を失ってるし、私が知ってる人間はジンだけだ。でも、それでもこれから目を背けちゃいけないって事くらい、解るんだ……生きるって事は、奪う事なんだ。奪う覚悟がないものに、生きる資格なんてないんだ」

 血が出そうなほどに唇を噛みしめ、地面を睨んだ。

 それを見たジンは、複雑な色をその目に浮かべた。

 淡く微笑むと、イリスの頭を優しく撫でた。

「……お前は誠実だな。それはお前の良いところだよ。でもな、何もかもから逃げず、全部受け止めようとするのは、結構しんどいぞ」

「……でもそれは、必要な苦しみなんだ」

「かも知れん。だがな、イリス」

「……何」

「お前から見て、俺はどう見える? 日々命を奪いながら、それでも顔色一つ変えずに生きている俺は、お前からはどういう風に見える?」

「ジンが―――?」

 イリスは驚いたようにジンを見つめた。

 眉根を寄せ、怒った顔をする。

「そんなの決まってるじゃない。しっかり向き合ってるよ。命を奪う事をきちんと理解した上で、狩りをしながら生きてるんだ。食事の前のあれだって、自分が殺したものに対する礼節だって、そう言ってたじゃない。私とは比べられないほど立派だよ」

「はは。立派か、俺は。んー、食事の前のあれは、まあ俺なりのけじめってやつだ。そして同時に、あれは俺の弱さでもある」

「……弱さ?」

「ああ。お前は俺が命を奪う事に、きちんと向き合ってると言ったが、実はそうでもない」

「―――嘘だ。私を安心させようと、でたらめ言ってるんだ」

「違う。嘘なんかじゃない。お前は俺を買いかぶってるみたいだがな、生だの死だの、俺は受け止めてはいない。受け止めることが出来ない。俺だけじゃなく、世界中の誰にも、きっと受け止めることなんて出来ないんだ。なぜだか解るか?」

 イリスは横に首を振った。

 不満を浮かべるその目があまりにも純粋に見えて、ジンは眩しげに目を細めた。

「――――差別があるからだ。他のやつよりも、自分の方が大事だからだ。全てを平等に捉えようとする。捉えたいと思う。でも実際は、無意識のところで自分が一番大事だと思っている。生き物は皆そうだ」

「そんな……! でも、それでも私は、自分が生きるために他の生き物を殺す事に納得が出来ない!」

「例え自分がそいつに殺されそうになっても?」

「私は殺せない!」

「じゃあ、自分以外のやつならどうだ? 自分の命以上に大切な存在が、殺されそうになっていても、お前は戦おうとはしないのか?」

 ジンは静かに問うた。

 しかし問われたイリスは、強い力で殴られたような顔をした。

 青い瞳がゆらゆらと揺れる。

「私の―――――命以上に大切な、存在」

「そうだ。今のお前になくても、明日のお前にはあるかも知れない。良いか、イリス。世界の全ては常に干渉し合うんだ。お前がどれだけ己に誠実に生きたとしても、お前の生き方を貫こうとしても、ちょっとした事が全てを打ち壊す場合があるんだ。些細な事だ、取るに足らないそれが、自分が今まで必死で築いてきたものを、容易く壊してしまうんだ………」

 ジンは一瞬、その顔に卑屈な笑みを浮かべた。

 その言葉は紛れもなく、自分に向けたものでもあったのだ。

 だが彼は、苦いそれを使命感で打ち消した。

 自分は理解しつつも答えが出せず、もしかしたらずっと不安定なままかも知れないと怯えながら、しかし目の前の少女には自分のようになって欲しくないと、そう考えたからこそ、彼はそれに耐えることが出来た。

 彼は自分の内側を覗き込んだのだ。

 己の弱さを見つめる。

 そうすれば、どうあるべきかは自ずと解ったのだ。

 ジンは己を犠牲にしてでも、少女を成長させようと決めたのだ。

「大事なのはな。小さくまとまらないって事だ。これが真実だとか、これが自分のあるべき姿なんだとか、がちがちに固めちゃいけないんだ。もしそうすれば、小さな間違いが一つあっただけで、心の安定が崩れてしまう」

「でも……それってどうすれば良いの。一度に歩けるのは一つの道だけだよ。二つは選べないのに……」

 イリスは途方に暮れた目でジンを見た。

 それは母親を見失った幼子にも似ていて、ひどく頼りなかった。どうして良いか解らず、しかし助けてくれるものもおらず、ただただ怯え震えている子供。

 ジンはそこに、己の姿を重ねた。

 森に一人残されたあの日。

 もう帰ってこないのだと理解したあの時の自分。

 理解しながら、それでもまだ帰りを待ち続けている今の自分。

 ジンは拳を握りしめた。

 強く、強く。

 血が出るほどに力を込めた。

 そして。

 ふっと力を抜いた。

 両腕を伸ばし、目の前のその子供を、優しく抱きしめた。

 熱を。

 胸の奥に、確かな温もりを感じた。

「……願いで良いんだ。こうだったら良いな、こういう風になりたいなって、それだけで良いんだ。無理をしなくて良いんだ。お前はお前がありたいように、あり続ければ良いんだよ……」

 イリスは言葉を返さず、ただ抱きしめ返すことでそれに応えた。

 ジンはその温かさに目を閉じ、どこにいるか解らない自分に向かって呼びかけた。

 イリスと一緒に、俺も変わっていこう、と。 

 

 どこかで頷く気配がしたような、そんな気がした。  


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