第九話
「これは?」
「それは駄目だ。ちゃんと乾いているやつを探せ」
「じゃあ、これは?」
「ああ。それなら良い」
「よーし」
夕暮れ。
赤橙に染まる木々の狭間で、ジンと少女は薪を拾っていた。季節的にはまだ秋の始まりである。しかし、この時期から冬の備えをしておかないと遅いのだ。息が白くなりだしてからでは、ほとんど手遅れと言って良いくらいだ。秋はあっという間に終わり、冬は恐ろしい勢いでやってくる。毛皮も分厚い脂肪も持たない人間にとって、火は寒さを耐えしのぐために必要不可欠なものであり、大量の薪拾いもまた必須であった。
ジンは様々な事を少女に教えた。
物の名前とその使い道、ジンが知っている人間に関する常識、知っておいた方が良い知識。果ては転けない歩き方まで、まずは少女が一人前の『人間』になれるように指導し始めた。
その中でジンは少女が驚くほどに賢いことに気づかされた。
運動能力は良くも悪くもなかったが、頭の回転は非常に早い。教えた事は一度で覚え、忘れたり間違えたりする事が全くない。好奇心旺盛で、本人も物を覚えるのが楽しいらしく、見知らぬ物を見つけては指を指し、あれは何だこれは何だと、ひっきりなしに尋ねてくる。それを時折鬱陶しく思うこともあったが、彼はその度に己を戒め、懇切丁寧に自分の解る範囲で教えていった。彼らが教師と生徒になってから二十日も過ぎた頃には、少女は少しばかり変わった性格をしているだけの、年相応の『人間』になっていた。
「よし、そろそろ引き上げるか」
「解った」
「よく頑張ったな」
「うん!」
少女は目を細め、頬を紅潮させた。
こういうところは変わらないなと、ジンは苦笑じみたものを顔に浮かべた。
一通りの作業が終わると、伺うようにこちらの顔を見て来るところや、軽い褒め言葉でも馬鹿みたいに喜ぶところ。無邪気は相変わらず、どんな些細な事でも一喜一憂し、その表情はくるくると変わっていく。
少女が見せるそれらはジンにはないものであった。彼がかつて持っていたかも知れないものであり、今は確かに失ってしまったものである。しかし彼は羨ましいとも不必要だとも思わず、鮮やかに変化する少女の顔を見ては、胸の奥にじわりと滲む暖かさを静かに感じていた。彼はそれに僅かばかり戸惑いつつも、その心地よさに身を委ねていた。
薪を紐で一括りに纏めて背負う。
少女もそうしたのを見て、ジンは帰宅を促した。
二人は歩き始める。
少女の少し後ろを、間隔を取りつつジンは歩いていく。これは少女に危険が迫ったときに、彼が素早く対応するためのものであった。前を歩けば反応が致命的に後れるし、横を歩けば動きが限定される。人間の視野は前に広く、後ろは見えないし横もほとんど見えない。故にジンは少女の背を真ん中に、その周囲の景色が共に視界に入るようにしながら、視線を固定せずに歩いているのだ。無論、比較的安全な道だからこうしているのだ。危険なら前を歩くし、最初から少女を連れてきたりはしない。
これはいつもの事だった。
彼らは家の外にいる場合、決まってある程度の間隔を開けている。少女の身を守るために違いないのだが、当の本人にはそれが不満らしく、何度説明しても眉間に皺が寄る。しかしジンは苦笑いを浮かべつつも、決して少女との距離を詰めようとはしなかった。
前を歩く少女。
その顔は彼の位置からは見えないが、きっとむくれているはずだった。口数が少ないのがその証拠である。
もう少し大人になってくれれば、と。ジンは声に出さずにため息をついた。その顔はまるで育児に悩む母親のようであり、冷徹な狩人とは似てもにつかなかった。
ふと、少女が足を止める。
ジンは一瞬で身体に緊張の糸を巡らせ、少女の下に駆け寄った。
「どうした。何かあったか」
ナイフの柄を握りながらその横顔を見て、思わず眉根を寄せた。
目を見開き一点を見つめている。
そこに恐怖や動揺などは欠片もなく、喜びに似た輝かしい光だけがあった。
似た顔を何度か見た事がある。
綺麗な花や、愛らしい獣の子供を見たとき。想像もしてなかったような素晴らしいものに出会ったとき、少女は決まってこの顔になった。
どうやら危険はないらしいと、ジンは息を吐きながら緊張を解いた。
しかしこの顔。
いつもよりも更に色鮮やかで、陶然としている。
今度は一体何を見つけたのか。
ジンは首を傾げながら、少女の視線の先に目をやった。
そこには虹が一つ。
空に大きな橋をつくっていた。
そう言えばあちらの方角は、先ほどまで黒い雲が空を覆っていたなと、ジンはただそれだけを思った。
感動の余り声が出ないらしい少女に呼びかけた。
「帰るぞ。すぐに日が暮れる。虹はまた見られるから、ほら」
さっさと行こう、と。
そう続けようとしたのだが、ぐいと近づけられた少女の顔に、それを飲み込まざるを得なかった。
青い瞳がきらきらと輝いている。
「あれ――――にじって言うの?」
「あ、ああ。そうだ……虹だ。雨が降った後に日が差すと、時々空にかかるんだ。別に珍しいものじゃない」
それは暗に帰宅を促す台詞だったのだが、少女は全くそれに気づかず、再び空に顔を向けて陶然とした顔をした。
「虹かぁ……綺麗だなぁ……」
「そうか?」
釣られてもう一度それを見てみるが、夕日の中でぼんやりと浮かぶ淡いそれは、いかにも儚く弱々しげで、綺麗ではあるが別段感動するほどのものではなかった。蜂蜜を見つけた時の方がよっぽど感動すると、ジンは肩をすくめた。
「帰ろう。本当に暗くなる」
「うん……うん。でも、もうちょっとだけ……」
「駄目駄目。夜は本当に危ないんだから」
「うん……」
聞いているのか聞いていないのか、虹を見続けたままの少女に、ジンはため息をついた。
このままでは虹が消えるまできっと動かない。無理矢理連れて帰ることも出来るが、それは気が進まない。さて、どうしたものか……。
そしてふと思い出す。
昔、自分が今の少女と同じように、空に架かった虹を見つめていたときに聞かされた話である。
これならこいつの気を逸らせるかも知れない。
ジンはそう期待しながら口を開いた。
「虹は種族や地方によって、様々な意味を持っているんだ」
「―――意味?」
顔がこちらを向いたのを見て、ジンは自分の選択が誤りではなかったと確信した。薄く笑いながら、続きを話し始めた。
「そうだ。ある地方では神が通った後とされ、ある地方では雨を降らせる竜だとされていた。死んだ人間の魂が天に帰る道だとも、それどころか災いの前兆であると考えた種族もある」
「いっぱいあるんだ……それで、正解はどれなの?」
「いや。正解はないんだ。竜に見えるものには虹は竜であるし、恐ろしいと思えばきっとそれは恐ろしい事なんだ。人によって在り方を変えるんだよ」
「……良く解らないよ」
「はは、俺もだ。全部人から聞いた話だしな………なあ、お前にはあれはどんな風に見える?」
「私? 私は、そうだね……」
少女は淡いそれを見上げ、やがて小さく頷いた。
ジンを振り返り、柔らかく微笑んだ。
「幸せを運んできてくれる空の道、かな?」
「幸せ、ねえ……」
ジンはそう呟くと、口を閉ざした。
それは彼が少女に教えた言葉ある。
幸せとは、楽しかったり満ち足りていたり、もっと続いて欲しいと願う状態の事を言う。
彼はそう教えた。
教えられたとおりに教えた。
自分が理解できないままに、少女に教えた。
きっとこいつにも解らないだろうと、ある種の期待を抱きながら少女の反応を伺ったのだが、帰ってきたのは大きな頷きだった。
ああ、それなら何となくだけど解る、と。
何度も何度も頷いた。
少女は気づかなかったが、彼はその時途方に暮れた顔をしていた。
焦りのようなものが、漠然と胸の内で蠢いたのだ。
少女に声をかけられて我に返り、再び言葉の授業を再開した。ひどく落ち着かない気分になりながら、それを考えないようにしたのだ。
虹を見上げる少女の横顔を見る。
お前の幸せは何だ。
思わずそう尋ねてしまいそうになり、しかし彼はそれを無理矢理押さえ込んだ。
そしてただ、空の虹を見つめた。
―――もしかしたら。
もしかしたら、彼は少女がそこに見つけたものを、自分も必死で見つけようとしていただけなのかも知れない。少女の横に並び、少女の見つめるものを見つめ、そして少女が識るものを自分も識りたかったのかも知れない。
それは誰にも解らなかった。
彼には解らなかった。
「……そうだ」
「何?」
「お前、相変わらず自分の名前は思い出せないままか?」
「うん。全然だめ。ちっとも思い出せない」
「そうか……それじゃ思い出すまで、仮の名前をつけておくか。まあ、別に『お前』のままでも俺は問題ないんだが」
「え――――な、名前? 名前くれるの!?」
「落ち着け。お前は虹が好きみたいだから、イリスってのはどうだ?」
「イリス……」
「詳しくは知らんが、古い言葉で虹を意味するらしい。どうだ? 嫌なら他のにするが」
「う、ううん! それが良い、イリスが良い! イリスじゃなきゃ嫌だ!」
「そうか。それじゃ、お前は今日から本当の名前を思い出すまではイリスって事で」
「うん! うん! 私はイリス! ずっとイリス!」
「だから思い出すまでだって」
「嫌だ! この名前が良い! 私はもうイリスだもん。他の誰でもないんだから!」
「はあ……まあ、お前の好きにしろよ。それじゃ、イリス。帰るぞ」
「――――――」
「どうした……? ほら、日が暮れるって」
「も、もう一回呼んで。私の事、呼んでみて」
「……イリス。帰るぞ」
「えへ―――えへへっ……イリス。帰るぞ――だって」
「先に帰る」
「あ、ま、待って! 待ってってば! ジン!」
その日。少女は己の名前を手に入れた。
そして、その傍らで少年は。
己の心を見失った。