四 『城内へ』
「エヴァ!」
名前を呼ぶ。イヌマルの姿を他の住人たちが視界に入れることは当然なかったが、エヴァと戦っていた少女は違っていた。
「────」
少女はまっすぐな視線でイヌマルのことを見つめている。
緑色の双眸と、煤竹色の髪と、真っ白な肌。整っている顔立ちと、中学生くらいに見える年齢と、クラシカルメイド服。何もかも先ほど出逢った少女と酷似していたが、イヌマルはその何もかもが酷似している少女が複数人いることを知っている。
目の前にいる少女は自分が最初に逢った少女なのだろうか。それとも、後から駆けつけてきた少女なのだろうか。
前者と後者の違いは殺意だけ。前者ならば手加減をしても勝てそうだが、後者ならば本気を出さなければ勝てそうにない──。
それ以上考える余裕がないまま少女の蹴りが飛んできた。イヌマルは慌てて腕でそれを防ぎ、素早さに戦く。
「イヌマルッ!」
牙を剥いたエヴァが少女を引っ掻こうとするが、少女の皮膚は裂けなかった。
「があるるっ?!」
エヴァが驚くのも無理はない。人狼のエヴァの爪の威力は凄まじいのだ。今まで破壊されなかった物が一つもないように、血が流れなかった者も──一人もいないのだ。
だからと言って、エヴァのもう一つの武器である牙は使えない。使ったら最後、少女は人狼になってしまう。
「エヴァ下がれ!」
エヴァは決して弱くはなかった。イヌマルと同じように、ほとんどの亜人をたった一人で追い詰めることができる実力の持ち主だった。そして、彼女が本気を出せば命を奪うことだって──。
「死になさい」
二度目の蹴りがイヌマルに襲いかかってきた。腰に下げている大太刀を抜けば少女に大怪我を負わせることができるだろうが、イヌマルはまだ、少女とまともに会話をしていない。
「待ってくれ! 侵入したことなら謝るから! だから攻撃するのは──おうわぁっ?!」
「死になさい」
「なんで会話が成立しないんだよぉおぉお!」
「イヌマル! ゴーゴー!」
どういう攻撃の仕方をしているのか、休む間もなく繰り出される少女の蹴りがイヌマルの全身を痛めつけた。
エヴァがイヌマルを応援しているように、住人が少女を応援している。そんな異様な空間に、この流れを変えることができる者はいない。イヌマル自身の力で少女を止めるには、やはり抜刀して少女を斬らなければならないのだろう。
そんなことはしたくなかった。したくなかったから、イヌマルは峰打ちをした。
「──ッ?!」
目を見開いた少女の動きが止まる。そして、何事もなかったかのように再び拳を振り上げる。
「なぬぁあ!」
イヌマルが本能で感じた通りだった。少女や少年は、異様に防御力が高い。人間離れした頑丈な体は峰打ちがなかったかのように振る舞っている。
「クソッ!」
ならば、もっと人間の弱点となる部分に攻撃を当てなければならない。それでも止まらないならば、その時は──斬らなければならない。
「イヌマル! ファイトー!」
エヴァや、グリゴレや、レオに、噛ませるわけにはいかないから。
決意を固めたイヌマルは、流れるように数々の人間の弱点を狙った。鳩尾、顳顬、顎、脇、すべてに打撃を与え続ける。
人間だけではない。それは、亜人である吸血鬼にも人狼にも効く弱点だ。それでも、少女は止まらなかった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
イヌマルの方が蓄積されたダメージと疲労で倒れてしまいそうだ。グリゴレとレオもまだ少年を倒せていないようで、二階から物が壊れる音がずっと聞こえていた。
「どうして手こずってるのかしらァ、ニコラ」
知らない声に水を浴びせられたようだった。イヌマルが動きを止めることはなかったが、ニコラと呼ばれた少女の動きが完全に止まる。
「謝罪しなさい、ハーパー。私は相手が強者だと聞かされていない」
「相手が強者かどうかなんて知らないわよォ。最初に見つけたのはニコラとニコラスでしょォ?」
「私じゃない。それはナンバーフィフティツー」
「見分けがつかないんだからナンバーがいくつかなんて知らないわァ」
ニコラが英語で話している相手は、宿とは反対側にある建物の──屋根に座っている女性だった。ニコラやニコラスよりも十歳ほど年上だろうか。緑色のケルティックドレス姿が美しすぎて食い入るように見てしまうが、彼女は何故、昔の人々が着ている服を当たり前のように着ているのだろう。着物を着ているイヌマルは人のことが言えないかもしれないが、ケルティックドレスの影響か、ハーパーと呼ばれた女性からはただならぬ雰囲気が滲み出ていた。
その顔立ちも、髪と目の色も、ニコラやニコラスとは大きく異なっている。漆黒の長髪は一つに綺麗に纏められており、同じく漆黒の双眸はニコラを徹底的に見下している。何故そんな表情ができるのだと思うくらいに、ニコラはハーパーに人間扱いされていなかった。亜人扱いも、されていないように見えた。
「ニコラ、どうしても殺せないなら城に連行すればいいわァ」
ハーパーは歓喜に沸く住人たちに手を振って、屋根の上を歩きながら城の方へと向かっていく。その動きがあまりにも優雅で、必死になって戦っているイヌマルの心の色と比べるとあまりにもかけ離れていて、イヌマルの動きも完全に止まる。
「なんで……」
意味がわからなかった。彼ら城の住人が事件の犯人でなかったとしても、古城の亜人たちを殺そうとしているのは事実なのに。イヌマルたちにとっては酷くて悪い人なのに、ハーパーは悪いことをしているという自覚がない足取りだった。
「イヌマル! 城行く?! 城行こう!」
エヴァは、ハーパーが言葉の裏に隠した未来に気づいていない。
「馬鹿! 死ぬのがオチだろ!」
そんな鈍感なエヴァを死から遠ざけるのが、自分の役目の一つだと思っていた。
イヌマルがステラや花並にエヴァに対して過保護になってしまうのは、エヴァに負い目があるからだろう。ステラと花を平等に守り続けると決めているイヌマルにとって、エヴァ一人が増えたところで一切負担にはなっていない。
「いいじゃん! 楽しそうじゃん! 行こうよ行こうよ絶対行こうよ〜!」
「何も良くない絶対行かない!」
だが、ステラと花とは違いエヴァはどこまでも無邪気で鈍感で無神経で暴れん坊で──イヌマルはエヴァに出逢ってから心労が絶えなかった。
「イヌマルッ!」
「あっ、グリゴレ!」
「城の方が! 楽!」
「えっ……?」
急に声をかけられたと思ったら、急に意味がわからないことを言われた。だが、考えてみたらそうだろう。太陽の心配がない広々とした城内の方が、グリゴレとレオは戦いやすい。
「何言っているんだ! 確かにそうなんだろうが、罠かもしれないんだぞ?! イヌマルとエヴァは他のところでいいだろう!」
誰からも狙われていないティアナは、少年やニコラの実力を正確に理解していない。レオとグリゴレが少年を倒せないのは真っ昼間だからだと思い、イヌマルとエヴァがニコラを倒せないのは住人に囲まれているからだと思っていた。
「罠だとしても行きますよ!」
「何故だ! グリゴレらしくない!」
「血の匂いがするんです!」
「ッ」
グリゴレの鼻は、人狼のエヴァと同じくらいに良い。そして、グリゴレの鼻が〝外した〟ことは出逢ってから一度もない。
「行かなきゃ何も終わらないんですよ!」
グリゴレが言いたいことはわかる。罠だろうとそうでなかろうと、行かなければならない場所ならば行くべきだ。
「連行されなさい」
ニコラもイヌマルとエヴァを連行する気満々だった。気づけば十人ほどのニコラに囲まれており、住人たちが周囲にいる以上過剰な抵抗はできないと悟る。
「イヌマル! 大丈夫だよ!」
「大丈夫って、何が」
エヴァはいつも根拠のないことばかり言う。嘘だって言う。エヴァの話をすべて信じる人間は馬鹿だ、そう思うほどに。
「わたしたち二人は最強〜! 誰にも負けたことないからね!」
ピースサインを見せるエヴァは状況を正確に理解していない。エヴァも馬鹿なのだ。そんなエヴァがわざとそういう風に振る舞っていると言うのなら──イヌマルはエヴァの馬鹿さに報いたい。
大丈夫だと励ましてくれるエヴァに、大丈夫だったという結果を与えてあげたかった。
「……そうだな。行こう」
エヴァは眩しい。ステラがイヌマルの命で、花がイヌマルの心ならば、エヴァはイヌマルの光だ。
ニコラたちに詰め寄られても焦りはなかった。恐れを知らないような表情で抵抗しない意思を示すエヴァの隣に立つ。住人がいない城内の方が戦いやすいであろうエヴァに今日も、イヌマルは流されていた。




