1、転校生は美人
それは正しく劇的……と呼びたい心境ではあった。
出逢うべくして出逢った────とまでは言わないが、少なくとも自分が誰かにここまで目を奪われることは、もう無いだろう。
最初からこうなることが決められていたのだと、いつか今日を懐かしく感じる時がくるのだろう。
隣町の、そのまた隣町から引っ越して来た転校生の姿に。
オレはそう思うしかなかった。
2年になって4月のはじめ。
それまで平穏そのものだった日常は、朝のHR開始のチャイムを合図に。
…………終わった────。
▼▲▼▲
「おはよう」
雨空を6月に置き去って、蒸し暑さだけが残った7月のとある朝。
例の転校生は、廊下から自席へと足を進めつつ、どこか楽しげに周りへの挨拶を終えていく。
やがてオレの隣に────じゃなくて隣の席まで来ると机に鞄を置き、一拍おいてからオレに「おはよう」と告げてくる。
その人が首を傾げるだけで、周りの人間はうっとりと好奇な目を向ける。庇護欲を煽るような仕草をしてるって自覚を、本人が持ってるかは分からねぇけど。
そうして老若男女問わず惑わすその相手が、オレに対しても変わらず微笑みかけてきた日数は、考えずとも両手で数えるには本数が足りない。
こっちも机に座ったまま片手をあげ、まるで端っからの知り合いみたいに軽く挨拶を返す。
「よお」
途端、悶絶したくなるほどの羞恥が、オレの体中を駆け巡った。
熱が頭の天辺から足の爪先までを覆い、思考は衰え目の前が少し白み始める。
けれど、それもオレ自身の内側で起こっていることで、外側しか見ることができない周囲には平然面のオレが席でふんぞり返っているように見えるはずだ。
オレは感情が面に出にくいのだと悟ったのは、小学生の頃。
当時は互いに幼かったせいで、同学年との衝突もそこそこあった。今では衝突どころか接触すら避けられてるんだから、人間関係とは何ぞやってところだ。
クラス連中を視界から外すため窓の外に目を向けるオレの顔を、かの転校生は横から覗き込んでくる。
「今日は暑いね」
もう会話は御免だ。相手を無視して目をつむる。
人の机に手をつく転校生の半袖からは、日に焼けたことがないような真っ白い腕が伸びている。
その眩しさにこっちが日焼けしそうで、オレはわざとらしく顔を逸らした。
「君は暑くないの?」
オレは、コイツのことが苦手だ。だから二言以上のやりとりはしないと決めてる。今までもそうしてきた。
それなのに、ここ最近はしつこく話しかけられる。
まあ……相手にオレの決意なんて関係ないだろうし、このとおり無視したくらいで簡単に心折れるようなやつじゃない。
◇◇
例えば、授業中──。
「君、この教科嫌いなの?」
例えば、昼食時──。
「君、この食べ物嫌いなの?」
例えば、腹一杯になった午後──。
「君、いま眠いの我慢してるでしょ?」
例えば、下校時──。
「そっちから帰ると、人の波が多いよ。今日は」
◇◇
こうして思い返すと、鬱陶しさの極みだ。果てしなく煩わしい。
何ヶ月もの間絶えずここまでされたら、早々に諦めて遠くへ逃げるオレの性分も役に立たない。自転車で逃げてんのに大型バイクで追いかけられるようなもん。
もうさすがに、我慢の限界ってものを手放しに喜んじまいそうだ。
ともかく、何が言いたいかというと。
ま~~~~ったく! オモシロくないっ!
オレが暑さに疎いこと。オレに苦手な授業があること。オレにある嫌いなもの。
昼に窓のそばにあるオレの席で、腹が満たされ好い心地で微睡んでいること。
オレがキャーキャーと甲高い声で喚く、若くてハキハキした集団や群れに対してアレルギーみたいなものを持っていること。
誰も──この1年間どころか高校に入ってからの2年間ですら誰も、オレに話題らしいものを振ってきたことはなかった。
大抵が授業ノートの回収催促か、掃除の担当場所を代わってくれってところだ。それも話しかけづらそうにして周りを彷徨かれるから、仕方なくオレのほうから聞いてやると漸く応える程度。
体育祭の種目選びや文化祭の出店選びなんて学校行事の時くらいは、積極的に話しかけてくる奴もいたりするが、それをノーカンにしたって文句を言われる筋合いはない。
とりあえず、このオレに対し日常会話を仕掛けてくる奴っていうのは、特殊な奴が多い。
主なところでは転校生。
特に例をあげるなら転校生。
厳密に言えば転校生。
この転校生というやつは、クラス内……いや校内におけるオレの立ち位置を勘違いしてる。
骨格は太いし、目つきも鋭い。身長は高く、同級生を相手に比較するのも虚しいほど。
オレの目線で見えるものを知ったら、きっとみんな驚くぞ。蟻さんなんて擂り胡麻の粒と良い勝負。
まあ性格が明るいわけじゃないし、相槌も愛想もちゃんと返すほうじゃない。
入学初日から、顔を引き攣らせた上級生に道を譲られて得意気になるようなやつなんだ、オレは。
だから、みんなに愛くるしいと持て囃される転校生が構うことなんてないんだ。
そういうわけで頼む。引っ切り無しに声をかけてくるコイツを、どこでもいい。どこかへやってくれ。
だけど周りが聞くのはその人の言うことだけで、別に親しくもないオレが困ってたって見ないふりが常だ。
それが今のオレを取り囲む現状ってんだから、退屈な日常に降って湧いた幸中の不幸も落ちるとこまで落ちたらしい。
……幸い転じて禍となる──。
そう語って見せても、オレが転校生に話しかけられるという構図は暫く変わらなさそうだなんて、燦然と射す陽光の下で斜に構えてみた。
◆◆◆
クラスの空気が変わったのは、転校生から漏れる雰囲気が完全に馴染んで見えた頃。
登下校の景色はとっくに唐揚げみたいな茶色い色彩が占め、継ぎ接ぎだらけのスニーカーの下で落ち葉がカサカサ、パリパリと存在感を発揮している。
焼き芋と焼き栗の美味い季節だが、売れ時の今は高くて買えない。オレの芋と栗はもう少し先だ。
朝の教室を往年の友人みたく自然な姿で過ごすその人は、何故か終始忘れ物が絶えない。
なので時たま別のクラスの生徒が訪ねてきては、「これ、ありがとう」と教科書を返す姿を見ている。どうも自分の教科書を忘れるだけでなく、人から借りた事実まで忘れてしまうにんげんらしい。
最近になってオレは、無駄な抵抗をやめた。ヤツに対しても、他の生徒がするみたいに話しかけられたら応じることにしてる。
あとで言葉を返すまで付きまとわれるのも面倒だし、同級生みたく話しかけておけば、とりあえず難は避けられるってことを学んだ。
借り物を返し終えて隣の机に戻る相手に、オレは毎度この言葉を投げる。
「ほんっと、ダメなやつだな」
すると、相手は流麗な顔で返してくる。その表情は、ご機嫌の表れだ。
「君が見せてくれたら、返すことを忘れる心配もないんだけどね」
当然ニコっと蜂蜜みたいな微笑みが付属してるわけだが、そんな相手にもオレは容赦しないと決めてる。話はするが、態度や口調まで甘くしてやるつもりはない。
それに、いくら隣の席だからって見せてやる義理もない。窓の端に座るオレと違って、転校生の右隣にも生徒はいる。
オマエ相手なら、誰だって何でも与えちまうだろ。なら、オレは絶対に何もやるつもりはねえよ。
……つうか──。
「教科書を忘れねえっつう前提はないのかよ」
正論も正論。ドの付く正論をピシャリとぶつければ、相手は何も言い返してこない。
お馴染みとなったこの会話が定着したことが、周りのオレを見る目が変わる理由になっているらしかった。
オレはまるで気付いてなかったが、周りはたぶん約一ヶ月半も前に知ってたと思う。
クラスのヤツだったか、上級生たちだったか。とにかく、誰かがその時のことを話していたんだ。
会話のなかにあった『もう一ヶ月くらいだよね』というキーワードはどうしてか耳に残ってる。
その言葉をもとに、オレはそれが起こった日のことを思い出していた。
あれは、7月20日。
夏休みに入る直前のこと。
◇◇
第一学期の修了当日。
やっと騒音だらけの教室から抜け出せる開放感を持ちつつ、この時のオレは、周囲に人が集まってくることもなくなっていて安堵していた。
すこし前から転校生は仲の良い同級生の席へ行ったり、隣の教室まで遊びに行ったりしていたから。
オレの昼寝を邪魔される心配もなくなって、そりゃあもう快適ったらない。
教室内も比較的穏やかな静けさに包まれるし、オレとしては、転校生には毎日毎休み時間を余所の教室で過ごしてほしいくらいに考えていた。
担任に席替えの概念はないようで、席を改める気配のないクラス内は妙な結束ができはじめてる。
それなのに約3ヶ月半ずっとオレの隣を陣取った転校生のせいで、席の周りを見慣れた顔が囲んでくる。みんなコイツの取り巻きだ。
ヤツらは口から夏の長期休暇の季語を出しては、勝手に盛り上がって顔を紅潮させてやがる。暑がりさんがてめぇらは。
まるで逃走経路を塞ぐようにペチャクチャと居座ってやがるが、オレは何も語らないし楽しい会話なんてものを期待されても困る。
というか喋ってるのは、ほとんど転校生と同級生たちで。
オレが劇的な衝撃を覚えたソイツは今日に限ってどうしても自席を離れようとせず、転校生に用があるヤツらも親切心なのか隣席のオレまで輪になって囲んでくる。
学期末日だっつうのに窮屈で悲惨だ。
「ねぇねぇ? ヒナは今日、このあとどうする?」
「もちろん、うちらと遊びに行くよね~!」
「え~、良いなー。俺らも誘えよー」
「そうだぞー。男子も欲しいよなー、ヒナ?」
取り巻きたちの言う『ヒナ』とは、かの転校生のこと。オレの名が可愛らしいものだと周囲はドン引きだろうが、こと転校生にはその名が良く似合う。
風に髪が揺れるだけで儚げに見えるし、日暮れを見つめるだけで愁いの顔だと思われる。眉を顰めたら気遣われ、「あ」と一言もらすだけで騒々しさが凪ぐ。
微笑むだけで枯れ木に花が咲く勢いで、ソイツを好ましく思ってるヤツらは持て囃すってわけだ。
そうは言っても、下の名全てまでは誰も口にしない──オレに至っては上の名すら出てこない──が同級生や他の生徒、教師の口から何度も繰り返されるその愛称は、もはやオレの耳にこびり付いて離れない。
「それなら、この人も誘って良い?」
隣席のソイツの細くてしなやかな指が、まっすぐオレを指してくる。
転校生の口から出た言葉に驚いてると、取り巻きたちもまったく同じ目で発言者を見ていた。
辺りを囲むうちの数人は、「え? おまえ居たの?」くらい不躾な視線をオレに送ってくる。
コイツの意図にも、オレの存在にも気付かなくて良いから、提案はそのまま無視してくれ。
周りが拒否すれば、自ずとそういう空気になるだろう。いくら転校生で人当たりが良くて評判のある奴でも、空気を読む力くらいは養っているはず。
だけど、コイツは忘却以外にも特技を持ってるらしい。
「ダメかな?」
隣から甘えた声が聞こえる。
顎先を引いて小首を傾げ、ソイツは同級生を見回す。取り巻きたちの表情がポウッと火照る。あんかけにも負けないとろけ顔だ。
まるで空気なんて読んでねえな、コイツは。
これで、ヤツらの考えも決まったはずだ。自分たちの大好きなヒナが言うなら良いか、と揃って思ってることだろう。
こうして、転校生──ヒナの上目遣いゆえに、無情にもオレはヤツらの輪に参加することが決定した。
この事象にタイトルを付けるとしたら、『高校生の放課後プレイ(強制)』がピッタリだろうな。
◇◇
傍迷惑なことに、青春の一ページらしき瞬間を生身で体験するという危険極まりない行為を、オレはその日初めて味わされた。
そして。
これが噂の発端になったっつうわけだ。