七 『また、後で』
『緊急避難命令! 緊急避難命令! 町民は皆、陽陰学園生徒会と《十八名家》の指示に従って地下に避難せよっ!』
一時間ほどが経過しても、その声が止むことはなかった。イヌマルは眼下の道路を歩く不安そうな一行を一瞥し、同じく屋根に上っていた猿秋とステラに近づく妖怪から切り殺していく。
「イヌマル! それは駄目だ!」
刹那に猿秋の怒声が響いた。何事かと屋根の上を見上げた彼らが見えるのは、猿秋とステラだけ。辺りを闊歩する数多の妖怪の姿でさえ彼らの両の目は捉えることができない。それでも、何かが起きていることはわかるから──不安そうな顔を止めず、《十八名家》の誰かの指示に従っていた。
「俺たちじゃない! お前が今、本当に守らなければならないものは──」
その言葉の本当の意味を知った時、心臓が握り締められるほどの痛みを訴える。
イヌマルは、式神は、主である陰陽師を守る為に生まれてきた。なのに、今回に限って守らなければならないものは、無力な一般市民なのだ。
「俺たちを守るんじゃなくて彼らを守れ! 俺たちは、ついていくから!」
それを初めて思い知った。もしかしたら今まで勘違いをしていただけで最初からそうだったのかもしれない。
「しょっ、承知……致しました」
動揺を隠せなかった。それでも、妖怪は無尽蔵に溢れ出してくる。立ち止まっている暇はない。イヌマルは眼下の彼らを守る為に、再び自らの刃を振るった。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前ッ!」
そんなイヌマルに合わせて猿秋が九字を切る。
瘴気を撒き散らしながら消滅した妖怪だったが、その瘴気は消えることなく辺りに留まり続けていた。
「ありがとうッ!」
見えるのだろうか。中に紛れて指示を出していた《十八名家》と思われる人たちが、泣きそうになりながらも口々に声を上げる。
「こいつらは俺たちに任せてください! 必ず……守りますから!」
猿秋のその声が、言葉が、イヌマルの心を突き動かし続けていた。
「猿秋ッ! ステラッ!」
遠くの方から聞こえてきたその声は、京子のもので。キジマルに抱き抱えられながら屋根の上を駆けてきた京子は、無傷だった。
「良かった、無事で……! 無事で……ッ!」
「ね、姉さん? どうして急に泣いたりなんか…………あ」
「私は大丈夫です、猿秋様。そうではなく」
「まさか」
猿秋の表情が初めて歪む。背中の切り傷から血を流していたキジマルを険しい表情で眺めていたイヌマルは、猿秋の〝まさか〟の意味に気づけなかった。
「……森の近くで、遺体を見つけたよ。多分、本庄さん家の人だったと思う」
「ッ」
「他にも何人か見かけたんだ……。どれも、陰陽師の人たちだったよ」
「……まだ、一般人らしき人のものは見かけてないんだね?」
「あぁ。それは、まだ見てない」
「なら、まだ……救いがあるよ」
「だとしても、遺族のことを思うと遣り切れない……猿秋、ステラ、イヌマルも。本当に無事で……」
「けど姉さん。まだ百鬼夜行は終わってない」
猿秋の言葉は姉の京子の心さえも突き動かす。それくらい力強く吐かれた言葉には命が宿っていた。
視線を巡らせるだけでも、数多の妖怪の姿が見える。同じく屋根に上っている陰陽師も。空へと飛ぶ式神も。立ち止まって再会を喜んでいるのは自分たち家族だけだった。
「戦わないと」
その意志の強さを示す瞳に映った京子は、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
「気持ちはわかるけど、もう少しだけ待ってくれないかい。あたしたちには情報がない、このまま闇雲に戦うのは危険だ」
「立ち止まったら情報が得られる? 動かないと。じゃないと俺は、後悔しそうだ……」
「行くって言うんだね。なら、何も言わないよ。イヌマル、猿秋を任せたよ」
「はい、京子様」
そんな猿秋に負けないように、イヌマルは頷く。信頼してもらえることが何よりも嬉しい。その期待に応える為に背筋を伸ばす。
「ステラ、あんたは避難しな。あの人たちについて行ったら助かるから」
「いや」
「嫌って……あんたは話を聞いてたのかい?! 人が何人も死んでるんだよ?!」
「俺も逃げた方がいいと思う。ステラ、お願いだから行ってくれ。心配しなくても必ず戻るから」
京子だけでなく、猿秋もそう告げた。キジマルもそれが正しいとでも言うような態度だった。
「いや! サルアキとキョウコを置いて逃げるなんて絶対いやッ!」
それがステラの心からの叫びだということをこの場にいる全員が理解していても、猿秋と京子は絶対に頷かない。ステラはイヌマルの袖を握り締め、唇を噛んだ。
「主、置いてくなんてできません」
そんなステラを守ってしまう。猿秋は、京子は、そしてキジマルは目を見開いてイヌマルの意見に耳を疑った。
「どうして? イヌマル」
「離れ離れになった方が危険です。あの人たちが避難するまで無事という保証はどこにもない、途中で襲われるかもしれないんですよ?」
実際、途中で襲われかけていたからイヌマルが助けた。見ただけだが、あの一行の中に戦えそうな人間はいない。ますます離れたくないと思う。
「サルアキ、お願い。わたしは絶対に死なないから。自分の身は自分で守るから。だから、一緒に行かせて」
袖を握っていた手を離させて、イヌマルは彼女の手を繋ぐ。
「行きましょう。主。戦いましょう」
温かくて、小さな手だった。
「…………わかった。確かに、その方が安全だ」
「いいのかい? 猿秋」
「仕方ないよ、姉さん。ステラも……イヌマルも、すっごく頑固なんだから」
「わけがわからないよ。けど、ステラ。イヌマル。そう言うからには必ず生き残らないと──承知しないからね」
潤む彼女の瞳を初めて見た。イヌマルはステラの手を握り直して強く頷き、ステラはイヌマルを見上げて喉を鳴らす。
「じゃあ、あたしたちはもう行くよ。森の方は危険だからなるべくここから離れないように」
「ん。わかった」
「避難する人たちを守るんだよ? そして、必ず、みんなで会おう」
「そうだ、父さんと母さんは? どこかで見た?」
「いや、そっちはまだ見てない。多分職場の方にいると思うからあたしはそっちに行ってみる」
「わかった。見つけたら連絡して」
「もちろん。また、後で」
「またね、姉さん」
そんなやり取りがある隣で、イヌマルはまたキジマルを見ていた。状況が状況だからか妙に口数が少ないキジマルは、心配するなとでも言いたげに鼻を鳴らす。
自分はイヌマルよりも先輩だ。この程度の傷どうってことない。必ず生きて帰ってくる。そんなキジマルの感情を読み取ったから、イヌマルは何も言わないことにした。
キジマルは確かに先輩だが、同時にかけがえのない戦友でもある。そして、家族だ。だから信じて送り出す。
京子を抱き抱えて再び屋根の上を駆けるキジマルは、上手いこと妖怪を避けて職場が集まるオフィス街へと消えていった。
「ステラ、イヌマル。覚悟はもうできてるんだね?」
そんな彼らを最後まで見送ることを許さずに、猿秋が静かに問いかける。
「うん」
「はい」
それだけしか返せなかったが、猿秋は「わかったよ」と諦めたように声を漏らした。
「行こう。これからきっと、もっと増えるだろうから」
増えては消して、増えては消して。終わりが見えないと思っただけでも絶望してしまいそうになるが、イヌマルにはステラがいる。猿秋もついている。だから折れなかった。
「あっちだ」
視界に入る妖怪たちは視界に入る陰陽師と式神に任せても大丈夫だろう。そう判断したのか少し離れた場所を指差す猿秋の指示に従う。
「サルアキ、でも、あっちの方がいっぱいいるよ」
「そっちは町役場だからね。大丈夫、町役場も地下に通じているから、役場の人に任せよう」
「でも、あっちの方がいっぱいいる。サルアキ、いっぱい倒さないと百鬼夜行は終わらないんじゃないの?」
「そうだよ。けど、今は避難が最優先だから」
ステラはそう言われて納得したようだった。だからイヌマルはステラを背負い、猿秋を抱え、猿秋が指差した方へと向かう。
妖怪を倒すことよりも、今は人の避難を。そんな意識が抜け落ちていたから、ステラと同じように納得したイヌマルは素早く駆けた。
既に人が亡くなっているのだから、何よりも命を大切にしないといけない。理解した途端にますます二人のことを守りたいと思う。
住宅地の屋根と屋根の間を飛び、妖怪を探すことよりも人を探すことに意識を向けた刹那──道路にいた奴らと、目が合った。
「ッ!」
着地した瞬間に二人を下ろす。立ち止まったのは、その先に、避難する人々の列があったからだった。
「行きます!」
「行って!」
猿秋と声が重なった。返答を聞くまでもなく飛び出したイヌマルは、瞬間に抜刀させた大太刀を瘴気を撒き散らす妖怪に向かって突き立てる。
それだけで救えたらどれほど楽だっただろうと考えた。
猿秋の九字で消え行く妖怪を一瞥することもなく、人々の列へと既に向かっている妖怪の後を追いかける。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前ッ!」
瞬間に主ではない人の声がした。だが、彼は確かに陰陽師だった。
「ヤクモ、上!」
主の命令を聞いてから動く式神は女型の式神で、細長い薙刀を肩から離し振り回す。そんな彼女の美しい捌き方に息を飲んだ。
「手伝います!」
きっと、近くに別の式神がいることを気配で察していたのだろう。すべてを倒すことはせず、少しだけ残した奴らから落下で離れてイヌマルが飛ぶ様を彼女は眺める。
「おっ、大太刀ッ?!」
瞬間に刀を見て声を上げた。
「──ッ!」
そんな彼女を気にかける余裕もなく、空を漂う妖怪に向かって斬撃を飛ばす。
「斬撃?!」
彼女の主も声を上げた。
空を漂う妖怪を仕留め切ったイヌマルは、そんな二人の反応を気にする余裕もなく道路に着地して二人を探す。猿秋は、ステラと共に変わらず屋根の上にいた。二人は無事で、九字を切ったのは女型の式神の主だった。
「イヌマル! 今からそっち行くから下ろして!」
「来なくても大丈夫ですから! 二人はそこで待っててください!」
「そういう問題じゃなくて! 俺も戦わないと意味ないでしょ?!」
「大丈夫です! 俺、多分強いらしいんで!」
そういうことじゃないと猿秋が叫んだような気がした。だが、イヌマルは──二人がそこにいてくれたら必ず守れると思っていた。