19、良質な生活は良質なサボりに始まる
店でヒナの話になってから1ヶ月。
約束の期限はまだ先だが、ヤツは帰り道だけでなく教室でも近寄ってこなくなった。
結局あれから、ヒナはほとんどの時間を一人で過ごしてる。
まだ店の前を意気揚々と通るらしく、店長にまた同じ話題を振られたくらいだ。
教室では、あの取り巻きも授業以外でアイツと話すことはないらしいが、教師陣もそいつらも別に気にしてないっぽい。
今のところは、ちょっと忙しいくらいに思われてんだろうな。
ヒナは、人に自分を探らせないよう誘導するのが巧い。
誰もヤツの素っ気なさを問題視してないし、オレには見慣れた態度なのもあって巻き込まれないよう触れないでいた。
これだよ、オレが望んでたのは。
気を張り詰めなくても難なく学生生活を熟せる。
学校にいるあいだ、ずっと付きまとわれてた一年間のあとだ。
今年は楽に学生をやれそうな気がしてきた。
逆に、3年生になって面倒事も増えた。
オレのほうじゃない。ヒナの周りだ。
新年度、学期始めの集会を終えて3年の教室へ行く階段の下。
取り巻きに囲まれながら体育館を出てきた美人に、下級生達が張り付いてるのを見た。
三限しかない授業日が続いた一週間のうちに、昼間の下校時間に三年の昇降口で新入生が団子になって待っていても驚かなくなった。
受験者数も多かったのか、入学式ではオレたち三年や二年のやつらより、一年のほうが十数人は上回ってた。
ヒナを持て囃す集いも、新入生のあいだから作ろうと話が出たらしい。
そこに二年生や同学年の連中も混じってて、やけに統制も取れてる。
そういうのがオレにも分かるくらい、目立ち始めるようにはなった。
今まで同好会並みの人数で廊下の隅にいるだけだった連中が、大きな塊で綺麗に纏まってるさまは、遠目で見てるぶんには面白い。
他人事だからと笑っても、ヒナはわざわざ言い返しに来たりしねぇし。
まあ、ヒナの一年間を知る取り巻きの何人かは、渋い顔で文句を言っていたが。
オレから見たら、取り巻きのやつらも、大きなグループになってるやつらも変わらない。
どいつもこいつも、まるで信者のそれだ。
自分含め、同じ対象を追いかける他のやつも、簡単に話しかけちゃいけねぇって空気を出す。
それを誰かに課す。
自分も触れないから、オマエも触れてくれるなと────。
これでアイツは、晴れて雲の上の存在になったってわけだ。
ただの美人から、ただの偶像に。
胸糞悪すぎて出るもんも出ねぇぜ。
見た感じ、やつらは心まで明け渡しちまってる。
でも激しく派閥争いしてるところは、まだ見てない。
どんな相手だろうと、ヒナの態度が変わらないからだろう。
オレでもウッカリ区別しちまう外見のどうこうも、アイツの前では意味がない。
この性格の悪い美人にしてみれば、他の人間はみんな自分に媚びてくるだけの存在だった。
コイツ以上に見た目の良いやつを、誰も知らないせいだ。
まあ、オレがなんにも分かってないだけかもしれないけど。
◆◆◆
あっちもこっちも更にややこしい人間関係になった学校は、今日は授業の代わりに催し物をやる。
5月下旬、草や木の青青とした匂いを感じる朝。
体育祭当日だ。
この行事は、一年から三年まで全校生徒が参加する。
やることなんて、応援してるか走ってるかくらいしかないが。
看板つくったり物を組み立てたりする必要もないから、文化祭よりは楽だ。
つっても、学期始めと終わりの式なんかよりは面倒だけどな。
どっちにも力は入ってねぇが、特別日程の学校ほど鬱屈した気分になる日はない。
うちでも運動部の活動くらいはしてる。
けど大会に出るほどの強さはない。
それより文化部のほうが有名で、学校側の意識も文化祭の活性を堂々と掲げてる。
オレとしては体を動かすのも嫌いじゃないし、勝ち負けの決まる項目も苦手じゃない。
ただ、体力気力で割くエネルギーを削減したい。
授業中に窓の外を眺めてるほうがいい。
だから、こういう煩わしい行事が一日で終わるのも、なかなかに助かる。
こんな日は、職員室に直行する必要もない。
でも、どうしてか保健室や空き教室の鍵を求めて階段を上ってる。
授業がない登校日ってだけで、何となく足が職員室に向いちまうんだ。
二階の床を踏んで、無人の廊下を進む。
教師か職員しか使わない部屋の戸を引き、挨拶もなく入るオレを相手は真っ先に見つける。
そいつは、幼い頃から顔馴染みの科学教師だ。
常に白衣姿でいるその男は、どこで手に入れたのか謎のままにしておきたいような、沼色のダサいジャージに着替えていた。
「おお。どうよ。今日の俺、運動できるって感じの科学教師だろ」
「普段は何も出来ねぇって感じのぐうたら教師だもんな」
「さては褒めるつもりがないな、おまえ」
「微塵もそんな気起きねぇよ」
だいたい、去年は頑なに白衣貫いたじゃねぇか。
この一年でどんな心境の変化だ。
一度広げたジャージの上着のジッパーを素早く閉め、相手は肩身狭そうに首を引っ込める。
椅子に座って気持ちを切り替えたか、教師らしい表情でオレを指差した。
「お前の席を隅にしたのは、俺なんだからな。そこんとこ忘れるなよ」
「勝手に恩を売るな」
「返品しないでいいから持っておけ。返すなら別のものにしろ。俺のために身を粉にして学生生活を送れ」
「青春させたいのか、隷属させたいのかどっちなんだよ」
「そんなの、決まってるだろ。お前の青春を俺に寄越せ」
「やりたくてもやれねぇよ」
「知ってる。だから、お前が代わりに青春しろ。俺がここにいるうちにな」
ふん、と鼻を鳴らして、得意気に口元を歪める。
こいつのニヤケ面には見飽きた。
言わないでおこうと思ったが、さっきから目に付くだらしなさに指を差す。
「良いこと言ったふうだが、ズボンのチャックから流れ星が見えてるぞ」
「やだもう。はやく言ってぇ~」
目の前でわざと太い地声で体をくねらせて、ゆっくりチャックを閉めていくさまを見届ける。
もっと恥じらいを持てよ。
三十路前の男に言うのも変だけど。
「きもいな」
「ひどいな」
「事実だろ」
「そうだが」
「否定しねぇな」
「事実だからな」
何事もなかったかのように真顔に戻ると、相手は満面の笑みをつくってオレを見上げる。
「そんなおまえに朗報だ」
学校行事に格好だけは乗り気なその男は、オレに勝利のピースを向けた。
「今年こそ、リレーで活躍して彼女つくります」
この気合いの入りようは、どうやら昼にある教職員リレーが要らしい。
青くさい春みてぇな理由を掲げやがって。
学生かおまえは。
「そういうのは活躍してからにしろよ」
手の形を指さして笑うと、そいつは心外だと言わんばかりに似合わない真面目な顔をする。
「自分に負荷をかけるためだ。宣言しときゃ、やるしかないだろ」
「涙を誘うようなこと言うな」
なんでおまえが泣くんだよ、とブツクサ言う馴染みの教師を後ろに、オレは聞こえないふりをして職員室を出た。
体育祭の準備が整ったという放送は校内とグラウンドに響き、やる気に満ちた宣誓と歓声が順に続く。
さいしょに担任の点呼があったから、一応クラス連中には混じってた。
息を潜め、目立たないよう紛れるのは慣れてるし。
例年どおりの決まり文句しか言わねぇ校長の開会式と応援のあと、全校生徒が一旦は解散する隙を狙ってグラウンドからこっそり逃げる。
旧校舎の裏は、ひどく落ち着く。
時間の流れもゆっくりになる。
旧い建物ひとつ隔たっただけなのに、向こう側で盛り上がる声援はどこか対岸にあるような、遙か遠い音になる。
オレの安息地は、今日だけは男子の更衣室として開放されてる。
教師陣が警戒して構えやすいよう、女子が更衣室として使う本校舎に男子は入れないようになってる。
ただ、今は催しの最中。
ここがいちばん静かだ。
草地に寝転び、組んだ腕を枕にする。
遠くの騒々しさと近付く梅雨の生温かい風が、すこしずつ意識の外に向かって流れてくのが分かる。
静かだ……誰のことも気にしないでいられる。
ここにいれば、自分のことだけ考えていられる。
家のことも、ヒナのことも忘れて、オレ自身を気遣ってやれる。
気持ちのいい場所だった。
心地良い、居場所だった。




