37、こぼれてしまえ
ありがとう、と見上げてきた瞳は鮮明に思い出せる。
どこでも満開の桜が見られる季節で、斜めに昇る太陽は眩しかった。
オレが声をかけると、そいつは笑った。
自分よりちいさい背に、細い体つきのそいつが、隣のじいさんばあさん達に預けてきた弟たちと重なって見えて。
やっと自由に遊べるとウキウキしてたオレの頭は、勝手に、こいつを放っておいたら大変だなんて考えてた。
木の根を背もたれに、三角座りをしていて、なかなか陽の下に出てこないのが珍しかったのかもしれない。
そいつは木陰にいても頬が火照っているのが分かって、オレは躊躇いもなく駆け寄った。
そういえば綺麗な顔をしてたな。
西洋人形が命を宿したら、こういう感じだろうかと何度か遊んでるうちに想像したこともあった気がする。
オレがはっきりと覚えているのは、それだけだ。
12月にやっと入った今日。
空は雲が覆って暗いが、思ったより風は冷たくない。
立て付けが悪く隙間風が天井や壁を揺らすような、ただ旧いって理由で小部屋がいくつもあるだけの家に住み続けてるオレにとっては、頑丈な建物の内側にいられるだけで十分だ。
まあ、教室内の何人かは、オレと同じように教卓端で一塊になってるやつらを不服そうに見てるが。
ようやく設置された石油ストーブに群がる同級生を睨むのは、一番冷える窓際の席にいるオレ達の特権だからな。
防寒の始まった教室内に反して、連中のあいだで漂う空気は凍えるほど静かだ。
誰も無駄話をしない。
常日頃から喧しいと思ってたオレは、騒音の元が無くなって過ごしやすいけど。
おっさん店長に愚痴を聞いてもらった日から、オレは昔の自分を思い返すことが増えた。
滲み出てきた記憶のなかのそいつは、いつも具合が悪そうで、いつも外灯がつき始めるまで公園にいるようなやつだった。
それをオレは二回くらい放置してた。
保育園に通う双子の弟妹を迎えにいく途中だったし、スーパーの安売りセールで買い物して大荷物で帰ってるところだった。
でも、やっとオレは声を掛けた。
何の用事もない日だった。
違和感はあったが、事情を聞くつもりは最初から無かった。
だから、家に帰らないのか、とは一度も口にしなかった。
水くらい飲めよと言って、水筒を渡したことがあるくらいだ。
だいたいは拾った木の枝で木の根をほじって、気が向いたら喋ってた。
あのとき自分の隣にいた相手を、オレはしつこく思い出そうとしてる。
あんまり考え込む性分でもねえんだけど。
中途半端に分かる状態だと、逆に気になってくるもんなんだよ。
ぼやっと、珍しく考え事に耽ってたら、なんとなく窓に目がいった。
バッ、と後ろを振り返る。
隣の机に、学生鞄がある。
アイツのものだ。
オレが来たときは無かったはずだが、いつの間に登校してきたんだ。
そして、いつ教室を出て行ったんだ。
学校一の人気者への告白と、その返事でクラス中がざわついた日から、ヤツの態度は変わった。
こうして度々おそろしい思いをする方向で。
なにせ見かけることがないんだ。
こっちが避けるまでもない。
これで授業も無くなっちまえば、もっと快適になるんだがな。
サボるタイミングを間違えると馴染みの教師がうるせえんだよ。
もっと忍んでサボれって。
つっても、裏門近くの生け垣は陽が差さねえから、この時期は冗談抜きで凍っちまうし。
旧校舎も暖房設備なんてつくわけがない。
行くところが選べねえのは面倒だ。
いくら旧い家で慣れてるとはいっても、さすがに屋外で生身を曝し続けるのはキツい。
明日には更に天気が崩れるらしいし、こんどの週末は初雪予報ときてる。
洗濯物も乾かねえうえに、霜の冷気が隙間から流れ込んでくるしで、オレはこの季節が憎い。
卒業目前じゃなけりゃ、さっさと抜け出して帰るんだが。
授業中だろうと、やっぱり窓際は寒いままだ。
オレの席に届く前に、ストーブの熱気は冷めちまってる。
クラスの大半が進学する連中で、あちこちに空席があるせいで温度が上がりにくんだ。
極寒間近の最中だっつうのに、なんだって妙な雰囲気は流れっぱなしになってやがるんだか。
どいつもこいつも、焦燥ってのが顔に滲み出てるぞ。
特に三年生は、ひどいもんだ。
緊迫した視線っつうのか、鋭い目をして周りを意識してるのが見え見えだ。
オレもそこそこ形相は悪いほうだが、やつらのは今にも鬼の首を取ってやろうと息巻いてる狩人っぽい。
自分に向けられてなくても、ちょっとげんなりする。
こいつらみんな、浮き足立ってんだろうな。
大学受験、就職を考えてるやつも、合否発表を、あるいは内定の報せを待ち構えてる。
あと、もうひとつ。
新しい関係。
終わりの予感を紛らわせようと、始まりの期待を求めちまってる。
別れと出会いってやつは、オレを含め、人間の日常を翻弄するのが好きらしい。
放課後の予鈴を聞いた時、オレの手はとっくに自分の鞄に触れてた。
鞄の中身は弁当と、近所のスーパーの安売りチラシ、あとは家の鍵と財布くらいしか入れてない。
教科書も筆記具も、学校に置いて帰るものだ。
他の場所で使ったこともないしな。
本鈴が鳴り始めたら、教室の中は一気に沸き立って騒々しくなる。
嫌いな時間のひとつだ。
オレは予鈴が鳴り止むのも待たず、廊下に出た。
下駄箱の群れから離れると、視界の端で何かが俯く。
女子だ。履いたままの上履きは、二年生ものだ。
その女子は泣いてる。
ずっと泣いてるのか、泣きはじめたばかりなのかは分からねえけど。
嫌な感じがした。
オレの知ってる誰かが、これに関わってる気がした。
嫌なものを見ちまったと思った。
この場にいなくても、意識には入ってくる。
こんなの、いまだ追われ続けてるのと変わらない。
憎い。
この季節も、アイツも。
ぜんぶ、こぼれちまえばいい。
◆◆◆
──なんで泣かねえんだ。
やっと木の根を離れて、歩き始めた途端に転んだそいつに、オレは思った。
弟妹たちは、みんな泣いてた。
ちょっと擦り剥いただけで泣いてたし、血が出てたらわんわん泣いてた。
特に双子のほうは、互いに揉めて泣くのが常だった。
でも、オレより少し年下っぽく見えるそいつは、涙目になることもなかった。
気付いて駆け寄っても、えへへ、と笑ってるだけだった。
今から考えると、かなり厄介な性分を抱えたやつだったのかもしれない。
でも当時のオレは、まったく泣かないそいつが不気味だった。
顔の造りが綺麗で、欠点のひとつも見当たらなかったから余計にそう思えた。
笑ってばかりいることに、むかついていた。
感情が顔に出ない子と言われてきて、はじめて、そんな顔で良かったと思った。
笑顔なんていう、守られるために浮かべるものを、したくなかった。
だれにも、弱い存在として見られたくなかったんだ。




