甘美な花の匂い
静かな部屋の中、チッチッチッと時を刻む。シャープペンが文字を記す音、ノートを巡る音、ペンで丸をつけた音。案外、音と云うのは無意識でもあちらこちらで聞こえるものだ。
音楽を聴きながら勉強をすると捗ると聞いたことはある。しかし性格上、音楽を聴いていると自然とテンションが上がってのめり込んでしまうため、勉強以外のことに熱が入ってしまうのだ。しかし完全に音を遮断するとそれはそれで気が滅入ってしまうため、このくらいの雑音が俺には環境として最適だ。
秒針が刻む音は時限爆弾が近くにあるかのような緊張感を持たせてくれる。実際なくとも思い込むことでより心を追い込める。一点に集中し、文字と数列を頭に記憶させる。参考書をひたすら解いては回答と見合わせ、ノートに赤を入れていく。日々コツコツと勉強をしている成果は現れてきている。これならば志望校にも問題なく受かると担任にも云われた。もちろん成果として、模試ではA判定を貰っているが油断はいけない。日々の積み重ねが結果として目に見える形で返ってくるのだから。こうして努力が目に見えるのは満たされるなにかがある。
ふと集中力が切れ、気づくと部屋が暗くなっていた。夕暮れ時になったため帰宅途中の子供の声やカラスの鳴き声なども遠くから聞こえてくる。明かりをつけるため手探りで壁のスイッチを押すとパチリと小さな音がして点滅しながら点灯した。そろそろ電球の替え時かもしれない。そう思いながら眠気覚ましのために用意した珈琲に手を伸ばすが冷めきっていた。冷たい液体を流し込み、乾いた喉を潤す。一段落着いたところだ、ついでにと休憩をとる事にした。
飲み干したカップを持ちキッチンへ行くため階段を降りた。近づくにつれてキッチンからはリズミカルな包丁の音と良い匂いがしてきた。覗き込むように部屋に入ると女性と目が合った。そしてにっこりと微笑まれた。
「おかえりなさい、むっくん」
「ただいまです。絵梨花さん」
父の再婚相手、絵梨花さんは随分と若い人だ。詳しく年齢を聞くのは悪いと、本人から聞いてはいないから外見からの判断だ。若いのに気立てが良くてとても優しい。幼い頃に母を亡くしたあと、男手一つで育ててくれた父に再び訪れた春だ。もちろん喜んで二人を祝った。高校受験を控えたこの時期も、絵梨花さんは一生懸命応援をしてくれている。そのおかげで家事分担も減り勉強により熱を入れることができている。
「和明さん遅くなるようだから二人で先にご飯にしちゃおうね。まだお料理煮込んでいるところだから、キリの良いところまで終わったら降りてきてね」
カップは洗っておくからと受け取ってくれた絵梨花さんに感謝の言葉を述べ、部屋に戻った。今日も父さんは帰りが遅いらしい。さすがは立場のある人間。仕事は大変そうだが、家には待ってくれている人もいる楽しみもあるのか、充実しているらしい。夕飯にもしばらく時間がありそうだ。息抜きするには丁度良い。
部屋に戻ったあと再びゆっくりとドアを開け、周りに人が居ないかを確認をする。今家には絵梨花さんと二人きり。しかも夕飯作りをしているため来ることは無いだろう。
部屋に後付けした鍵をかけてからベッドに横たわる。ベッドの下に隠してある金庫を引っ張り出し南京錠の四桁の数字を合わせ、中に入っている秘蔵の本を取りだした。
「ふぅ……」
隅から隅まで目を通し、本を閉じる。昂った鼓動を抑えつつ余韻に浸る。……これは良い、大当たりだ。うっとりとした表情で表紙を眺める。金髪ギャルと黒髪清楚系の生徒同士が絡み合った甘美な表紙を。いやはや、王道はハズレがない。ギャル×清楚の組み合わせは定番中の定番、王道だ。自由奔放なギャルが大人しい清楚な生徒を組み伏せ、それにときめいて女性同士の禁断の恋愛が始まる。読んでいたのは女同士の恋愛を描いた漫画、『百合本』と云うやつだ。かつて本屋で表紙買いしてしまった本が有名作品の二次創作百合同人誌だった。表紙が知っているキャラだったため購入したところ、今に至ると云うわけだ。驚くくらいに百合の沼にハマってしまった。隠すことではないのかもしれないが、この儚く美しい世界を壊してはならないとこっそり内に秘めているのだ。語り合える友が居ないのは少し寂しいけれども。
先日買った百合本を存分に堪能し、金庫へと戻す。暗証番号は四桁のものだが、近々桁数が多いものを買うことも検討している。時計を見ると夕飯に良い時間だった。今日の夕飯はなんだろうか。絵梨花さんの手料理はなんでも美味しいから楽しみだ。晴れ晴れとした気持ちでキッチンへと向かった。