プロローグ 天のざわめき
天使達が身を寄せ合い、ひそひそと話をしている。
いつもは見る者の心を和ませる愛らしい顔が、今はおそろしく引きつっていた。
中には唇を震わせているものさえいる。
まるでこの世の終わりが来たとでも言うような、そんな雰囲気だった。
足音。
それを耳にした彼らはびくりと振り返り、そこに立つものを見て、更に激しく狼狽した。 慌ててうやうやしく頭を垂れる。
壮年の男。
天使達が触れ伏す相手はただ一人、この男だけである。
すなわち天界の主であった。
「―――良い。庭園の見回りでもしていろ」
命令ではない。
提案に近かったはずだ。
だが彼らは、言葉を耳にするとすぐさま背中の羽根を羽ばたかせ、あっという間に飛んで行ってしまった。
ため息が一つ。
しかし空に拡散するそれを、拾い上げる者がいた。
「天使達を怯えさせてはなりませぬ」
女である。
美しいその顔は悲しみに彩られてもなお、目が覚めるほどに美しかった。
しかし天の主である男は少しも目を奪われることはなく、その口から再び吐息を零した。
「彼らは私に怯えているのではない。お前にもそれは解っているだろう」
「だとしても、今の言い様はあまりにも心ないものです」
「……解っておる。解っておるのだ」
苦渋が滲む。
首を力なく横に振り、淡々と言葉を紡ぐ。
「怯えても何にもならない。成すべき事を一刻も早く成すのみだ。既に私は手を打った。現状で打てるだけのな。だから」
再度ため息。
それはおそらく、男が今まで吐いたものの中で一番重いものだった。
「……もう私に出来ることはない」
背を向けて、どこかへと歩き去ろうとする。
しかし女はそれを呼び止めた。
「そんな事はありません。自ら道を閉ざしているだけなのではありませんか」
男は立ち止まる。
それはどうやら男の心の裏を突いたようだった。
抉ったと、そう言った方が良いかもしれない。
「私が……逃げていると、そう言うのか?」
怒気が放たれる。
押し殺されたそれは、余計に濃く激しく変化し、周囲の全てのものに悲鳴を上げさせた。
びりびりと、柱や壁が音を立てた。
女も間違いなく怯えただろう。
しかし、その怯えを見せることなく、それどころか果敢にも立ち向かう事を選んだ。
「その通りです。あなたは逃げている」
「は! 何からだ。何から俺は、逃げている?」
「あの子からですよ。あなたはあの子に怯えているんですよ」
女の言葉は、遂に男の心をずたずたに引き裂いた。
男は悲鳴を飲み込み、逆にそれを怒りに転嫁した。
恐ろしい相貌で女を振り返り、大きく見開かれた目でにらみ据えた。
「―――怯える。お前は今、そう言ったか?」
「はい。そう言いました」
「冗談ではない! どれだけの可能性を秘めていようが、あれは力の使い方を知らん! それどころかその力すら厳重に封印し、下界の者と変わらん状態にしてある! あれは既に人と同じだ! 記憶も消してある! 取るに足らん存在だ! 俺があれに怯えるはずなどありはしない! 絶対にだ!」
呼吸荒く。
肩で息をしながら、女をにらみ据える。
肯定しろと、その目がそう告げている。
我が意にそぐわぬ事を言えば、恐ろしい仕打ちをくれてやると、そう告げていた。
女はしかし気丈だった。
男のぎらつく眼光を正面から受け止め、目を逸らしたりはしなかった。
そして膝を屈したりもしなかった。
「やはり怯えておいでですよ、あなたは」
「なんだと」
「あの子が自分を超えるかも知れない事に。赤ん坊のように震えているのですよ」
「ふざけるな! 誰に向かってものを言っている! 俺は天の主だ! 絶対なる支配者であるぞ!」
「その絶対が揺らぐ可能性があるから、あなたは怯えているのでしょう。何よりあなたは、自分の胸に湧いた一つの予想に怯えている」
「―――黙れ。黙れ黙れ黙れ!」
男は取り乱し、耳を塞ぎ目をきつく閉じた。
かみ合わされた歯がガチガチと音を立てる。
耳に当てられた腕も小刻みに震えていた。
女は男のその様子を深い悲しみと哀れみをもって見つめた。
しかし、その決意は少しも揺るがなかった。
口を開け、とどめの言葉を放った。
「復讐を怖れている」
「―――――ひ」
「あなたは愛情を注ぐどころか、自分可愛さにあの子を虐げてきた。名前すら与えず、抱きしめることもなく、暗い牢獄の中に押し込んだ」
「やめ……やめろ」
「そして遂に、その命を奪おうとまでした」
「や………やめてくれ……」
「だがあの子はそれを逃れた。あの子の姿を見失ったあなたは、今度はあの子の影に怯えている。ありもしない姿を暗闇に見つけては悲鳴を上げ、自分より弱い者に当たり散らしている。あの子の復讐を怖れているのです。なぜならあなた自身が一番良く、自分の犯してきた罪の重さを理解しているから」
「か、必ず見つけ出して殺す! 今度こそ……今度こそ、必ず!」
男はぶんぶんと首を横に振り、必死で自分に言い聞かせた。
そしてほとんど走るようにその場を去り、どこかへと消えていった。
女は沈痛な表情で目を閉じた。
後悔と自責。
その二つが、女の顔に表れていた。
「……私がもう少し力を持っていれば。私がもう少し勇気を持っていれば、あの子はこんな惨い事にはならなかったのに」
その瞬間、女は確かに泣いたように見えた。
しかしその瞳から涙はこぼれなかった。
耐えたのだ。
自責の念が、女に涙をこぼさせなかった。
自分には泣く資格などないと、自分を判じたのだった。
「行き先は下界。もう刺客は放たれたはず。あの人のことだ、選りすぐりの者を選んだはず。ただでさえ戦乱の続く人の世界。力の一切を封じられたあの子には危険すぎる。それにおそらく天界からだけでなく、魔界も手を出してくるに違いない。天界と真っ向からやり合う事になっても、きっと」
顔色はますます悪くなる。
握られた細い指が、力の込めすぎで真っ白になっている。
噛みしめられた下唇からは今にも赤いものが零れそうだった。
「……運命なのだろうか。本来あり得ないはずの、あの子の誕生は……」
女は自分の考えに取り憑かれかけた。
だが強く首を振ってそれを押しやった。女はそのような安易な逃げ道を選択しようとはしなかった。
誰よりもあの男をよく見てきたのだ、その結果がどういうものになるかは良く解っていた。
顔を上げたとき、その目には強い光があった。
「私も手を打たなければならない。塵ほどの役にしか立たなかったとしても――――リディス」
呼びかけは意志に満ちていたが、それでも小さな声だった。
本来なら到底聞き届けられないようなそれは、しかし確実にその役を果たした。
人影が一つ現れる。
「ここに……しかし、塵ほどとは。少々悲しうございます」
「ごめんなさい。別にあなたの力が弱いと、そう言ったわけではないのよ」
「解っております。冗談です」
「お願いがあるの」
「存じております。精一杯その任を担い、見事果たして見せます……と言いたいところですが」
「ええ。解ってる。私も重ねて手を打つから、心配しないで……と言うのは厳しいだろうけど、どうかお願い」
「お願いとあれば頑張りますよ。命令だったら拒否していたかも知れませんが」
そう言って軽く笑う。
女はそれを聞いて、ここに来て始めて和らいだ表情を作った。
「道具も武器も、あるだけ持って行って良いから。入り用なものがあったら言って。すぐにそろえるから」
「了解しました。出発は出来るだけ早い方が宜しいですね」
「ええ。そうしてちょうだい。誰よりも早くあの子を見つけて、そして助けてあげて。後はこれを………」
女は自分の首から首飾りを一つ手に取り、それを指でなぞった。
キン、と金属特有の響きが一つ。
女は首飾りを両手で包み込むように握りしめ、優しく息を吹きかけた。
様々な思いをもってそれを見つめた後、リディスと呼ばれた人影に手渡した。
「……これは?」
「あの子に渡してください。あの子の名前を、裏に刻んであります」
「名前を―――――考えておいでだったのですか」
「ええ。あの人に知られれば、ひどい事になっていたでしょうけど。私は考えずにはいられなかった」
「……そうですか」
「私があの子にしてあげられる事なんて、ほとんどない。何をしたとしても、全部自己憐憫でしかなくなるから。でもせめてこれだけは……あの子に渡したくて……」
女はぐっと歯を食いしばった。
やはり気丈だった。
再びその感情の奔流に、女は耐えきって見せた。
微かに潤んだ瞳で人影を見つめた。
「お願い。これだけで良いから、渡してあげて」
「―――お任せを。命に代えましても、必ずお渡しします。そしてお救いしてみせます」
「ありがとう……ありがとう」
女は崩れそうな笑みを精一杯顔に浮かべ、何度も何度も頷いた。
そして瞳を閉じ、両手を目の前で組んだ。
祈りだった。
本来祈る相手などいるはずもないのに、女はそれでも祈った。
祈らずにはいられなかった。
心の中で何度も何度もその名を呼びながら、女は一心に祈り続けた。
どうか。
どうかあの子をお救いください。
あの子を。
――――を、どうかお救いください……。