謎の飲み物シャパテー
某芸術大学の近くに、一軒の洋食屋がある。路地裏にひっそりと佇むその店構えは、レトロな雰囲気ではあるが、決して汚らしくはない。店内も上品な雰囲気で、落ち着いて食事を楽しめる、そんな場所だった。
テーブル席には男女二人連れが掛けていた。男の方は黒いスーツに黒いシャツ、サングラスに帽子を被っている。女の方は動きやすそうなTシャツにジーンズといった出で立ちで、片肘立てて頬杖をつきながら、向かいの男にジト目とも呆れともつかぬ眼差しを向けていた。
「その格好何なの?」
「夏ですからね」
「ふーん」と気のない返事をひとつして、卓に置かれたルーレット式占い機に硬貨を投入する。おみくじのようなものが出てきて、本体に指された数字を頼りに内容を確認してみると、
「ええっと、『三』は……『最初は思い通りにならなくても、我慢すれば意外に嬉しい事があるでしょう』か。まあそうね。ちょっと我慢すればきっと、ね」
対面に座る男が脂汗を掻き始める。
彼女をここに呼び出したのはこの黒ずくめの男だった。二人は昵懇の間柄ではあるが、この日はデートとは少し違う様相を呈していた。男の所属するグループの活動の一環で、この店に調査に訪れていたのだ。彼女には第三者として客観的な忌憚のない意見を出して貰う為に足を運んで貰っていた。夜営業はしていない為昼のこの時間になり、しかも終わったらすぐに戻らねばならない。二人とも午後に講義があったし。因みに諸経費は全て男持ちだ。
咳払いをひとつすると、
「ちょっと面白い飲み物があるみたいでしてね」
「それもいいけど、ナポリタン頼んでいい?」
「あ、ハイ、どうぞ」
彼女が店員の女の子に注文をする。同じものを男も頼むと、それに加えて――
「シャパテーを、二つ」
「「シャパテー?」」
彼女と店員が思わずハモって聞き返す。
(ああ、やはりガセだったか)
男が心中軽く嘆息をついて、「すみません、間違えました。レモネードを二つ――」
そう言い直そうとした時だった。
「ナポリタン二つにシャパテー二つだね。ちょいと時間掛かるがいいかい」
厨房の奥から響いた嗄れ声に困惑する店員をよそに、黒ずくめの男は一も二もなく、「お願いします」と答えると、嗄れ声は何でもない風で「あいよ」と返してくるのだった。
「……ねえ、シャパテーって、なに?」
店員が奥に引っ込んでから彼女がそう訊ねてくる。先程までと打って変わって、興味津々のようだ。
「知らないですよ」
「知らない?」
「一部で密かな話題になってましてね。シャパテーなる謎の飲み物を出す店がある、って。今日はそれを飲んでいただいて、率直な感想が聞きたいんです」
「あんたも飲んだ事ないのね?」
「ええ。だから調べようと」
男が言うと、彼女が胡乱な眼差しを向ける。厨房では先程の女の店員が何やら鍋を振り始めた。恐らくナポリタンを作っているのだろう。
「響き的にはチャパティーが近いけど、飲み物って事はチャイの事かしら」
「さあ。それを含めて、分からないものですから。でも評判はいいらしいですよ、二度はなかなか頼めないらしいですけど」
「胡散臭いわね……裏メニューか何かなのね?」
「そのようですね」
メニュー表にはそれらしきものは載っていなかったし、店員の女の子も知らない風だった。奥の嗄れ声――恐らく店長なのだろう――しか出せないメニューなのだろうか。
と、厨房からゴリゴリとした音が聞こえてくる。何かの骨でも砕いているのか。
「……大丈夫なの?」
「……さあ、恐らく……」
自信なさげな男をよそに、先にナポリタンが運ばれてくる。ひと口食べてみるとまさにそれといった感じの、スタンダードな間違いのない美味しさだった。しかし……
「あの、メニューではスープ付き、って書いてあったんですけど……」
Tシャツの女が店員にそう確かめると、訊かれた方も困惑しながら、
「えっと……シャパテーをご注文されてらっしゃるので、スープは付かないらしいです」
そう言われて思わず二人で顔を見合わす。つまりシャパテーとは、所謂ドリンク系ではなく、スープ系の何かだという事だ。「そうだったの、ありがとね」と言って店員が戻ると、
「なかなか面白そうじゃない」
そう言って対面の彼女が腕を組む。
「折角だからブツが来るまで待ってやるわ」
それから五分ほどして、厨房に立っていた嗄れ声の男が、おもむろにグラスを二つ運んで来た。
「はい、シャパテー二つ」
卓の上に置かれたそれは、黄金色に輝いている。ビールや栄養ドリンクのそれと色味は似ていたが、立ち上る香りは全くの別物――冷製スープのそれだった。
主人の挑戦的な眼差しに恐る恐る黒ずくめが口を付けてみると――
「……! これは……!」
それは今まで口にした事のない味だった。舌の上に触れた瞬間、日当たりの良い森の映像が脳内に立ち現れる。薄味だが繊細かつ奥行きのある、それでいて懐の深い滋味を感じる味。飲み込む瞬間鼻の奥を抜ける香りは、川の恵みそのものといった感じだった。
向かいに座る彼女が法悦とした表情を浮かべる。恐らく自分も同じような表情をしている事だろう。
「これはどこの飲み物なんですか?」
訊けば主人はカカッと笑い、
「どこも何もねえさ。自前のもんだよ。オリジナルだ」
「そうなんですか。いや、凄いウマいですよ、これ」
「うん、イケるわね」
「そう言われると料理人冥利に尽きる、ってもんだな」
そうして再度カカッと特徴的な笑い声を上げる。これはチャンスと黒ずくめは身を乗り出すと、
「因みにコレ、何を使ってるんですか」
そうすると主人は、「知りたいかい?」と悪戯っぽく笑ってから、
「まずは麝香猫の糞から出たコーヒー豆だろ」
「アラミド・コーヒーのアレですか。物凄い希少なんじゃないですか」
「お嬢さん良く知ってるね、それだよ。後は鹿茸に冬虫夏草……」
「漢方みたいだな」
「それに黄色4号」
「一気に危険な香りがしてきたわね」
「後は隠し味にゆるぺろを……」
「「ゆるぺろ?」」
思わず二人でハモってしまう。聞き慣れない響きだが、一体なんなのだろうか。最前と違って店主が菩薩のような顔をしているのが恐ろしい。
「まあゆっくり味わってくれ」
そう言って厨房に戻ろうとするのを黒ずくめは引き止めると、
「今日はもう閉店なんですか?」
見れば女の店員が表の札をひっくり返していた。時刻はまだ昼の一時を少し回ったくらいだが。
「ああ、まあ今日はねえ。揉めても面倒だしねえ」
何を揉めるのか分からないが、まあ事情があるのだろう。戻って来た店員が厨房の中を見るや、「……ヒッ! ゆるぺろッ……!」と息を呑んでいるようだったが、本当に何を飲まされたのだろう。彼女は華麗なバックステップでレジカウンターの前に戻ると、ガードを固めるように両腕を顔の前に上げた。店主は厨房に戻るとすぐに肉叩きを取り出して、ぐちゃりぐちゃりと普通ではない音を響かせ始めた。
「混沌としてきたわね」
向かいのTシャツがシャパテーを啜りながら言う。
「でもまあ、充実した時間ではあったかしらね。謎が解明出来たワケだし」
「まあ、そうかも知れませんね」
言っていると、窓のブラインドが下ろされる。まだ客がいるのにそれをやるのは如何なものかと思うが、仕事の時間とそうじゃない時間のメリハリがしっかりしているのだと、そう考えることにする。
食事が済んで席を立つと、「お会計はこの子が持つから」とそう言って、Tシャツの女は機嫌良く店の外に出て行った。
まあ、そう言ったのは確かだった。だとしてもそんな即物的な言い方をしなくてもいいだろう――と男は幾分苦笑を浮かべつつ、手書きの伝票を女の店員に渡す。
「ご馳走様でした、とても美味しかったです。また来させていただきますね」
そう言うと店員と奥の店長がニッコリと笑い、
「「ありがとうございます」」
直後、入り口の鍵がかちゃりと締まる。
怪訝な顔を浮かべているとそれに次いで、
「ナポリタン二つにシャパテー二つ、合わせて二万八千六百円になります」
「……ん!?」
思わず顔を上げてレジの表示に目をやる。
¥28,600
うん、やはり間違いではない。四桁ではなく五桁だ。
恐る恐る店員を見ると、彼女も苦笑ともつかぬ表情を浮かべている。
奥の店長に目をやるとやはり穏やかな笑みで、
「まかりませんよ」
そう言うと彼はちらりとこちらが手に持つ財布に目を向ける。実は中に一万円程しか入っていない。正直三万近くになるなど、想像だにしていなかった。ぼったくりじゃないか! と言ったところで、わざわざ裏メニューを頼んだのはこちらの方だし、一緒に来たTシャツの彼女と店長の会話を鑑みるに、食材自体もかなり希少であるらしい。
斯くなる上は免許証を人質にATMでカネを下ろすか、さもなければ作ったばかりのクレジットを早速使うしかなさそうだが……
「じゃあ、こちらで」
トレイにそっと現金を置く。
「えっと……すみませんお客様、お代の方こちらになっておりまして……」
「ん? ぴったりですよね?」
「いえ、ですから桁がひとつ――」
そこで嗄れ声の店主が出てきて、
「お客さん困りますよ。お勘定はしっかり払って頂かないと」
そう言って今使っていた肉叩きを露骨にこちらに見せてくる。隣の女も、「え、食い逃げするつもり……?」とやおら組んでいた両手にどこからともなく取り出したメリケンサックを嵌め始める。
これはタダでは返してくれなさそうな雰囲気だ。だが――
「因みに私こういうもので……」
おもむろに懐から名刺を取り出す。それを店主に手渡すと、記されていた肩書きに微かに顔色が変わる。
◯◯大学理学部客員准教授
◯◯芸術大学特任講師
環境省生物多様性調査部河川担当室アドバイザリー
碓氷蓮
「……なんだい、お偉い教授先生だからカネ出さねえ、ってかい」
「店長、警察呼びます……?」
「カネを払わんならそうするしかねえが……」
「ゆるぺろ」
その言葉にピタリと店主が止まる。
「目を瞑ってやってもいいんだけどなあ……」
「へ、何の事を言ってやがるんだ、あんた」
「特別天然記念物」
「……」
「て、店長?」
二人の間で会話が進む理由が分からず、店員が困惑気味に嗄れ声を見る。
「……チッ、さっさと帰んな」
そう言って手元のリモコンで入口のロックを解除した。出て行くや呆気に取られている女の店員を尻目に、バタン! と勢い良く扉が閉められた。
店の外には一緒に来た彼女が待っており、「早くしないと講義が」と若干焦り気味だった。それに対して黒ずくめは、
「休講にしましょう」
そんな事を言い放つ。女は呆れ顔で、
「流石にワタシも講義するのを放っぽり出してまで彼氏とイチャイチャする気はないんだけど?」
「いやあ、実は警察かどこかに通報しなきゃならなくてですね」
言いながら懐からシャパテーの入ったスポイトを取り出す。
「いつの間に……あんたそういうの器用よね。で、通報って何を?」
「いやあ、料理に違法で特別天然記念物使ってるヤツって、どう思います?」
女の顔色が変わる。
「……特別? って事は『ゆるぺろ』って――」
「多分オオサンショ……あ、その前に謝っておきます」
「へ? 何を?」
唐突な宣言に女が怪訝な表情を浮かべていると、
「自分のだって偽って、先生の名刺渡しちゃいました」
三十分後、そこには警察に連行されていく店長と店員さんの姿があった。「無実だぁ!」と叫びながらも、回収した『ゆるぺろ』と例のスポイトやら肉叩きやらを見せられて、「……だからそっちは認めるんだけど!」などと訳の分からぬ弁解をしている模様だ。
遠くから救急車の音が聞こえてくる。一行の目の前に止まると――
「ああー、完全にのびてるね」
「ノックアウトされてるねえ」
「あの店員、都内のジムで本格的に習っていたらしいな」
「ついてない」
「しかし何でこんなに幸せそうな顔してるんだろうか」
「さあ、いい夢でも見てるんじゃないか?」
そう口々に言われながら、黒ずくめの男が救急車に乗せられていく。
「いやあ、災難でしたなあ。教え子が襲われるなんて」
「ええ、彼が私を先に外に出してくれてなかったら、きっと私もあの二人に……そう思うとゾッとします」
震える声でTシャツの女――碓氷が言うと、パトカーに乗せられるところの二人が暴れ出して、
「ふざけんな! アイツボコボコにしたのお前だろこのクソアマ!」
女店員がそう言えば、嗄れ声も押し込まれそうなのを抵抗しながら、
「ぬ、濡れ衣だ……!」
とそれだけ絞り出し、署に連行されていく。
「では、私も救急車に付き添いで乗りますので……」
「はい、連中の悪事はきっちり暴いておきますから、こちらの方はご心配なく!」
そう言って碓氷が救急車に乗り込み、中に居た救急隊員が一瞬席を外し二人だけになると――
「……特別天然記念物の使用に私が気付き、店主に勘付かれたのを察知して君が私を逃してくれた。二人にボコされた君がなんとか出てきたところで、通行人に私が大声で助けを求めた。……オーケー?」
「……お、オーケー……」
薄目を開けて、寝たふりをしていた男はそう答えた。
実際には何が起こったか。
キレた彼女が黒ずくめをタコ殴りにし、あまりの剣幕に思わず店の二人が出てきたところで、これはまずいと思った女が咄嗟に表通りに出て助けを求めた。通り掛かり数人が店の二人を取り押さえ、やってきた警察も勘違いし、また二人が肉叩きやらメリケンサックを身につけたりしていた為、それに拍車が掛かったのだった。
因みにキレた理由は、ひとつは勝手にマークされるような個人情報を渡したから。それによって彼女を巻き込む形になったから。しかし何より――
「『殴ってくれ』なんて、本当に勘弁してよね……」
店主が証拠隠滅する時間を持たせない為、黒ずくめ自らがそうするよう彼女に頼んだのだった。流石に店先で男が馬乗りにされる事態は想像出来ていなかったのだろう、店の二人に片付ける精神的ゆとりを与えなかった。演技に見えないようにする為、男もある程度女の本気を引き出す必要があったのだが……
「でもマジで、ああいう事言わないでよ。チカラ入るから」
『ああいう事』が何を指すかは敢えて口にしなかったが、相当看過しかねるものだったのだろう。言いながら彼女自身、顔が真っ赤になっていた。
「……でも我慢して良かったでしょう?」
黒ずくめがそう言うと、
「そうね。休講にする正当な理由も出来たし……これで暫く、二人っきり」
そう言っていちゃつき始める。それを見て乗り込もうとしていた救急隊員か生温かい目でひと言。
「そういう事はホテルでやって下さいね?」
宜しければ評価お願いします!