28、儚い夜と美人【修学旅行1日目・暮夜】
ヒナの部屋を後にして、自分の荷物を置いた部屋で一息つく。
テーブルに一つだけ残ったお茶菓子は、同室のやつらが気を遣ったんだと思いたい。
午後7時を回って、いよいよ廊下の騒がしさが薄まってくる。
今頃、外で遊び回ってた連中は下の階で夕飯中だ。
オレは早めに行って食堂の隅で夕飯を済ませ、部屋に備え付けの風呂で入浴を終えたところだった。
途中、廊下ですれ違った何人かに別室にいる人気者のことを聞かれたが、やつらには一言「は?」と睨み返して難を逃れた。
いくらアイツの付属品だからって、仲介役を期待されてもな。
取り巻き連中が周りにいない隙を狙ってんのか知らねえが、こっちに来られても親切に答えてやるつもりはないぜ。
どうせ鉢合わせた保健医かクラス担任にでも聞きに行ってんだろう。
面倒な役回りは、これ以上増やしたくない。
自販機に向かおうと、財布に伸ばした手が止まる。
ヒナに返してもらった2千円が入ってる、布製の二つ折りの財布。
アイツに買ってやったものは合わせても1500円くらいだったが、お釣りは貰っておいてと言われ、そっちは素直に受け入れた。
金は大事だ。
金に律儀なことも大事だ。
相手が嫌がらせしかしてこない美人でも、金が重要であることには変わりないからな。
ただ。
……なにやってんだろうな、オレは。
まだ、アイツは大人しく寝てんのかなんて考えちまう。
あの保健医の言うとおりだ。
結局、オレは世話をした。
人の体調不良に慣れてるせいで、うっかり動いてた。
そこに邪な感情は持ってない。
目の前で買ってきたものを旨そうに食ってようが、オレは普段からヤツに感じてるもの以外の感情は覚えない。
弟妹に向けるのと同じような思いは、今も持ってるけど。
でも、ヤツの反応はまるで予想外だった。
自分が特別扱いされてるみたいな、ご機嫌な様子を隠そうともしないで。
はっきり言って、心臓に悪い。
気が合わなくて苛々させられることも多いくせに、あのままソファの上で放ってもおけなかった。
これが性分ってやつなんだろうな、……きっと。
同室のやつらが戻ってくる前に、オレは歯磨きを済ませ、落ち着いて一人になれる場所を求めた。
人が行き交う建物内じゃあ息が詰まる。
ちょっとした息抜きくらいにしかならないだろうけど、内に閉じこもってるよりはマシだ。
担任の見回りは夜の10時で、1時間前の夜9時に消灯時間がくる。
それまでに部屋へ戻ればいいかと考えつつ、旅館の庭に足を踏み入れる。
夜風に冷えた空気は思っていたよりも爽やかで、涼みやすい。
上で繁繁しい葉っぱが纏まって揺れるたびに、乾ききってない毛先がふわっと浮いて。
下で元気な芝生の弾力がオレの足裏を押し返してくる。
体に直接触れるものだけを感じていられる空間は、学校の旧校舎裏とも少し違った、ほのかに甘い匂いのする空気が流れてる。
音も、遠い。
学校のお気に入りスポットを比べるまでもなく。
見慣れない景観を眺め、ふらふら歩いてる途中で池を見つけ屈み込む。
石垣の縁に生き物らしい気配はないが、夜の闇が沈んだ水底もなかなか面白い。
何の刺激もない時間をずっと求めてたんだと分かる。
今、オレの頭の中は落ち着いてる。
凪いだ湖面みたいに。
いやここは凪いだ池面か。
静かで、考え事もしなくていい。
今頃は両親が弟妹たちの世話でヒイヒイ言ってるだろうが、オレだって伊達に最初に生まれたわけじゃない。
家のことを忘れるコツくらい掴んでる。
頭を空っぽにするくらい軽くやれるさ。
ぼうっとしつつ、しばらく庭を散策してたところで背筋に寒気が走る。
木の陰に隠れた気配に気付く。
人が、そこにいる。
オレは横目に睨みながら一歩、後退った。
「いつから居たんだよ」
「君が庭に入ってきたところから」
見てただけだから怒らないで……と近付いてくる美の悪魔から、オレはまた後退る。
今度は大股で二歩だ。
コイツにだけは近付かれたくない。
旅館の浴衣に自前らしいパーカーを羽織ったヒナを、傍の灯籠の明かりが照らし出す。
頭の隅で揉み消そうとした顔がそこにはあった。
恐ろしいやつだ。
誰の気配もなかったのに。
ていうか最初から居たなら言えよ。
暗がりに立たれたら、オレだって恐えっつうの。
まあ知らないやつじゃなくて良かったけどよ。
そう思う自分の感覚もおかしいけど、突然の登場者の正体に驚くことがなくなったのも事実。
いつからオレは、音もなく現れるコイツを必然だと思うようになっちまったんだ。
「あの約束は?」
こっちに歩み寄ろうとする細い足を、手を突っ張って制す。
咄嗟に逃げられるよう構えを取りながら、2年の秋に取り付けた約束を口にする。
オレの警戒と質問は想定済みだったようで、ヒナは涼しい顔のまま酷に答えた。
「君の帰り道がどこにあるの? ここには君が帰る場所なんて無いよ」
恐えよ……。
これは、マジで肝が冷えた。
夏入りは来月だぞ。
納涼より先に不気味なことを言う相手を、身構えたまま鼻で笑う。
「なんだ。仮病だったのか?」
「君が一緒にいてくれたおかげかな」
クスッと笑って、美人はその場でくるりと横に回ってみせる。
取り巻きや信者の連中なら、大歓声をあげそうな仕草だが。
体の怠さは無いらしいと見て、オレはさっさと顔を逸らす。
「オマエ、約束したよな」
「今回は仕方ないと思うけど」
「勝手に理由をつけるな」
「それは君も、でしょ」
一言一句に責める気持ちを込める。
ヤツの陽気な笑顔に疚しい企みがないか見透かそうとしたが、返された声はまるで澄みきった川みたいに清廉だった。
2年の文化祭、最終日にオレが言うことを聞いたのは、約束を交わしたからだ。
高校からの帰り道を付け狙わないようにって。
期間はオレたちの卒業まで。
約束を信じたから、3日目は楽しむつもりで回った。
ヒナが隣にいようが気にしなかった。
だがコイツは、約束の内容を都合の良いように捉えてやがる。
今この場で。
今日この場所で。
帰るっつう行為に搦んでないとはいえ。
鬱陶しい美人に接近を許す理由にはならないし、関わりたくないからって看病を放棄する言い訳にもしたくない。
でも目の前のコイツがそっちの理由にするつもりなら、オレは約束したことも、その内容も後悔したあと存分に考え直さなくちゃならねえな。
薄暗い水面の奥を見透かせないか試してみる。
池の底にオレの幸運がへばりついてやしないかと思ったが、残念ながら、この暗さで見つけるのは難しそうだ。
視線は池に向けたまま、ヒナに声をかける。
「部屋で寝てろよ」
「ほんとうに、もう大丈夫だよ」
いつもの気に触る言い方じゃない。
ふやかしたお麩みたいに柔らかい声だ。
オレが不調を見抜いてから、ずっと。
今も、まだ本調子じゃないんだろう。
それでも、コイツは人気者でいなくちゃならない。
「気分が良くなったなら、他のやつらにでも会いに行ってやれよ。心配してるらしいから」
オマエの取り巻きは、一目見舞いに来ただけで自分たちの思い出作りに熱中してたが。
学校では常に傍らにいたがるくせに、こういう時には非情なもんだ。
「君は?」
ヒナは灯籠の明かりを頼りに、両手の指先を付き合わせて玩んでる。
砂糖菓子みたいに甘い声だけが、オレの鼓膜をつく。
「心配、してくれた?」
「んなわけねえだろ」
極力、平坦な声音で応じる。
これは本心だ。
むしろ、ヤツの何を案じろってんだ。
目の前にいるのは、腹黒の美人だ。
徒に構ってくるコイツからは、病弱で床に伏せってる姿なんて微塵も想像できない。
「オマエが魘されるさまを思い出して気を良くしてたところだ」
「ふうん? してくれなかったんだ?」
「する理由が無いだろ」
誰が看病してやったと思ってる。
あの保健医が仕事放棄してんだぞ、オレを見て。
弟妹たちだって一晩付きっきりで看てやれば、次の日の朝には爽快で元気いっぱいだ。
コイツの快復力なんかで、いちいち驚いてやるもんか。
柔らかい芝に腰を下ろして、宙を仰いだ。
ヤツも、オレから離れたまま座った。
「月が綺麗だね」
「そんなこと言うために、外に出てきたのか?」
「君の前で言ってみたかっただけ」
無色の吐息が夜空にとける。
深い溜め息がこぼれる。
オレから離れたところで。
ヒナが落とした言葉の意味は、考えないことにした。
「明日は晴れるといいね」
……そうだな。
そう胸中で答えてた。
今日はずっと曇ってたからな。
月だって、やっと見せ場だってんで、疎らになり始めた雲の隙間から覗かせた面を厭味なほど光らせてる。
煌々としてるせいで、眩しくてまともに見られやしねえ。
隣も、上も。
どいつも自分の清純な綺麗さを自慢にして、オレの鳩尾を煙の塊で燻らせる。
一メートル。
いや、それより少し遠いか。
この距離での無言は、だいぶ気まずかった。




