38、機嫌は良くない
二月中旬、曇天の昼休み。
オレは朝から調子が悪くて、ただでさえ猫背で低い視界に湿った地面が近付いてきそうだ。
まあ自分の機嫌が良かったことなんて無いんだが。
体調の悪さでいつもより鬱屈した気分なのは間違いない。
今はタイミングも悪い。
将来の話や恋だの何だのって、ぎゃあぎゃあ盛り上がる時期に来ちまって、どこのクラスも一段と騒がしくなる。
窓の外を見ようが、始まった苛立ちは収まんねえし。
睨み付けたところで相手には見えてねえし。
そんなわけで解消されない煩わしさから逃れるように、オレは誰も近寄りたがらない部室棟裏で昼食を済ませたところだった。
沸々と湧いた腹立たしさが、ツンと張った冷たい風で剥がされる。
ようやく機嫌も体調も戻り掛けてきた瞬間、侘しい姿の木群の向こうに憎らしいやつの姿を見つけた。
学校一の人気者、ヒナだ。
ソイツと一緒にいる相手は、顔を真っ赤にしている。
他人に興味がないオレでも分かる。
確実に、何かあった後だってことはな。
べつに見たくて見たわけでもねえが、良くない場面に出会しちまった。
とうぜん悪意はないが、関心もない。
ただ、ここに居続けると自分が困ることになるっつう奇妙な危機感から、オレはその場を静かに離れた。
昼休み終了ギリギリを攻めて教室に戻ると、珍しく隣席に主がいた。
いつもなら、とっくに教室を移動しているはずなんだが。
なにしてんだ、こいつ。
「さっき見てたでしょ」
「あそこはオレの休息地なんだよ。聞かれたくねえなら他所へ行け」
オレと目が合うと、ヒナは喜色いっぱいに笑った。
やけに笑顔が多くて、その気色悪さに目を逸らす。
「相手が、あの場所が良いって言ったんだよ」
言った傍から口調がぶっきらぼうに変わってやがる。
実はご機嫌ナナメだったろ、オマエ。
綺麗な面に似合わない不穏な目は、ここに居もしない何かあった相手を見ているのか。
厄介そうに顰めた顔もそれなりに面白くはあるが、たぶん今日のコイツはいつもより、しつこくて鬱陶しそうだ。
面倒事を察知したオレは、反応するのをやめた。
ヤツは人の横で甘いお菓子がどうとか、寒いから上着を貸せだとか口にしてたが、始業の合図が鳴り始めてすぐに教室を出て行った。
校内アナウンスが放課後の自由時間を知らせ終わると、廊下は一気に生徒の波で埋め尽くされる。
すんなり帰宅するやつも、部活の後輩を茶化しに行くやつも、そこまで煩わしくない。
だが校門や昇降口を塞ぐように集まって喋るために、仲間を探して縦横無尽に往来するやつ。
こいつらを避けるのは、まじで神経を削られる。
あいつらの動きは予測不能だ。
揉みくちゃにされると分かっているのに、わざわざ飛び込むほどオレも馬鹿じゃない。
卒業したやつが残してった机の傷を睨んでるほうが、まだマシってもんだ。
騒々しさが引くのを待ってるあいだに、良い報せもありそうだしな。
オレと同じように、教室で待ってるやつらがいる。
まあ理由は違うだろうが。
やつらは、ヒナの取り巻きだ。
今は話したこともないクラスメイトの机を陣取って塊になってる。
だから、とうぜん待ってる。
自分たちが持て囃したい人気者を。
黄色い声をあげて騒ぐことしか取り柄がなくても、必要な部分だけ拾えば情報源にはなる。
おかげでオレの苦手なそいつが職員室に呼ばれてることも分かったしな。
しかも余計な長話を生き甲斐にしてる教師が相手らしい。
今日くらいは、何事もなく安らかな帰宅時間になりそうだ。
遠回りする必要もないってんで、オレはいつもより悠々と校門を後にした。
アイツが自分の特性を使って長話を切り上げて追いかけてくる可能性も無いことはないが、どうせ約束を破るつもりなら確実にゆったりできる今日のうちに安らぎを堪能したい。
そもそも、今まで破られたことがないわけだしな。
ヒナもそこまで嫌がらせが好きなやつじゃない。
卒業まで。
やつは放課後、帰るオレの後をつけないって取り決めだ。
ついでに校内で近付くことも自ら止めてる。
2年生だったオレは約束させるために、文化祭最終日にやってくれと言われたヤツの頼みに応じた。
あれは、おおきな犠牲だ。
まだ他に頼み事をされたら、それ以上の条件を考えなきゃいけねえ。
咄嗟に思い付くのは、卒業したら自分のことは忘れろと言うくらいだ。
それは。
おぞましいな。
自分は忘れる、とは言い切れねえのに。
いっそ殴って忘れるなら、真っ先に自分の頭を殴ってやるんだが。
オレなんかが考えつくことなんて、この程度だ。
ほんとに口に出しちまう前に忘れよう。
今日、あの場所で見ちまったことも。
あの場所へ行かなけりゃ、そのうち忘れるだろ。
それに関わりを絶てば、相手の納得を待つより手っ取り早い。
◆◆◆
オレは、贈り贈られの遣り取りが嫌いだ。
一年を通して開かれている催し物も、どれがいつ始まって終わるのかを知らない。
年末年始の認識だけは出来る。
大それた理由はない。
流れと慣れだ。
逆にそれ以外のことは、まともに覚えてた試しがない。
オレの家に、金と手間をかけて誰かに物を贈るような習慣はない。
ちいさい頃から、そうだった。
オレの親も、そういう時期を知らない人だった。
前に住んでた家の隣人が、じいさんとばあさんの二人暮らしで、正月に三段重ねの四角い漆器でご馳走してもらったことがある。
その前にやって来るのが大晦日だってことも、そのときに教えてもらった。
羨んだことはない。
比べたこともない。
考えたこともない。
そんなことをして腹がふくれるわけじゃねえし、服が新しくなるわけでもない。
家の屋根を直せるはずもない。
生きる上での最低限のものがそこにあればいい。
だから、分かっている。
オレは何も望んでない。
自分の中に、何もなかった。
欲した覚えもないし、手に入れたいと思ったこともない。
求めるものが何も無かった。
働いて金を稼ぐのは、生きるために必要だから。
自分が生きること、生き続けること。
弟妹を生かすこと、生かし続けること。
それ以外に優先することはない。
それ以外を、オレが優先することはない。
放課後の喫茶店は、思ったより客が少ない。
雇われ給仕をやってるオレがサボっても、常連しか来てない今の店内じゃあ誰も渋い顔をしない。
店長も暇すぎたのか、趣味を楽しむ手つきでカップを磨いてる。
「また、そんな仏頂面で」
「勘違いすんなよ。これは機嫌が良いときの顔だ」
「誤解される自覚はあったんだね」
「ひげ面の下に童顔を隠してるやつに言われたくねえよ」
愛らしい素顔を隠し持つこのおっさんは、オレより一回りも上だ。
あの胡散臭い知り合いの教師よりも年上だった。
常連客はみんな見慣れてるが、初見の客はギョッとしてることがある。
「君に成人式の写真を見せるんじゃなかった……」
「過ぎたことを悔やむなよ」
「そうだね。珍しく君の機嫌も良いことだし」
「そうだぞ。珍しく機嫌が良いんだ」
機嫌のほうは、正直かなり良くないんだが。
体調や気分が回復してなくても、軽口を叩く気力くらいは持ってる。
オレだって適当を言いたい時があるんだよ。
「じゃあ、ご機嫌ついでに聞いちゃおうかな」
「なんだ?」
「卒業祝い、何が欲しい?」
「はあ? 要らねえよ。思いつかねえし」
「え、せめて逡巡してよ」
「オレがそんなもんで喜ぶと思うのか?」
「もう……。まあ、思いついたら言ってね」
人の目の前で肩竦めんじゃねえよ。
ジッと見つめ返すと、おっさん店長は悩ましい表情のままカウンターを立ち去る。
オレの代わりに常連客の会計をし、最後の客に呼ばれて注文を取りに行った。
貰うものを考える気は、オレには更々無い。
何も欲しがったりしない。
おかげで喪失感を知らないで済む。
そのことを苦に思ったこともない。
周りにひけらかすわけでもない。
だから、これでいいんだ。
オレの家族は、オレの性格を知らない。
それでも良かったんだ。
そのままでも良かった。
いつも思ってるし、考えてる。
自分のことは後回しでいい。
何かを望んでも、満足できるわけじゃねえし。
オレには、それがよく分かってるから。
どうせ、誰かに知られることもない。
どうせ……。




