32、ギラギラ太陽【修学旅行3日目・つとめて】
朝。
修学旅行最終日。
太陽が昇るさまを、ギラギラと光る窓の向こうに見る。
布団から大きく外れ、サラッと冷たい畳の上で、シミひとつ無い真新しい檜の天井を眺め続けてる。
気付いたときには掛け布団すら被ってねえし、それなりに体も固まってる。
首も痛い。
なんとか左足だけは乗っけてた敷布団に戻り、二度寝でもするかと枕に顔を押しつけた時だ。
心地良い眠気を吹っ飛ばすほどの、部屋の扉をしつこく小突く音にカッと目を見開く。
弾かれたように体を起こし、足音を忍ばせて廊下の様子を確かめた。
「起きてるのは知ってるよ」
だから、怖えっつうの。
部屋と廊下を隔ててる扉は、鍵だってちゃんと掛かってる。
それなのに何でだろうな。
……どうも心許ない。
木の板、たった一枚。
その向こうにいる相手。
ヒナだ。
しかも声を聞いた感じ、上機嫌っぽい。
とうぜん返事なんてするつもりなかったが。
「あれ? いびきは聞こえなくなったし、ぜったい起きてると思うんだけど」
「オレを監視するな」
「監視じゃなくて、観察だよ」
コイツにかかれば、どっちも似たようなもんだ。
扉越しでも、気味の悪さは伝わってくる。
オレの背筋に、ぞわぞわと這うような寒気が走る。
寝てるあいだのことまで筒抜けとか、嫌悪を通り越して憎悪だ。
わずかに開けた扉の隙間から覗けば、いっそ憎々しい相手もよくよく中を見ようと覗き込んでくる。
軽く体を滑らせ部屋に入ってきたヤツの顔には、朝から人の毒気を抜くような笑みがあった。
「逃げ出したりしなかったんだね」
それな。
オレだって、窓からワンチャンダイブしたかったさ。
納豆をかき混ぜたあとの箸の先っちょみたいに、いつまでも粘りついてくる美人から逃げられるなら、何だってやってやる。
「ほら、はやく行こうよ」
ヒナのしなやかな指先が、部屋の斜め上へと向かう。
滑らかな動きで指し示した先、主柱に掛かった時計では午前7時を過ぎてた。
食堂はとっくに、修学旅行生を受け入れてる時間だ。
起きて準備しないと、飯を食いっぱぐれちまう。
それどころか、のんびりしてると旅館発のバスまで乗り遅れそうだ。
頭を軽く振って、微睡みを払う。
睡眠不足だった自覚は無いが、オレでもこんな時間まで眠るもんなんだな。
弟妹たちの弁当も、朝飯も用意しなくていいってだけで。
体だけが慣れるっつうのは、酷い気分だ。
時間を無駄にしたような気になる。
卑屈な思考のまま、腕に絡みつこうとする美人を流れ作業でのらりくらりと躱し、無人の階段を下る。
誰もいない。
他の客すら、見当たらない。
そういう時間帯なんだろう。
偶然だとしても、歩きやすくて助かる。
そこにいるだけで騒々しい同年代の声や振る舞いに、煩わしい思いをさせられることもない。
階段だろうが廊下だろうと、喋りながら花いちもんめしてるようなやつらだ。
横一列になって歩く後ろをひたすらついて回るしかない人間が、ここにいる。
もったもったと前を歩かれて、いつもウンザリしてた。
だから、周囲と違うタイミングで動くのは、オレは苦に思わない。
隣をついてくる人気者も、囃してくる相手がいない今は機嫌が悪くないみたいだしな。
朝食のあいだ預けてた荷物を受付で受け取り、引率の教師と旅館の袢纏みたいなものを着たやつに見送られ、バスの停車場にそれぞれ向かう。
午前9時出発の新幹線に乗って、昼時に駅で解散ってのがしおりの時間割だ。
旅館の敷地を出るとき、オレはこっそり心の中に置いた。
……飯美味かったぜ。
迷惑をかけた側で不甲斐ないとは思うが、そこまで悪い旅じゃ無かっただろう。
「ありがとね」
オレの言葉を、代わりに声にされる。
いつの間にか当たり前のように隣にいる美人は、誰にも聞こえないほど小さく呟く。
花の甘ったるい匂いのなかに、ぴん、と気を張る新緑みたいな。
いっそ爽やかに聞こえる声。
つい、見下ろした。
横に並んでくる、いつもの悪意ある態度を影に引っ込めてしおらしい、憎き人気者を。
「なにが」
「看病してくれたこと」
「嫌なこと言うやつだな」
「そう?」
感謝を示しただけなのに、と悲壮感たっぷりに眉を寄せて見上げてくる。
口元の微かな微笑が、蠱惑的な表情を際立たせる。
この顔で今まで何人のやつらを騙してきたんだろうな。
オレには邪悪にすら見えてくるんだが。
あと、コイツに感謝される筋合いもない。
目の前に調子を崩してるやつがいたら、誰だって気に掛けるくらいするだろう。
見えていて、わざわざ目を逸らすようなこと。
誰も、しないだろう。
弟妹を相手に散々やってきた、世話をし慣れてるオレみたいな人間でも。
嫌いだろうが、憎かろうが。
何もしないなんて。
何もせずにいるなんて、出来やしねえんだ。
礼を言われるほどのことじゃないのに、言われて、背筋がむず痒い。
そわそわと落ち着かない空気を追いやるように、話を旅行に切り替える。
「1日目、無駄にしたな」
「いいよ。君がいたから」
「旅館の人の手間増やしやがって」
「それはまあ……少し悪かったね」
「あいつらも、雑に扱われて」
「それはまあ……べつになんとも」
自称仲良しどもを、ちゃんと思い浮かべたらしい。
ヤツが不機嫌そうに目を伏せる。
咄嗟に瞼で隠された酷薄な眼差しを、オレは見逃さなかった。
「あー、かわいそ」
「……」
「かわいそ」
これで少しでも、人気者の胸の奥で燻ればいいんだ。
普段から、蝶よ花よと持て囃す周りを放ったらかしにして、良い気分になってんだから。
ちょっとでもヒビが入って、罪悪感を覚えりゃあいい。
オレに悪いと、迷惑かけてることを恥じればいい。
「……そうだね」
ぜったい思ってない。
今後も、思わないだろう。
でも。
コイツの言葉に心が無かろうと、口から出たって事実は残る。
認めさせてやった。
オレが。
しょげたフリをするヒナに、横でにやける。
「は。思ってねえくせに」
◆◆◆
「でも、」
バスに乗ってる間、息でも止めてんじゃねえかってくらい静かだったヤツは、帰りの新幹線でも当然のように隣に座って言い出す。
しばらく喋ってなかったせいか、話し始めた声はちょっと掠れてる。
「まさか、こんな親身になってくれるとはね」
意外だった、とか言って。
もう笑ってやがる。
切り替えが早い。
「病人を無下にするほど、オレは非情じゃねえんだよ」
自分の思いどおりに周りを動かすのなんて、コイツにとっては十八番も良いとこだ。
起き抜けの寝ぼけた頭でも、ちょちょいのちょいで熟せるだろう。
そんな程度に他人を見てる性悪だろうが、優しいオレは面倒を見てやる。
それにコイツが一人でいるところを狙って押しかける、この美人に籠絡された連中に機嫌を悪くしたヤツが、何をしでかすか。
厄介事も、不満も。
こっちに飛び火する。
もちろん飛ばしてくるのは、ヒナだ。
肌触りの粗い背もたれで体の力を抜く。
こんな構いたがりを隣にしても、瞼が重くなっちまう。
煩わしいことを前もって防げそうで、気が緩んでんだな。
コイツは嫌なやつだが、コイツのおかげで場が静かになる。
周囲の誰も、この美人の不興を買いたくないだろうし。
利用できるものは何だって使うぜ。
ジャケットの下に忍んでた、パーカーのフードを引っ掴んで被る。
視界を狭くして、窓下の肘置きに身を寄せる。
もっと……つまんないと思ってた。
それでも構わなかったが、この3日間を土産話にするしかねえな。
弟妹たちには、オレの鬱憤晴らしに付き合ってもらう。
何だかんだで忙しなかったが、旅館の飯は死ぬまでに一度は食っとけってな。
新幹線の車体が風を切り始める。
車内は相変わらず隣のヤツが妙な微笑みを続けてるおかげで、浮かれて騒ぐやつも出てきてない。
緩やかな静けさを感じつつ、まだ落ちきらない、微睡もうとする意識を持て余す。
もう、これで終いだ。
こんなふうに気軽でいられる時間の、終わりが近い。
進学しても、もう遠くに出掛けることはない。
金もない。
だから学生生活も、修学旅行も。
どっちも最期で、他にやり直す機会も来ない。
やることが決まってるから、自分の未来はだいたい分かってる。
その中に、今みたいな学生時代の『もう一度』は入ってない。
……肩をつつかれてる。
ツン、ツン、と指先でつついてくる。
オレの隣にいるのは、ヤツしかいない。
いつの間にか眠ってたオレを起こす、細くてしなやかな指を払いのける。
「よく眠ってたね」
「その顔を見せるな、寝覚めが悪い」
「作ったみたいな、嫌そうな顔しないでよ」
「作ってねえ、オレは本気だ」
張り付いてくる美人を横目に見下ろし、同級生たちの降車の列に並ぶ。
順にホームに足をつけながら、ブルッとちいさく身を震わせる。
向こうでの微かに湿気の混じる気候が嘘みたいだ。
こっちの風は、まだ少し肌寒い。




