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36、また空っぽの席



 次の日、学校の門をくぐって気付いた。

 周りの雰囲気ってやつが、肌で感じるくらい変化してる。この状態が昇降口を越えて、廊下のあちこちにまで漂ってやがる。


 ……ったく、なんつう重苦しい空気してんだ。

 靴を履き替えるだけで、ちょっとばかし気分悪くなっちまう。


 いつもつまんねえ噂話に湧く廊下も、衣擦れが聞こえそうなくらいひっそりとしてる。

 教室に向かう間なんて、常に騒がしい連中も疎らに散って気配薄かったし。

 人気者をチヤホヤする気概を、どこかに忘れてきたみたいだな。


 クラスのやつらも一通り見回してみたが、やっぱり同じ調子らしい。

 昨日もそれなりに、つうか放課後は特に冷えまくってたが、今日は一段と冷気の質を上げてきてる。


 秋になりたての朝には寒すぎだ。

 自分の席が窓際で良かったぜ。そろそろ日光浴の時間だしな。


 隣の席も、どうせ空っぽだ。

 ヒナは、今日も居ない。

 また、だ。


 アイツが意地でも動かなかったオレの隣。でも、その席には学生鞄だけ引っ掛けてある。

 向こうは進学組で、もう見慣れた光景だ。教室移動で人気者は朝から不在っつう状況にだけは、そろそろクラスのやつらも馴染んできたようだが。


 オレだって、ずっと待ち望んでたんだ。

 このおとなしい、誰もオレを気に留めない日々を。


 あの美人がいないってだけで、取り巻きも寄りつかねえし。煩わしい思いからは解放された。

 懐かしい、ひとりきりの学生生活。


 でも。

 なんだろうな、この感じ。


 パッ、と熱気が消えちまったみたいで。


 そりゃあ今までが熱に浮かされてたようなもんだが、ついていけねえやつもいるんだから、もうちっと取り繕ってほしいぜ。

 まじで息が詰まる。

 なんだって、オレが気を遣わなくちゃならねえんだ────。



 その日の放課後、夏休みに続いて喫茶店で働いてたオレは、閉店後、余ったパンの耳に大量の砂糖と蜂蜜をかけて貪り食った。


 オレのやけっぱちを見ない振りしてくれた店長も、さすがに無視はできなかったらしい。

 客席の掃除をしながら、ボソッと胸焼けしそうって零してた。




 ◆◆◆




 次の日も、また次の日も。


 すこし暑さが舞い戻った日も、寒さがお天気お姉さんのダサいコートを顕わにさせた日も。

 空が晴れ渡って小春日和なんて呼ばれた日も、コーヒーが早く冷めることに気づいた日も。


 変わらず、このクラスは辛気くさい。

 息苦しい。


 他のクラスや学年も、まあ劣らず陰鬱としてるらしいが。

 同じ空間にいて、より身近に感じてたやつらのほうが、熱して冷めての落差は大きいみたいだな。


 たぶん、連中は思ってる。

 あの美人を持て囃してたことすら、思い浮かべたくないって。


 もう忘れたい。関わりたくない。二度と顔を合わせたくない……って、どれもオレが思ってたことだな。


 やっと夢からお目覚めかよ。

 だからって、この鬱陶しい雰囲気に巻き込まれるのは勘弁だぜ。


 どう考えても、ヒナのせいで。

 どう考えても、ただのとばっちりだっつうのに。


 ああ。ちくしょう。

 やっぱり、嫌な気分だ。

 このクラスは、とんでもなく異様で。


 ……きもちわるい。




 そんな毎日を堪えてきたっつうのに、せっかく我慢できてたっつうのに。

 唐突に、オレの箍は外れた。


 顔も覚えてない教師が、それまで碌に話したこともないのに声を掛けてきた。

 相談なら聞くよ。

 たったその一言が、頭の中でギリギリ引っ掛かってた螺子を飛ばしちまった。


 そいつが高校一年だった時の自分の担任だってことに、別れてから思い出すくらい馴染みが無かったってのに────。



「機嫌悪いね」



 閉店作業中、ゴミを集める手を止めて箒の柄にもたれかかる。

 店長は明日出す料理の仕込みが途中で、サボりはじめたオレのことは見ないようにしてる。



「教師っつうのは、生徒には必ず相談事があるって決めてかかるのが仕事なのか?」

「そ……んなことは、無いんじゃない?」



 言葉を詰まらせるなんて、らしくないじゃねえか。

 視線を不自然に泳がせる相手には敢えて触れず、箒の柄を支えに手の甲に顎をついて話を続ける。



「バイトあるからって逃げてきたが、アレは聞き出すまで帰さないって目だったぜ」

「まあ、それはちょっと僕も嫌かな」



 カウンター向こうで仕込みを続ける声は、鈍いオレでもすぐに分かるくらい明らかな苦味を帯びている。

 ここ数日続いてた、鳩尾を圧迫するむかつきが少し薄れる。



「まったく何様だってんだよ」

「《様》はつけなくてもいいと思うけど……、純粋に心配してくれたとかじゃない?」

「はっ、要らぬ世話だぜ。お釈迦様だってんなら説教のさわりくらいは聞く耳を持ってやってもいいが」

「君って意外と信心深いんだね」

「ちげーよ、オレのじいちゃんばあちゃんが世話になってんだよ」

「正しくそういうことを信心深いって言うんじゃないかな」

「チッ」

「またお手軽感覚に舌打ちして」



 散々オレのことをからかうように、あるいは諭すように言って、最後は失笑する店長を一睨みする。

 会話のあいだに掃除用具の片付けまで済ませたオレは、相手を急かすようにカウンターをしつこく小突いた。



「そんなことより、コーヒー淹れてくれよ。店長」

「はいはい。今日もよく頑張ってくれたもんね」



 たぶん幼少期の可愛らしい男児か女児なら、大人を手玉に取れそうな感じに語尾を明るくしてるが、このおっさんはとっくに三十路だ。

 首を傾げていないだけマシかもしれないが、真っ向から見たら噴き出しそうなほどの天真爛漫ぶりだった。

 後ろの棚に手を伸ばし、オレのお気に入りのカップを見せつけるように掲げてくる店長から、すばやく目を逸らす。



「今日も、とびきり美味しくしておくよ」

「あざーす」



「また軽快な物言いを……」と苦笑する店長を横目に、オレはうっかり裡に抑え込んだ燻りが再燃しないよう、渋いのが特徴のコーヒーの香りで宥める。


 今のオレは、いつもより余裕がない。

 まるで、使い古した歯ブラシの毛先みたいに、荒々しい心模様ってやつだ。

 あちこちに跳ねた毛で力任せに研けば、歯茎が傷ついて出血する。


 そういう心境のときにうまく溜飲できねえと、周りにいる誰かがオレの八つ当たりの餌食になる。

 とりあえずオレは、このおっさん店長と弟妹にだけは、八つ当たりを向けないと決めてんだ。


 ただ、どう遣り繰りしても何も無かったことにはならない。

 店長は心配しての言動だって言うけど、やっぱどうしても突っぱねる以外の選択肢がない。


 おっさん店長も馴染みの教師も言わずにいることを、見逃してくれてることを、ぞんざいに掻き乱される危機を感じずに済んでラッキーなんて思ってるオレは、あの言葉を受け入れたくなかった。


 そもそも、むかしから過剰なお節介ってやつが嫌いだ。

 世話をしてくれるのは良いが、その親切だかなんだか分からねえような考えや思いを押しつけてくるやつが嫌いだ。

 素直な気持ちで受け取らねえこっちが悪いみたいに言ってくるやつは、もっと嫌いだ。


 どう考えたって、変だろうが。

 相談した内容に共感できるからって、解決するのか?

 似た境遇だからって、似た結果になるって本気で思えるのか?


 勝手に悩みを共有した気になるやつが増えるだけで、自分の悩みが解消されるわけじゃねえっつうの。

 話だけでも聞くとか、人に聞いてもらえたらスッキリするとか、そんな風に詰め寄ってくるやつも大嫌いだ。


 自分が何をしてるのか自覚しようともせず、そのくせ勝手に人の生活や生き様を推し量ったつもりで話を続けやがるやつが、オレは大嫌いだ。


 無遠慮に踏み込んでくることを親切心と勘違いしたやつらの言葉が、どれだけ状況を掻き回して問題を増やすか。

 オレはそんな面倒に乗っかってやるほど良い人間でもねえし。


 ……だから、オレは絶対にそんな聞き方はしない。

 無理のある聞き出し方はしない。


 ずっと、そうしてきた。

 小学校に入る前から、そうだった気がする。

 事情を聞かせろと迫るより、目に見える体調を気にしてやったほうが、よほどマシだ。


 そうやって、幼いだけだったオレは前にも、声を掛けたことがある。

 純粋に体調が悪そうに見えたから、弟妹の世話で慣れてたこともあって、気になったんだ。

 ひとりで地面と睨めっこをしてる姿。遠くても、違う遊びをしていても、いつの間にか目がそいつを見てた。


 話しかけて、ちょっと話すようになって、そのあと何度か遊んだ記憶もある。

 どんな顔をしてたかまでは、朧気にしか覚えてないが。



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