謎の部隊・・・霧島部隊
私は、公立中学校で校長をしている。
中学校、校区内に、霧島部隊の生き残りの方が住んでいるって知って、講演依頼を頼み、成功させた。
私が校長をしている中学校では、夏休み、8月15日に、戦争体験者の語りを、子どもたちに聴かすのが伝統になっていて、今年は、もっとも最適な方に依頼が出来て、校長としての責務を果たせて満足をしている。
そして、8月15日、語りが終わる、皆が絶句、拍手の嵐が巻き起こった。
私は、市内で公立中学校の校長をしている。
今日も、学校区内に住んでいる、一人暮らしのご老人に会いに行く、今回で、141回目の訪問になる。
拒否されても、拒否されても、子供たちにお話しをしてもらいたい事があるからだ。
夏休み、8月15日、中学校で、戦争体験者の生き残りのお話しをしてもらいたい・・・
特に、今回は、今から訪問するご老人は、謎の部隊・・・霧島部隊の生き残りの方だから、是非とも承諾をしてもらいたいって思ってる。
家のインターホンを、私は押した。
玄関が開く・・・
一人のご老人が応対する、とても嫌そうだ。
(また、校長先生かい、今回で、141回目だぜ?)
そう、話すのは、雨傘完爾さん、霧島部隊の生き残りの方だ、私は、霧島部隊のお話しを子供たちにしてもらいたいってお願いを、今日で141回もしている。
校長として、大人として、霧島部隊のお話しは、子供たちには必要不可欠と思っている。
戦争体験者の語りが、皆無に等しい昨今、後世に伝えて行かなければいけないと、教育者として信念があるからだ。
そして、141回目の努力が報われた。
雨傘さんは、言ってくれた。
(校長先生には、参った。わかったから、当日、中学校に行くから、だから、もう、帰んな・・・)
私は、深々と頭を下げた。
(ありがとうございます、当日は、よろしくお願いします。)
8月15日に照準を合わせて、約5ヶ月、お願いをし続けた努力が報われた。
努力は必ず報われる・・である!
学校区内に、霧島部隊の生き残りの方が住んでいるって知ってから、この講演依頼は是非とも成功させたかった。
当日、8月15日が、楽しみである。
私が校長をしている中学校は、伝統で、8月15日に、体育館で全校生徒に、戦争体験者の語りを聴かす講演を開いている。
語りは、後世に引き継ぎ、伝えていかなくてはならない、代々の校長の意志を受け継ぎ、今年は、もっとも最適な戦争体験者を中学校にお招きをする。
校長としての責務を全うできた喜びのまま、当日、8月15日を迎えた。
中学校体育館・・・
私は、校長としてのスピーチを終えて、雨傘莞爾さんを子どもたちに紹介した。
壇上には、パイプ椅子を用意した。
座ってもらって、語ってもらうスタイルにした。
中学校体育館に集まった全校生徒、3年の子どもたちは、長時間の語りが始まるのに嫌な顔をする。
校長として、先生方、子どもたちが、真剣に、雨傘さんのお話しに没頭してくれると確信があった。
パイプ椅子に座った、雨傘莞爾さんは、体育館に集まった全校生徒に挨拶をした。
(雨傘と言います、長時間の立ち話は無理なので、座って喋る無礼をお許しください。君たちの中学校の校長先生に頼まれて来ました、戦争を語ってくれって頼まれた。これから、お話しをする内容は、君たちみたいな子どもたちも登場してきます。)
太平洋戦争末期・・・
宮崎県日南市の城下町に、5ヶ月間だけ滞在をした旧日本陸軍の部隊がありました。私、雨傘は、その部隊に在籍をしてました。
64人の兵隊は、昼間、ほとんど姿を見せず、地域住民も「何をしているのかわからなかった」と証言をする者もいる。
私、雨傘が在籍をした部隊、謎に包まれていて、部隊の姿をひもとくと、目前に迫る本土決戦に向けて、「1億玉砕」をも覚悟したという九州の緊迫した状況が浮かび上がる。
※本土決戦
米軍など連合国軍は日本を無条件降伏させるために、本土への侵攻が不可欠と判断、1945年11月1日に鹿児島県・大隅半島の志布志湾、薩摩半島の吹上浜、宮崎県の宮崎海岸に上陸する「オリンピック作戦」を企図した。日本も九州に多くの部隊を配置、戦史叢書には「急速に増強され、総兵員は約90万に達した」とある。
連合国軍は46年3月1日には関東地区に上陸する「コロネット作戦」も計画、2つは合わせて「ダウンフォール(殲滅=せんめつ)作戦」と呼ばれる。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏、作戦が決行されることはなかった。
私、雨傘が子どもたちに説明するとですね・・・
(戦争で、敗戦が濃厚、沖縄県を占拠されつつ、九州にまで、敵兵が進軍をして来るって感じだね。)
宮崎県日南市飫肥は、飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄えた。
私かいた部隊は、外交官で政治家の小村寿太郎を育てた旧藩校「振徳堂」敷地内の青年学校に居着いた。
1945年、1月だったと思う。
近隣住民は言った、部隊が訓練する様子を見た事がない、「昼間に動くなら、トラックなどが行き来するでしょうが、まったくでした。」
たまに見かける兵隊の目つきが、とても鋭かったと証言する者も存在した。
近隣住民は、「夕方以降は、振徳堂に近づくな」と、子どもたちに厳命をした。
不気味な存在から、「敵国に送り込むスパイらしい」との噂があった。
不気味な存在の部隊・・・
私、雨傘が在籍した、部隊名は・・・
「西部軍遊撃教導隊」
霧島神宮(鹿児島県霧島市)にちなみ、通称は「霧島部隊」と言った。
64人が、在籍した。上官はスパイ養成機関の陸軍中野学校出身者で、隊員は九州各地から20歳前後の優秀な下士官や兵士が集められた。
私は、陸軍に入隊後、即座に辞令を受けた。
「西部軍遊撃教導隊機関要員を命ず」
私は、遊撃の意味が分からなかった。
1945年、1月に飫肥に赴いた。
上官の命令は・・・
「昼は寝てろ、夕方から支度するぞ。」
午後6時頃、武装すると翌朝まで山の中を歩く、目が暗闇に慣れるまでの時間を計り、星や風向きから方角を読み取る。
「射撃訓練なんて一切なかった」
沖縄県出身の上官に空手を習い、缶詰の中に爆弾を仕込む「缶詰爆弾」を頭に縛り付けて海を泳ぎ、対岸の船に仕掛ける練習もした。
「死ぬな、生きて敵をかく乱し続けろ・・・」
ゲリラ戦の要員なのだと理解をした。
程なくして、本当の狙いを知ることになる。
私ら、隊員たちは、5月に飫肥を離れ、九州各県に配属、中学生ぐらいの少年をゲリラ兵に仕立てろと命令が下った。
米軍は44年7月、日本が絶対国防圏と定めたサイパンを没落させ、沖縄県、日本本土を狙っていた。
本土決戦を覚悟した日本軍は、沖縄県の次に南九州が狙われると考え、戦力を集中させようとする。
不足する兵力を補うために、目を付けたのが徴兵制度、召集年齢に満たない10代前半の少年だった。
「1億玉砕」
日本軍は、国民全てを戦力と見なした。
私、雨傘は、鹿児島県に配属になりました。
鹿屋、指宿、枕崎と転々とし、現地の有力者が集めた300人ほどの少年を指導した。
「1ヵ所当たり、2日から3日、武器はないので訓練らしい訓練ではなかった。」
蛸壺に身を潜め、戦車が通れば爆雷を仕掛ける。
持久戦に備えて、食える野草の見分け方も教えた。
急造の少年部隊の存在意義は、主力部隊が到着するまで、敵との戦いを引き延ばす「時間稼ぎ」
陸軍中野学校出身者がまとめた校史には・・・
「本土決戦の人柱部隊」・・・とある。
1945年8月15日、本土決戦の前に終戦となり、少年たちが犠牲になることはなかった。
しかし・・・
一方、激しい地上戦が繰り広げられた沖縄県では、同じく陸軍中野学校出身者が育てた少年ゲリラ部隊・・・
「護郷隊」
が、米軍と戦った。
「10人殺したら死んでいい」
「故郷を守れ」
愛国心と愛郷心を、煽られた末に、成人を含めて、少なくとも、約160人が生命を落とした。
私、雨傘は、後々に、「護郷隊」の存在を知った。
歴史を知った、そして・・・常に思うんです。
「私は、少年たちに生きて戦いを続けろと教えた。死ぬ事を強要していない・・・」
私、雨傘は、語気を強めましたけど・・・
「本土決戦になっていれば、死んでいただろう、まだまだ子供だったんですよね・・・」
と、呟き、記憶が走馬灯のように蘇る。
そして思う、戦争とは・・・
国のために生命を懸けて戦えと教育をされ・・・
いざ、戦争が始まれば・・・
守るべきは国民ではなく国になる・・・
恐ろしさは・・・
そこにある・・・
雨傘完爾さんの戦争体験のお話しは終わった・・・
そして締めくくりの言葉を残した・・・
「生きたくても、死ななければいけない時代が、日本にあった。君たちは、死ななくても良い時代を生きている。でも、知っていて欲しい、死ななくても良い時代を作ったのは、死ななければいけない時代の人々が築き上げたんだって事を・・・君たちが一生懸命に生きる事って、親に感謝をし、友達を大切にし、先生方からは、勉強を教えて貰い、そして真面目に学び、日々の学校生活を無駄にしない、一生懸命に生きる努力をする事が、戦争で犠牲になった生命に対しての供養になると思います。」
中学校の校長として、先生方、子供たちの顔を確認する。子供たちは、自分と同じ年代の子供がゲリラ兵となり戦争に参加をしていた事に驚き、そして絶句した。先生方は、子供がゲリラ兵に教育をされていた事実に驚く・・・
雨傘完爾さんが壇上から降りようとした時に、生徒たちからは、スタンディングオベーション、拍手が鳴り止まなかった。
先生方にも、涙する先生がいた。
雨傘完爾さんにとって、辛く苦い思い出、しかし、校長として、教育者として、雨傘完爾さんに語ってもらった事は、凄く意義がある事だと、私は思う。
だって、戦争体験の語りは、後世に残すべき・・・
雨傘完爾さん、本日は語っていただき、ありがとうございました。
貴方に、講演依頼をして、本当に良かった。
それと同時に、辛く苦い思い出を思いださせて、すみませんでした。
(終わり)
霧島部隊は、実在した部隊です。
子どもをゲリラ兵に仕立てる部隊が、存在した事は衝撃的でした。
現に、護郷隊が米軍と戦って、生命を落としている。
霧島部隊、唯一の生き残りの方は、実際にいます。霧島部隊の事を語ってくれています。
唯一の生き残りの方が、語ってくれた事により、この事実を知る事が出来た。
とても、感謝をしています。




