31、そっと壊していく【修学旅行2日目・灯点頃】
人気者を取り巻くやつらの声を背に、こっそりと席を立つ。
食い終わったばかりの夕飯の味を思い浮かべたが、人もいるし舌なめずりは堪えた。
食堂の手前で、引率の教師とすれ違う。
ちょうど3年生全員を数え終えたってんで、満足して夕食の配膳に並びに行くところらしい。
オレはひとり、混雑の薄いロビーを横切っていく。
遅れて食堂に来た連中も、このあとはあの大浴場の風呂に入るんだろうな。そんで夜には、みんな布団の上で枕投げでもすんのかな。
今朝、自由時間に入る前。
同室だったやつらが廊下で説教されてるのを遠目に、オレは朝飯を食ってた。
それから顔を合わすことはなく、ややこしい気遣いもしなくて済んだっつうのに。
これからが気まずい。憂鬱な夜だ。
ふと、暗い窓が目に付いた。
ここは外庭の観覧に向かう渡り廊下で、食堂から階段のあいだを延々突っ切るような、無意識に足が向いちまうような唐突な解放感がある。
オレはちょっとした腹ごなしのつもりで来たが、日が暮れて鏡みたいになったガラスが今の表情を教えてくる。
窓越しに睨んでくる顔。
顰めっ面のまま外を覗き込む、自分と目が合う。
廊下の窓枠を交互に、やさしく照らすライトアップに惹かれて人が立ち止まり、集まって、動き出す。
外庭に向かって、ロビーに向かって。
周りのやつらだけが真逆に行き交って、自分だけ流れに乗れない。
目まぐるしい。
「はあ……」
溜め息を、わざと声に出す。
耳障りな声が渡り廊下に入ってくる。
騒がしい同級生たちと入れ替わりに、オレは階段へと向かった。
◆◆◆
「……ねえ……ねえってば」
旅館から借りた部屋の前。
誰もいないはずの隣から声がして、はじめは薄ら、徐々にはっきりと視界の焦点が合いはじめる。
不機嫌なオレに話しかけてくるやつなんて、この世に一人しかいない。
「どっか行ってくれ」
こっちの廊下は、さっきの観覧用と違って端から端まで真っ暗闇の窓が並ぶ。
おかげで昼間の快晴と同じ、片手で数えるほどしかない大ぶりの雲と、昨夜に続く星空を心置きなく眺めてたところだってのに。
一つ隣の窓越しにひらり手で追い払うと、ヒナは膨らませた頬をオレの手に押しつけてきた。
「なにすんだよ」
ヤツに触れた手と一緒に、体を後ろに退く。
右手に感触が残ってる。
サラッとしてモチッとした触り心地が、オレを余計に苛立たせる。
「どうして先に食堂行っちゃったの?」
オマエを待つ理由なんてないだろうが。
気楽に夕飯も食えねえんじゃ、食堂に行く意味もないしな。
ここの飯が食えなかったら、オレはアルバイト先の喫茶店で《おまけ》飯を食うために地元へ帰る。
「嫌なやつに邪魔されたくなかっただけだ」
「ふうん? それで、どうして不機嫌なの?」
答えたくねえけど、無視しづれえな。
延々と質問攻めしてきそうだ。
振り切るついでに部屋へ戻ろうとして、しなやかな指にせき止められる。
「ちょっと疲れてる?」
ああ、知ってるよ!
オレは疲れてる。
ちょっとじゃなく、だいぶ、だけどな。
街中をオマエの用事で連れ回されてんだ。
これで疲れねえなら、そいつは完全無欠の変態だ。
何か言い返してやりたいが、もう返事をするのも怠い。
はやく布団に入って狸寝入りと決め込むか。
美人を大袈裟に避け、部屋の戸に手をかける。
同室のやつらが戻ってくる前に頭まで掛け布団を引っかけてりゃ、雑念を気にする間もなく寝入っちまうだろうし。
そして、朝日と一緒に起きるんだ。
いつもどおり、オレの朝は早いからな。
だけどその習慣をぶち壊し、叩いて地面に落としまくる相手は懲りず、麗麗と前を塞いでくる。
「ねえ、待ってよ」
「待たねえ」
「せっかく、今日楽しかったねって話したかったのに」
「最低だな」
そんな言い方はやめろ。
オレは別に思い出話なんかしたくない。
誰とも。
話したくねえんだよ。
特にオマエとはな。
「ねえってば」
「……団子屋行って、土産屋行って、神社に行って、お守り買って楽しかったな。はい、楽しい話は終わったぞ」
一方的に言葉だけ並べてやれば、ヤツは大きい目をぱちくりさせる。
おい、長い睫毛が揺れてんぞ。
なに驚いてんだよ。
眉を顰めたオレに、ヒナは我に返って小首を傾げる。
「もう。いじわる」
「……それ、絶対わざとだよな」
「なんのこと?」
こいつの仕草のすべてが、オレには狙ってやってるように見えるんだが。
誰にでも愛されるための処世術なのか、相手は本気で不思議そうな顔をしてる。
「……いや、もういい」
話を続けたオレが馬鹿だった。
しつこく構ってくる人気者の細い体を押しのけ、今度こそ戸を開けきって歩を進める。
「ちょっといい?」
「今度はなんだ」
こっちは、もう左足以外は部屋に入ってんだ。
また余計なことで引き留めたら、蹴飛ばす。
いや、小突く。力の限りを尽くして小突くぞ。
背に隠した右手で拳をつくる。
これは我慢するためだ。
コイツの痣の原因になっても、オレが損をするだけだしな。
何を言われるか気にしつつ、左足を部屋の中に入れてやる。
やっと全身が追いついた。
上がり口からすぐの居間に向かうオレに、ヒナは言った。
「この部屋、嫌でしょ」
危うく足を止めそうになった。
でも気力を振り絞り、奥へ進む。
今朝のことや人気者のこともあって、居心地は悪いが。
とりあえず今は執拗な美人から離れたい。
「構うな」
「誰にも気を遣うことなく使える部屋を知ってるんだけどな」
そんな誘惑じみた言葉で、オレが頷くと思ってんのか。
ヤツの話に乗るくらいなら、まだ同室のやつらに踏んづけられてたほうがマシだ。
アレは、かなり痛い。
それでも枕投げに夢中な人間の、容赦ない踏みつけにだって耐えてやる。
付きまとってくる相手の提案なんかに、誰が乗ってやるかってんだ。
「せっかく、ひとり部屋なんだけどな」
念を押すような言葉が、荷物の整理を始めたオレの手を止める。
その口調に、オレは嫌な予感を覚えた。
いつものコイツらしい、意地の悪い考えを滲ませた声だった。
……まさか、な。
◆◆◆
「ここなら自由に使えるね」
昨日も見た部屋の前で、振り返ったヒナがクスクスと笑う。
冷やかしてやろうと付いてったが、目の前にあるのは昨日コイツを看病した部屋だ。
「なんで、またこの部屋なんだよ」
確かにここなら、誰も騒いだりしないだろうな。
隣は教師たちの泊まる部屋が並んでるし、同級生たちの部屋は上階だ。
一人で明るく元気にうるさいパーティーをするつもりもないしな。
だけど、コイツがこの部屋を自由に出入りできるってことが、オレは鼻持ちならねえんだ。
「オマエが使うのか?」
相手の答えは、微笑みひとつだった。
これは肯定の顔だ。
コイツだけ。
二日間もずるいだろうが。
こんな性悪美人の自由にさせて、旅館側も教師も何考えてんだよ。
体調だって、きっと今は万全のはずだぜ。
いつもどおりの意地悪っぷりなんだからな。
部屋の手前でもたついてると、後ろを通りがかった他の客から怪訝な顔をされる。
……めんどくせえな。
視線が邪魔くさい。
気を遣うのも煩わしいが、一応触れないようにヒナに近付く。
なんかオレが追い込んで、腕のなかにコイツを閉じ込めてるみたいになった。
いまだ閉め切られたままの戸を背にして、美人が愛想のいい笑みで見上げてくる。
「だって、言ってたでしょ? 体調悪くなるかもって」
「アレは前振りだったか……」
言ってたな。
今朝、出掛ける前に。
オレはてっきり、取り巻きの連中を遠ざける戯れ言だと思って聞き流してたが。
「それで? オマエはどこで寝るんだよ」
「この部屋だけど?」
なんだ。その強制二人部屋は。
オレは絶対に嫌だからな。
そもそも、一緒の部屋で良いわけがねえだろ。
オマエとは同級生以下、同窓生以下の関係なんだからよ。
とうぜん。この部屋はオレ一人で使う。
「元気になったんなら、自分の部屋に戻るんだな」
素早く開けた戸の奥に、身を滑らせる。
不服そうに口を尖らせるヒナの目の前で、ぴしゃ、と音を立てて閉めてやる。
このまま朝まで籠城してやるぜ。
内側から施錠を済ませ、オレは固く決意した。




