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12、約束と希望はちいさく



「あ、そういえば」



 わずかに開いたカーテンの隙間から、すらりと伸びる背中だけ見つける。

 思い出したように立ち止まった相手は、カーテンの端を握って顔だけ覗かせた。



「また、手作りのご飯たべたいな」

「それはない」



 オレも即答してやる。

 ヒナは一瞬きゅっと口を引き結んだが、すぐに短く息を吐く。



「でも……明日はつきあってもらうからね」

「……ああ」



 絶対だよ、と念を押すヒナは、少しだけ寂しげな目を向けてくる。

 おそらく、クラスの連中には見せたことのない表情だ。

 はじめて見るその顔に、オレは直感的に相手を視界から外した。


 じゃあね、と言い残して保健室のドアに手をかけたかと思えば。

 カーテンを引いて見ると、人気者の後ろ姿はとっく閉めきったドアの向こうに消えていた。


 約束させられたとはいえ、振り回す側にまわるってのもそう悪くはねぇな。



「よし。あしたは付き合ってやるか……」



 独り言をこぼしてから、オレは自分の荷物を手に保健室を出た。



 ◆◆◆



 自分が疲れてることを意識できるうちは、まだ調子がいいほうだ。

 そういうときこそ、オレは喫茶店に行く。

 店長の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、1ヶ月の食事を考える。調子がいいと、食費を浮かせる良案も湧いてくるってもんだ。



「店じまいしておいてやるぞ」

「そう? 悪いけど、頼んでいいかな」



 今日は夜の7時で閉めるらしい。

 午後6時半を回り、客らしい客がいなくなったところで、店じまいの準備を始める店長に伝える。

 この人も、オレの顔と提案に申し訳なさより先にホッとした表情をするようになった。

 だいぶ馴染んできた。お互いに。



「用事があるなら、しかたねぇだろ」

「ほんと、君は頼りになるね」



 気分がいい。特に今日は、アイツから僅かにでも解放される未来を得た。

 だから頭のなかが整理しやすい。場合によっては、一週間の食事を考えるのも億劫なときだってある。

 こういう日は大事にしたいもんだ。ついでに人に優しくできる日だから。そのへんは店長にも見抜かれてる。



「もう一つ、頼まれてくれないかな?」

「ああ。いつものだろ」

「ほんと、君なしではいられないよ」

「ああ。ま、店の存続に関わるしな」



 店長は住宅やらが並ぶ表側の扉に手をかけたまま、顔だけで振り返って柔らかく笑い返してくる。オレはいつもどおり口角をあげることもなく、軽く手を振るだけで応えた。

 調子がいいのは、このおっさんの口も同じか。


 にしても、最近は頻繁だな。

 きょねん、オレが客の頃にだって、早じまいは3ヶ月に一度有るか無いかくらいだったが。

 今年に入ってからは月一になっていたし、ここ最近は半月に一度だ。


 店長のもう一つの頼みとは、明日の仕込みのこと。

 もちろん、店で調理して提供するにはちゃんとした資格が必要で。無知を通して生きていたオレにだって、そのくらいのことは分かる。

 あと正規で雇われたわけじゃねえから、見つかれば店長と店がやばいってのも。


 店長は、客だったオレの提案を冗談で流すこともできた。けど相手は頷くし、閉店作業や仕込みまでさせて、どう考えても変な状況だと思う。

 店長の度量が捻くれてるとか、オレの料理の腕とかを差し引いても異常な関係ではある。

 あのおっさんが特殊なだけだ。やっぱり、オレと関わろうとしてくるのは変なやつしかいない。


 なにより店長のほうが、オレのことをどこまでも信じきってる。

 仕込みが済むと、余った食材は持って帰っていいって付属まで用意して。

 切って棄てる部分をわざと多くしたり、形を崩したりするようなズルはしないって思ってるらしい。

 まあ、それをするメリットもないしな。この店に出入りできなくなるほうが、オレにとっては死活問題だ。


 余りもんの代表としては、サンドイッチをつくったあとのパンの耳とか。

 これが案外うまくて、しかも腹がふくれやすい。オレの飯だ。ありつける日は少ないが。


 家に帰れば、弟妹がいる。

 稼ぎの少ない両親の給料だけで、あいつらを満足に食わしてやりたいってのもあるが、ここで持って帰れる余りものは少しくらい、こっそりとオレが独り占めしてもバレない絶好の機会だ。

 それがパンの耳でも、フライパンの上で焦げかけてるたまごでも、嬉しいってもんさ。


 明日のメニューは、おっさんの趣向で米がメイン。パンは無し。だから食材の余りも今日は出ない。

 でも、つくったおかずの味見はする。ぜんぶ一度ずつ、少しずつ口に運ぶ。小腹すら満たせねぇけど、オレにはこれくらいがちょうどいい。

 慢性的な空腹も、飼い慣らしてしまえるならどうということはない。鳴き声がちょっと多いだけだ。これはこれで、か細い音だから可愛くはある。


 店の裏に出て、いつもみたいに鍵をポストに入れる。

 オレは、このポストみたいだ。店の鍵くらいしか、入れておく物がない。店長との目印程度にしか、ここに置いてもらえる理由がない。良いように使えるから、置いてもらえる。


 他のどこにも行けない(なり)をしてるくせして、そこにいれば何かしら使ってもらえる。店長みたく変わったやつじゃなかったら、必要ないからって外したりするのかもな。

 そんなポストみたいなんだ、オレってやつは。




 はじめて店に来た日。オレは賑々しさが煩わしくて、この店に辿り着いた。

 学校から逃げ出したんだ。あの空間がオレのからだに合った例しがない。


 店のなかで真っ先に目に入った男が店長で、オレが平日の真っ昼間から高校の制服姿で顔を見せても、何も言わなかった。

 口数は少ないし、さいしょは勘定のときですら物言わねぇときもあったし、あとすげぇ無愛想。

 オレも愛想を振りまくほうじゃないが、おっさんもなかなかだ。




 店のことにちょっと手を出すようになった現在でも、店長はオレにあれこれ訊いたりしない。

 お互いに、自分のことを探られるのは鬱陶しくてたまらないって知ってんだ。


 理由をつくらなくていい。

 言い訳を考えなくていい。

 下手な遠慮もない。


 にんげん的な配慮ってもんに定義があるかなんて、正直分かる気がしない。

 でも、こういう大人がいるところが、オレにとって居心地がいい場所なんだ。

 それが、このおっさんと会うようになってよく分かった。


 自分でも思うときがある。オレって、便利だよなって。

 家族にとっては料理当番、店にとっては小間使いってところか。《おまけ》がつくだけ、後者のほうが随分良い。

 器用に、オレが疲れない程度に、面倒になって投げ出そうとしない具合に使ってくれるなら何だって良かったんだ。


 そこにいて、無視するでもなく、過剰に干渉するでもない。


 他のどこにも、オレが行ける場所はない。

 この店以外に、オレがいたい場所はない。

 それくらい、大事なところなんだ。

 ここにいる限り得られるひとときの安息とちょっとの《おまけ》は、都合良く使われたって不満も感じないほど価値がありすぎる。


 だけど、オレは恵まれたポストだな。店のポストみたいにちょうどよく扱われることもあるけど、反対にオレも都合良く利用できる。これくらいがちょうどいい距離なんだろう。


 店の裏から繋がる細くて薄暗い道を、軽い足取りで進む。

 気合いを入れなくちゃならない明日より、その日を過ぎたあとの平穏にこそ焦がれた。



 ◆◆◆



 オレの家は……、──たぶん貧しい。

 うちの親が騙されたりだとか貸借で苦労するところは見てないが、自由に使える金は多くねえし、家もまあ小さいほうだ。


 両親はオレが生まれるより前から共働きだったらしいし、母は下のやつらを産んだあとも働き続けてる。

 父も家にいる時間が少なかったし、3番目の双子が赤ちゃんの頃に漸く、オレは父親の顔を覚えたくらいだ。


 彼らの代わりにオレと1人目の弟を育てたのは近所の老夫婦だったが、両親も仲が悪いってわけじゃなかった。

 仕事人間とまでは言わないが、オレと育て親の老夫婦が知る限り、ふたりが無職だったことはない。

 オレも別に、親にべったりする性分じゃねえし平気だった。


 でも、オレが中学生になる直前。

 弟妹が増えたことで引っ越しが決まった。

 それまで近所の老夫婦にずっと面倒をかけていたから、気になってたその部分を解消できると分かって心が晴れた。

 でも親は家にいないしで、中学生になったオレには弟妹たちの世話が待ってた。


 戸建てになってからのオレの居場所は、店の定位置より居づらくなった。心象的には教室の席に近いかもな。

 2階にある3部屋は、中学生の弟、その年子で同じく中学生の一卵性双子の弟妹、それから幼稚園児の妹がそれぞれ使ってる。

 その頃から両親も一番下にかかりきりで一緒に寝るし、オレの部屋は一階の和室に決まっても自然だった。

 しかも、声を聞いたこともない、今は亡き祖父母の写真が飾られた仏壇と同室だ。


 完全なひとり部屋がないのは、中学生の頃は気になってた。

 だけど新聞配達くらいじゃあ一人暮らしする余裕もないし、一人で生活していくのも難しい。

 親以外の家族は全員年下で、あいつらに美味い飯を腹一杯食わしてやりたかった。だからアルバイトで得た金のほとんどを、オレはそっちに使ってた。


 オレが高校生になってからは、両親にも時間の余裕ができたようで面倒をみてくれるようになったし、日雇いで探せる仕事の範囲も増え、収入も貯金も比例して増えてった。

 何より高校に通う金は親と折半で、親が払ってる金も成人してから返すことになってる。彼らに負担をかけてることも、将来の予定を明確にすることで心労は軽くした。


 こうして生きていたからって、オレは家族のためだけに生きてきたわけじゃない。こっちはこっちで、それなりに自分のために何か買ったりもするが、弟妹たちの喜ぶ顔を見たら我慢して良かったと思うこともある。

 嫌々やってるわけじゃないんだ。ぜんぶ。

 これはオレが唯一押し通したいわがままみたいなもので。


 弟妹の幸せが、オレの糧になってる。

 それを出来なくするのが、オレの幸せってだけの話なんだ。オレのことなんて、前倒しにしようが後回しにしようが、たいして変わんねぇってのに。


 なのに、そんな些細な望みすら阻もうとしてくるやつがいる。

 ヒナの存在が、まさにそれなんだ。

 オレは、自分のことはどうでもいい。ちょっと安息できる場所があれば、それだけでいい。


 それなのに、出会ってしまった。

 オレの日常を乱すやつに。

 登場を望んだ覚えもなければ、勝手に入り込んできたりする。


 まじで鬱陶しい。今さら何だってんだ。

 その感情を抱くはずだったオレは、とっくに箱の中へしまって納戸の奥のほうで眠ってる。

 起こすつもりなんて、まったくない。これからも、それは箱に入ったまま。


 だけど、ヒナがそれを許してくれない。

 箱を探し当てて、中を漁って、外に取り出して。

 勝手に見つけておいて、外に出たいなら自分に縋ってみせろと手を離す。


 オレにとってあの性悪美人は、そういう厄介なやつなんだ。



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