41、選ぶ暇もなく
「なんで居るんだ」
久しぶりに穏やかな日を過ごせた、その放課後。
面倒事を連日押しつけられて苛立つオレを、澄んだ目が嬉しそうに見上げてくる。
ここにまで探しに来たオレが言うのもなんだが、どうしてこの場所をコイツが知ってるんだ。
昨日より早く見つけたヒナは膝を抱えて座った姿で、古びた教室のキイキイ鳴く立て付けの悪いドアに背を預けてる。
オレがいつも鍵を開けるドアで、オレがいつも独りを堪能してる部屋。
旧校舎は、普段から人がいない。
「オマエ、実は千里眼でも持ってんのか」
「そんなもの持ってないよ」
のっそりと立ち上がって、冷酷美人が微笑む。
「ただ、君がここを出入りしてるって聞いて」
「地獄耳のほうだったか」
我が物のように持ち続けてる鍵、慣れたドアの異音と開けづらさ、冷えた空気に混じる埃の匂い、煩わしい気配とは無縁のがらんどうの建物。
そこに、割り込んできた存在。
見慣れない情景に、もう溶け込んでる。
足を踏み入れたこともない場所に、ヒナは慣れ親しんだ様子で入ってきた。
「……ここ、静かでいいね」
「ああ。快適な場所だった」
昨日までは。
ヤツが馴染んじまった時点で、オレの平穏は絶たれた。
「こういうところ、好きだな」
「まあ、うるさい場所じゃねえけど」
「そこじゃないんだけどな」
分かってほしいのは、と残念そうな顔をする。
あはは、と笑いながら。
コイツの、人受けを狙ってない笑いを、オレは初めて聞いた。
ヒナの口から、白い息が漏れる。
窓辺はどこの教室でも冷えすぎて困るな。
卒業の日が迫っている最近、授業の時間割も少ないおかげで、昼休み返上の下校時間だってのに帰宅するやつらの賑わいは薄い。
文化部が使う建物内の部室棟か、運動部が使うグラウンドや体育館なら、後輩の新主将ぶりを冷やかす3年生くらいはいるだろうけど。
それでも旧校舎を目指して、誰かが来ることはない。
古くて、寂れていて、静かすぎる場所だ。
ここに入り込む物好きは、見たことがない。
オレと、それからヒナ以外には。
「ねえ」
「…………なんだよ」
肩に引っ提げてた鞄を下ろし、陽が差す窓辺に近付く。
やっと頂点から逸れたばかりの太陽は、まだまだ熱を持って部屋を照らす。
嫌々返事をしたオレに、ヤツは久しぶりに音を発したような掠れた声が気になったのか、ささやかに咳払いをする。
登校してすぐ、恥ずかそうに頬を赤くした相手から呼び出されてた時は、涼しい顔で応じてたくせに。
「たったの2年間だけなのに、もう卒業で離れちゃうんだね」
寂しいね。
そう言って外に向けた眼差しに、愁いの色はまったく見えない。
「そうか。オレは清々するよ」
「ほんとうに?」
「ああ」
そもそも集団行動は苦手だ。
同級生が兵隊蟻や兵隊蜂に見えちまった小学生以来ずっと。
オレの本音に、コイツは是とも否とも言わない。
「ちゃんと聞いてみたかったな」
何の話だ。
相手の本心を訝しんで見下ろす。
横目で見ただけでは、表情もあまり分からない。
「君の名前」
ヤツの視線がこっちに来る気がして、密かに焦りつつ窓の外を眺める。
「知って、どうするってんだ。そんなもん名簿を見りゃ分か──」
「君の口から、聞きたいんだ」
「悪趣味なやつだな」
ヒナが言葉を被せたせいで、喉の奥が痛いくらい熱くなる。
恥じているのか。オレは。自分を。
頭に浮かんだ応えに、『言わない』だけが無いことに。
「オレの名は、真戸惠。どうだ似合わねえだろ」
「そんなことない。可愛いよ」
「おまえに比べたら、オレは名前負けの代表みたいなもんだ」
「そんなこと言って、同級生の名前も知らないんでしょ?」
「うるせえな」
……ひなたのくせに。
……萌黄ひなた。
自分でも聞こえるか聞こえないかくらいの、吐息ついでの声。
ヒナの弾んだ笑い声が耳に残る。
「へえ、知ってくれていたんだ。うれしいな」
「……」
何も知らねえと思ったか。
あほくさ。そんなわけあるかよ。
教室で生徒の座る机の波を掻き分けた、その一瞬。
アレが、オレの視界を占めた。
人の心を奪う、美しさを放つにんげんの名前だ。
桜の花びらが散るさまを見て、美麗な花の正体を覚えているのも今年だけなんて考えるやつがいるか。
芽吹いた姿を知ってたら、繁繁した緑樹も枯れた後でだって桜の木だと分かる。
どんな姿になっても、どれだけの時間が経過しても、つよく記憶に残っちまったら忘れない。
授業中は机の下で脚を交差させる。
鉛筆を持つ角度で退屈か愉快かを判別できる。
飯を食う順番で好き嫌いを見分けられる。
人と話す時の声音で感情の機微を窺える。
ぜんぶ。
脳内では、ちゃんとヤツの姿で形を成してる。
どう嫌ったって、後戻りはできない。
無理に嫌おうとしても、さいごまで嫌だとは思えなかった。
こんな自分は気持ち悪い。
「なあ。なんで断り続けてるんだ?」
鬱屈した思考を振り払うように、隣のヤツに質問をぶつける。
いくら好意を寄せられても、それなりに慕われても、コイツが首を縦に振ることも喜ぶこともなかった。
そんな態度しか見せない人気者に、好きな相手がいるとは思えない。
前に、偶然にも聞いてしまった告白現場でも、そういう断り方はしてなかった。
だいたいだな。
人を惑わす美しい生き物が、自分が魅了したやつらに何かしらの情を抱くところなんて想像できるかってんだ。
対象が同類の、冷酷無比な人でなしならともかく。
「なんでって……」
口をすぼめて、視界に入るように潜り込んでくる。
窓とオレの間で、小首を傾げながら。
嫌な目で見てきやがる。
「断るのは、ちゃんとした理由があるからなんだけど」
ちゃんとしてるとかしてないとか、理由に違いなんてあんのかよ。
「でも言えない」
「言えないってことは、やましい理由なんだな」
「後ろめたいことはないけど、言わされるのは誰だって嫌だよ」
「なんのことだ」
「……じゃあ聞くけど」
含みのある間を置かれて、ヒナの口から溢れ出る。
「どうして、そんな口調なの? べつに男になりたいわけでもないんでしょ?」
嫌な切り返し方をする。
言えないも、言わないも、隠しておきたいという思いがあるからだ。
「言いたくない」
理由はあっても、それは自分のなかで整えてあればそれでいい。
筋が通っていると思えたら、それでいい。
「乱暴や粗野に見られたいわけでもなさそうなのに、どうして?」
「どうだっていいだろ」
しつこさに苛ついて、つい真っ向から相手を見下ろす。
やべ。顔を見ちまった。
がちっと目が合って、ヤツは顔を綻ばせる。
「そうだね。でも、だからこそ知りたいよ」
「何を?」
「きみ」
ヒナは、ジッと見つめて言った。
「好きな人のことを知りたいと思うのは、不自然なことじゃないでしょ?」
「それは、分かんねえよ」
そこの機微は分からない。
経験のない情動が自然かそうでないかなんて。
あの日、あの朝、あの教室で。
春の祝福を受ける麗々しい姿を見た。
はじめに視界を、思考を奪われたのはどちらか。
それを言葉にしたくない。
気付かないでいたかった。
「あたしに」
構うな──。
オレはひとりで、旧校舎を後にした。




