43、さくら吹く
誰かに優しくするのに、理由なんて要らない。
だけど、優しくする理由が必要なやつもいる。
オレがそうだ。
血が繋がっているから。
親切にしてくれたから。
そういう理由がないと、どう接していいか分からない。
どうやって優しくすればいいか分からない。
オレには理由が必要なんだ。
どんなことにでも理由を探してる。
可哀想だから。
その理由だけが、あの頃のオレを動かしてた。
ちいさい頃のオレは、自分より弱そうなやつを見て、自分より大丈夫じゃなさそうなやつを見て、自分のほうが弱くないし大丈夫なんだと、だから気に掛けてやらないとなんて思ってた。
そうしてオレは、自分が優しくできる理由と相手を、同時に見つけた。
あの住宅街にあるちいさな公園の、おおきな桜の木の下で。
コイツを、見つけたんだ。
◆◆◆
卒業式を終え、ヒナ含め取り巻き連中の周りに下級生の塊が押し寄せる。
式の名残で緩慢だった人の流れも、体育館を出た途端に騒々しい。
せめてもの救いは、自分のそばに誰も寄りつかないことだ。
居心地のいい別れになる。
気分がいいな。
爽快な解放感がある。
めったにしないニヤケ面を空に向けた。
こんなのは小学生以来だろう。
揚々と校舎への渡り廊下を歩くオレとは違って、ヒナはいつもと変わらず甘ったるい笑みを浮かべてやがる。
まあ、オレにとって今の状況はありがたいけどな。
喋ったこともないやつが寄りつかないうえに、アイツも簡単には移動できないはずだから。
まあオレに寄ってくるやつなんて、そもそもいないが。
オレが校舎に入りきっても、廊下の窓から人の壁に四方を囲まれた美人が見える。
まったく可哀想なやつだ。
アイツのことを。
まだ、そう思う。
だけど、もう幼いだけの子どもじゃない。
オレより背はちいさいが、弱々しさは感じない。
もう、ひとりぼっちの男の子じゃない。
泣きそうな顔をしてるのに泣けない、そんな姿はもう想像できない。
それでも、まだ持っているものがある気がする。
あの頃と変わらないものを、残しているような気がする。
だって、見つけてしまったんだ。
美しいものは、ぜったいに記憶から消えない。
あの頃とおなじ思いを、まだしつこく持っているんだから。
オレにとって、ヒナはそういう相手だった。
この教室から、高校生時代を最期にする連中がまばらに湧き出ていく。
他のクラスでも似たような現象が起きてると思うと、廊下の雑踏は目に見えて明らかだ。
あちこちに中小さまざまな塊を想像して、ゾッと背筋に悪寒が走った。
まあでも、今日ばかりはオレも寛容になろう。
こんな日だもんな。
卒業式を終えた今の三年生は、下校時間を守らなくても注意されない。
下級生たちがしっかり帰宅して賑わいが薄れた校舎で、各々に思うところがある場所で感傷に浸っていても小言は無しだ。
学校側の配慮なんだろうけど、たぶんオレの馴染みある教師が一枚噛んでる。こんなふざけた時間を思いつき、こじつけるのはあの男くらいだ。
ホームルームでそれなりに長い別れの言葉を交わしたが、教師の姿はもうどこにもない。
おかげでオレは、さっきもヒナに催促されたところだ。
ふたりで話そう、と。
絶対になにか企んでる。オレには分かる。
とことん小賢しいやつだからな。
でもまあ、今日は嫌々だが応じてやろう。
呼び出し場所にオレが姿を見せると、ヤツはにっこり微笑んだ。
周辺に取り巻きや信者の連中はいない。しっかりと自己主張もできる人気者ってのは、厄介でおそろしい。
おかげで人嫌いなオレは、とうとう逃げる口実を失った。
代わりに、階段の踊り場で視線の矢をいくつも受けただけで。
手負いのオレがなかなか進み出ないのを見て、ヒナが焦れたように手招きする。
本校舎二階、二年のときの教室。
オレと、ヤツの二席。
ヒナは窓辺に背を凭れたまま、オレは自分のものだった席に近付く。
体の奥から疼きが染みだし、じんわりと体中を這う。
くるしい。
苦しくて、ムズムズする。
コイツの口から出てくる言葉は、いつもオレに非情だ。
オレとヒナは今ふたりきりだ。
頼むから誰か邪魔しにきてくれ。
願いつつ、黙って相手の反応を待つ。
三年間も仏頂面とか愛想が無いだとか態度が悪いとか言われつつ、誰にも譲らないできた端の席だ。オレにとって窓枠越しの空は馴染みがありすぎる。
ちょっとばかし憂鬱だ。
見える木々の蕾はまばらで、ところどころはまだ枝だけだったりする。オレの知ってる桜の木になるまで、まだまだこれからって感じだ。
指が、勝手にブレザーの左胸に触れた。一昨日までは、ここの内ポケットに鍵が入ってた。旧校舎の──空き教室の鍵だ。
今は空虚で、夏用の冷涼ボディソープみたいにスースーと空気が透けていく。
心ここに非ずと呆けるオレを見かねて、ヒナの手が顔の前で振られる。
「ねえ」
「約束は」
話を聞く前に、ヤツに覚えがあるか確かめたかった。
きょねんの秋、文化祭三日目を共にするってヒナの提案に、オレは一つ条件をつけた。
「わかってる。でも、教室にいられるのは今日で最後でしょ」
ちょっとだけ頷く。
三年生だけで校舎の色んなところを自由に回れるのは、今日だけに許された特別措置だ。
ヒナが転校してきた初日の教室。
まだしつこく絡んできてたし、どれだけ拒んでも離してもらえなかった場所。
オレたちにとって、ここは並大抵の空間じゃなかった。
「教室くらい、どこだって同じ形だろ」
外に目を向けなければ、違いなんてない。
繁る木の天辺にグラウンドが隠れるとか、桜を見下ろすようになるとか、一年前より空に手が届きそうとか、階段を上るのが前よりしんどいとか、そんな些細なことで失った気になるなんて馬鹿らしいだろ。
「もう……そういう遊び心のない返しはどうなの」
目の前の愛らしい顔が、拗ねて言う。
「──あのね、夕陽がいいんだ」
「はあ?」
たしかに朝から晴天に恵まれた夕刻は、灯りをつけなくても教室内を綺麗な色で満たしている。
「一つ目は朝陽と桜だったから。次は夕陽と……」
「冬に有名な植物なんてあったか?」
オレが口を挟むと、ヤツは驚いたように目をひらく。
なんだよ。言葉に詰まったから、てっきり春の対になる冬の樹木を思い浮かべようとしてんのかと思ったが。
オレの読み違いか?
ふ、と息をもらすヒナは、緩む表情を誤魔化すように眉をさげる。
まるで感情を抑えてるみたいだ。あとが怖いな。
「椿、が好きかな。白いほう」
「へえ。おまえにも可愛らしい趣味があったんだな」
オレは白い椿なんて見たことないが、青い薔薇もあるんだ。
きっと、コイツにとっては知ってる花なんだろ。
その木が校内のどこに生えてんのかも、オレは知らないが。
ここにないもんを思い浮かべ、斜め下に声をかける。
「なあ?」
「んー?」
「どうして、オレだったんだ?」
聞くだけで、なんか疲れる。
自分でも意外だが、かなり勇気を振り絞ったらしい。
相手の背に覗く夕焼けが眩しくて目を細める。
グラウンドも校内も、音がひたすら遠い。
オレは口を真一文字に結んで返事を待つ。
「どうして、か。やっぱり君を初めて見たときに──」
そんな始まりで、相手は締まりのない笑みを浮かべる。
「初めてここに来た時、君が熱心に僕を見ていたから、かな」
期待していた自分が恥ずかしい。オレは今、ヤツの口から出る言葉を想像したのか?
そんなん違うだろ。ヒナはぜったい言わないし、オレも浮かれるわけがねえ。
「それから」
思考の波に目を回していたが、凜と響く冷徹美人の声に自然と意識が向いちまう。
「桜の群れが春風に揺れていたんだ」
「は?」
「そのさまが君の、その澄んでいて綺麗な瞳に映り込んでいて、それがすごく愛らしくて」
比喩が難しくて、コイツが何を言おうとしてるのかは分からなかったが、どうやら相手は、オレを有頂天にさせようとしてるらしい。
オレより背が低いくせに生意気だな。
ヒナは満足そうだが、ドヤってる顔じゃない。
言葉に酔い痴れるでもなく、ただオレの目を覗いてくる。
「あと」
「まだあるのか……」
「思い出の人だから」
「……はあ?」
今度こそ、オレは心から訝しんだ。
何言ってんだ、コイツ。
いよいよ、訳が分からなくなってきたぞ。
ヒナの顔がいたずらを思いついたように微笑む。
「ねえ、いつになったら好きになってくれるの」
「なんだその変な質問は」
ここで視線を逸らしたら、負けになる気がする。ヤツは首を傾げてまじまじと見つめてくる。
にんげんの瞳ってやつは、こんなに大きくてキラキラしてるもんなのか……?
コイツに向き合うと、自動的に上目遣いされちまうから厄介だ。
「……ああ、そうだな。じゃあ今度の週末にでも遊びに行くか」
「やった! デートのお誘いだね。きゃあ素敵」
綺麗な声だ。澄んでるけど、細いわけじゃない。音も低い。
オレの喉では一生出ない声だ。
「──それで? 行くのか?」
「行く! 行こう!」
焦れて急かせば、ヒナの尊い美顔が柔らかく華やぐ。
時間的に、晴天の空はお別れ模様だ。時期的にも、別れがいちばん流行る。
卒業を終えて、高校に行く必要のない平日がくる。
その前に学校のことで憂鬱にならなくていい休日がやってくる。
無人の昇降口をつかって、そいつは歩調で機嫌の良さを見せる。
「楽しみだね!」
「おう」
ヒナは。
萌黄ひなた、は。
誰もが頭を垂れるような、大衆の視線を独り占めするような、著名な画家がモデルにしたいと望むような、無条件に愛される容姿で。
どんな技術を使っても再現できない、技巧に優れた人形師も羨む、緻密で繊細なパーツだけを与えられた顔で。
オレのことを、見ている。
オレだけを意識している。
首筋に震えが走った。
どうして。
桜と一緒だったのか。
桜が咲き乱れる季節は、毎年あるのに。
どうして。
今さら、連れだってきたのか。
いつまでも、美しくて寂しいやつを。
こんなにも、冷たくて強情なやつを。
夏でもないのに、夕陽が熱い。
夏でもないのに、背筋が熱を帯びていく。
ふたりして、見つけてしまったんだ。
お互いを、ここに認めてしまった。
壮大な自然を目にするより、もっと肌に、心に突き刺さる。
衝撃的だったと言わず、どう表現すればいい。
まあ、文明開化のタイミングなんて、今まで目にしたことはないけど。
オレも。
ヒナも。
後戻りはできない。
季節は巡るが、同じ四季はやってこないし。
もう、あの春の日には戻れない。
そう嘆くと、ヒナは薄く笑うんだろうな。
考えても無駄だよ。いつかは出会っただろうから。
なんてスケコマシ台詞を、アイツは言うだろう。
それが似合うし、違和感もない。
やっぱり腹が立ってきた。
「飛び込みたいなら、この腕の中にどうぞ」
振り向いて、オレの表情を見つけ腕を広げてくる。何か気づいたらしかったが、それ以上のことはしてこない。
おかげで自分の感情に気づかないでいられるから、なおさら癪に障る。
「オレは、うるさいやつが嫌いだ」
「気持ちは分かるよ」
「しつこいやつも嫌いだ」
「わかるよ」
「鬱陶しいやつも嫌いだ」
「そうだね」
「あと面倒なやつも嫌いだ」
「知ってるよ」
でも、面倒な自分のことは知っていてほしい。
嫌ってもいいから、オレがややこしい人間だってことは知ってほしい。
扱いづらいって嗤われてもいいから。
「君が相手なら、そんなことくらいじゃ動じない」
「……そうだろうな」
オマエは、そう言うだろうと思ってたさ。
「でも、他人の腕のなかに飛び込むような趣味はない」
「そう。それは残念」
美人の微笑みは、胸焼けがする。
目をそらせないのが難点だ。
いいよ、折れてやる。
オレも、覚悟を決めるしかない。
だって、きっと、もう……。
了




