世にも不思議な玉のお話 4
夕日が完全に沈んだ時、変化が起こった。
銅鑼の音が間をおいて鳴らされる。まばらにいた人々はその音を聞くと、足早に家へと戻り始めた。
家の戸は次々と閉じられ、商人も着々と店仕舞いの準備を始める。皆どこか怯えた様子だ。通りで一人、子供が遊んでいると、母親らしき人が、慌てて抱きかかえ、家へと連れ戻す。男達が巡回しながら、家へと帰るよう促している。
バックルは急激な変化に、驚きつつも、体勢を整えると、じっと酒屋を見つめた。
大半の店が閉まっていくなか、酒屋の店先では提灯に火が灯され、暖簾が下げられる。酒屋としては頃合いの時間だろう。だが、誰が商売相手なのか。人ではないとすると、答えは一つだった。
最後の銅鑼の音が響きわたる。余韻が消えていくと、あたりは静まり返る。
その時、バックルの頬を、冷たい風がつーとなでた。
はっとし、あたりを見ると、気づけば、どこからともなく夥しい数の化け物が湧いてきている。まるで、別の世界から空間を捻じ曲げ、こちらの世界へと繋げているようだった。実際、そうなのかもしれない。店先の提灯は、明りで化け物を誘導しているかのように、ぽつぽつと順々に灯される。通りには屋台形式の店ができていた。明りを消し、息を殺すようにしている家々の合間に、まばらに存在している。だんだんと、あたりは化け物達で賑わい始め、昨夜の夜市と化していく。昨夜バックルが見たのはこの光景だった。あそこにいたのは人ではなく、化け物だったのだ。どうして気づかなかったのだろう。あまりに現実離れした光景で、目は映し出すのを拒否したのだろうか。バックル自身、外套を目深に被っていたし、長旅で疲労困憊していたため、意識が散漫していただけかもしれない。
とにかく、今目の前に広がる光景はバックルには衝撃すぎた。バックル腕をさすると、震える体を抱きしめる。自分でも情けなかった。
(なに怖がっているんだ! これからだろう!)
震えを抑えようと体を丸めていると、胸に違和感を覚える。驚き、恐る恐る胸元に手を差し込むと、なにかを掴んだ。
震える手を広げると、それは、液体の入った小瓶だった。
「……これって!」
息をのみ、手のひらで転がす。
『静かに。幻覚を解いているだけよ』少女の声が、頭の中に呼び起される。バックルは、この液体の正体をなんとなく理解した。まったく、いつの間に入れられたのだろう。不安と興奮で頭がいっぱいいっぱいだ。
しばらくした後、決意をかためると、中の液体を自身にふきかけた。
「うっ!」
勢いよく顔にかかり、思わず顔をしかめる。そっと目を開け、バックルは叫びたくなるのなんとかこらえた。腕から徐々に毛が生えていき、手の先の爪は鋭く、ギラリとひかっている。顔も恐る恐る触ってみると、硬い毛の感触がする。
バックルはしばらく自身の姿を眺めていたが、賑わう夜市を見ると、意を決して木から飛び降りた。
酒屋はこの辺りでは珍しく、屋台形式を取っていない。一般の店のように、中で椅子に座り頼むという形式を取っている。戸を開けると、騒がしい声が体全体に伝わってきた。
カウンターから離れすぎない距離に座ると、若干こわばった笑みを浮かべた老人が近づいてきた。
「何にしましょう」
バックルはメニューの中から適当に指をさし、追い払う仕草をする。しかし、老人は離れることなく、「前払いですので」とトレーを差し出してきた。なるほど。賢いやり方だ。お金を調達しておいて良かったと、心底ほっとした。
奥へと消えていく老人を見つめ、カウンターにいる老婆にも目を向ける。二人は老夫婦のようだった。彼ら以外人間の姿は見当たらない。しかし、他にもいるはずだ。他のターゲットも、バックルと同様に変装しているのかもしれない。
(だとしたら厄介だな。簡単には見分けられない)
観察している間見た顔はなんとか頭の中にとどめてある。なので、酒屋に来れば分かるだろうと思っていたが、やはりそう簡単にはいかないらしい。
(この中にいるのか? 俺があいつらだったらどこにいる?)
バックルは店内を見回す。奥の方には扉が見え、おそらく二階へと続く階段があるのだろう。窓もなく、入り口は一つ。こじんまりとした店だが、化け物で溢れかえっており、通路は人ひとりが通れる程度。大柄な化け物が歩き回るのには窮屈そうだ。
(……そうか、だとしたら!)
バックルは天井を仰ぎそうになるのをなんとかこらえる。
(上からなら、変装する必要もなく、店内全体を見回せる。……だとしたら、余計近づきにくいな)
一人、思案していると、頼んでいたものが運ばれてきた。酒の入った瓶子と、盃だ。バックルはそれを見て、ため息をつきそうになる。酒はほとんど飲んだことがない。親父に悪ふざけで飲まされたことは幾度かあるが、どこが美味しいのか分からなかった。しかし、不自然にみられないよう、多少は手をつけなければならない。慣れない姿なため、酒瓶を持つのにも一苦労だ。こぼさないよう気を張って飲んでいると、真正面から声がかかった。
「おい、あんた、大柄なくせに酒は少ないんだな」
バックルは緊張を押し殺し、顔を上げる。
見ると、先ほど席に着いた化け物が、蛇のような舌をしゅるしゅると動かし、気味の悪い笑みを浮かべていた。
「……酒を飲みにきたわけじゃないんでね」
「なるほど、待ち人がいるってわけか」
勝手に勘違いしてくれた男は、ひょろひょろとした体をねじらせる。
「そんじゃあんた、待っている間俺に付き合わないか? 一人酒ってのもつまらなくてね。お代は割り勘でどうだ?」
自分から付き合えと言っておいて、割り勘ときたものだ。こちらは飲む気がないというのに、そもそも聞く気がまったくないのだろう。
「……断る。さっきも言ったが、酒を飲みにきたわけじゃないんだ」
妙に絡んでくる男にうんざりして顔をそらす。化け物にもこういった奴はいるのだ。
「はぁ~、つまんないやつだなぁ」
一人酒はつまらないと言いながらも、酒を頼むと、頬杖をつく。
「ああ~早めに来たっていうのに席は満席だな。旦那もここに来るまで多少待ったんじゃないか。満員だったもんな」
何の話だろう。とりあえず、適当に相槌を打っておく。
「それにしても、急に結界が緩まるなんて、ラッキーなことだよ。旦那はどうしてか知ってるか? 知らない? まぁ、そうだよな。俺だって知らないさ。なんてったって、黒玉の分裂後、こんなことは初めてだ。魔界中大喜びよ」
バックルは押し黙った。男の言葉が何を指すのか。魔石に関する重要な情報な気がする。
「黒玉の分裂といったらいつのことだったか?」
「あ? そんなこと覚えてないさ。うーんと前の話ってだけで。にしても、あの頃はここで暮らすのが普通だったなんてな」
蛇男は、考え深げにどこか遠くを見つめる。蛇男の言葉一つ一つをとって、組み合わせる。ぼんやりと分かりそうで、分からない。丁度蛇男の頼んだ酒が運ばれてきたため、話は流れていった。仕方ない。ここまでだ。
蛇男は酒が入った途端、愚痴のようなものを一方的にこぼし始めた。バックルは、初め仕方なく相槌を打っていたが、途中から面倒になり終始無言だ。蛇男はそれでもかまわないらしい。ただ言いたかっただけなのだろう。喋らなくてもいいのはありがたいことだが、一向に終わる気配がないまま酔っ払っていくのを見ると、早くこの席から離れたほうがいいのかもしれないと思い始める。これ以上絡まれたら面倒だ。
そうこうしているうちに、店内がやけに騒がしくなる。何事だろう?
「あぁ~始まっちまったよ。これじゃぁしばらくは店から出れねぇな。迷惑なこった」
男の呟きに思わず目を向ける。
「よくあることなのか?」
「あんた知らないのか。ほら、こんな場所に来るのは低級のやつらばかりだろう? 頭が悪い上に、喧嘩早いやつばかりなんだよ。こんなことしょっちゅあるさ」
「あいつらは強いのか?」
「いや、見た感じじゃそうでもねえな。なぁ、どっちが勝つか賭けねえか」
バックルはあたりを素早く観察する。誰もがあの化け物達の喧嘩に注目していて、やじが飛び交っている。老夫婦はあきらめたように、そっと奥へと引っ込んだ。
ちらりと二階へ続くだろう戸を見て、バックルは判断に迷う。
(今なら、リスクは大きいがターゲットに接近できるかもしれない。ただこの中で動くのは、へたに目立つ可能性もある)
しばらく逡巡した後バックルは動くのをやめた。今動くのは危険だと判断したからだ。ここには観察しに来ているのだと自分に言い聞かせ、はやる気持ちを抑えた。
とりあえず酒瓶に手をのばし、慌てて引っ込める。毛むくじゃらな手はゆらめき、本来の手がちらりと見えた気がした。驚いて、引っ込めた手をじっと見つめる。すると、しばらくして、一瞬、かすかに、ゆらめいたのが分かった。とっさに胸元に触れ、硬い感触がするのを確かめる。男から微妙に体をずらすと、取り出した小瓶の中身をふきかけた。
しかし、じっと見ていると、三度目の揺らめきが起こった。前よりもずっと薄くなっている気がする。
(どうして効かない! このままじゃ幻覚が解けてしまう!)
焦りで、冷や汗が出てくる。
「おい、どうしたんだ? もう酒いらないなら飲んでいいか?」
そういって、手を伸ばす男の手から、酒瓶を引き寄せた。
「なんでもないさ。ただ騒がしさにうんざりしただけだ」
内心ドキッとしたが、バックルは何事もなかったように酒に口をつける。飲んだところでなんの味も、刺激も感じない。ただ、頭の中がグルグルと回り、昨夜のカエルの顔が頭をよぎる。ちらっと見えた足もわずかにゆらめいた気がした。恐怖で震えそうなのをなんとか抑える。
無意識に手をさすると、手首に硬くて、ひんやりとした感触を感じ、ハッとする。そうだ、あいつは、ネイガーは今もこうして聞いているのだ。体が一気に冷えていくのが分かった。
ひとつ、息を吸うとバックルは酒を蛇男に差し出す。代わりに空になった蛇男の酒瓶をもらった。
「えっ、いいのか! おい、どこいくんだよ。参戦するなら応援してやるぜ?」
バックルは、蛇男の言葉を無視し、激しく盛り上がる店内をできるだけ目立たないように移動する。誰もバックルを特に気にすることなく、無事カウンターにたどり着いた。奥をのぞくと思っていた通り、老夫婦はいなかった。やっぱりだ。この乱闘が毎度のことなら、カウンターの奥よりももっと安全な二階へ行くだろうと思ったのだが、当たりだったらしい。前払いなのもこのためだろう。もしもいたとき、酒の追加注文だと思わせるため、空にしておいた酒瓶を置いておき、裏口からそっと店を出る。このほうが、乱闘の中心に行って、外へ出るよりもましだろう。化け物に絡まれたら、力負けしてそこで終わりだ。