三 『違和感』
イヌマルの話を聞いたグリゴレは、自らの顎に指で触れて思考する。掟を守り続けてきたグリゴレの経験から出る話を、イヌマルを含めた全員が期待していたが──
「それだけの情報だとまだなんとも言えませんが……」
──グリゴレは、イヌマルが期待していた亜人の答えを出すことができなかった。
「名探偵のくせになんでわからないんだよ」
唇を尖らせて文句を言う。イヌマルとグリゴレは軽口を叩き合える唯一の仲だが、グリゴレは明らかに不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「貴方がたいした情報も得ずに戻ってきたせいなのですが? ぶっ飛ばされたいんですか?」
「殺されろと?!」
信じられなくて後退る。式神は不死身ではないのに、グリゴレは何故そのような酷いことを言うのだろう。
「貴方が殺されるほどの相手だったのですか?」
わざとらしく驚くグリゴレに「そうだよ!」と返し、相手の人数をもう一度伝える。
「イヌマルは人数が多いと勝てないのか?」
「それは人数関係ないティアナだからそんなことが言えるんだよ!」
「イヌマルが逃げるほどの相手なんだから、みんなも一人だったら負けちゃうよ」
「そうそう! 主そうだよ! そう……だけど…………あれ?」
イヌマルが全力で逃げるほどの攻撃力が彼女たちにあったわけではない。イヌマルが強いと感じたのは、彼女たちの防御力だ。人間よりも体が頑丈な、あまりにも多すぎる亜人を前にして戦おうとする気がイヌマルにはなく──ステラのその言い方は誤解を生むと感じる。そんな説明をしたのはイヌマル自身だが。
「まぁ、一人になるのは危険だろうな。何人かで固まって行動した方がいいだろう」
「そうだな。イヌマルを殺そうとしたのはイヌマルが侵入者だったからかもしれないが」
「その線は否定できない」
「断言できるのは、イヌマルがバカをしたせいでイヌマルだけが戦力外になったということですね」
グリゴレのその言葉も否定できなかった。イヌマルはぐっと言葉を飲み込んでグリゴレのことを見上げていたが、グリゴレはイヌマルの視線に気づかない振りをして窓の外へと視線を移す。
「さて。イヌマルが会った亜人は何者なんでしょうかねぇ。実物を見ても断言できないのは、これが初めてかもしれません」
「……じ、実物?」
「そこにいますよ。緑色の双眸と、煤竹色の髪と、真っ白な肌。耳や歯が尖っているわけでも、爪が鼻が異様に伸びているわけでもない執事服とメイド服を着た少年少女が」
「え?! 見たい見たい! あー! ほんとだ!」
驚く間もなくはしゃいだエヴァのせいで部屋の中の緊張感が薄れていく。だが、グリゴレのその表情は決して緊張感を緩めていいものではない。
「殺意、私にも向けられていますね」
「え、そうなの? イヌマルじゃなくて?」
「あ。エヴァにも向けられましたね。ティアナ、レオ、ステラ、花、そこにいなさい」
「ッ、わ……わかった」
グリゴレとエヴァの元へと駆け寄ろうとしたレオは衝動をぐっと堪え、ティアナはそんなレオの腕を素早く掴む。
「私たちはまだそいつらから殺意を向けられていないんだな?」
「えぇ。エヴァを視界に入れた瞬間にターゲットに入れているので、貴方たちはまだ平気ですね」
レオとティアナは安堵しない。グリゴレとエヴァがターゲットになっている時点で他人事ではないのだ。
「俺は?」
二人がターゲットならばと一縷の望みを抱いて尋ねてみるが、「諦めてください」と言い放ったグリゴレの声色は冷たかった。
「言い方!」
「他になんと言えと? 貴方がバカをしたせいなのに」
しくじることが滅多にないグリゴレにそう言われると返す言葉がない。イヌマルはまた言葉を飲み込んで、大人しく唇を噛む。
「でも、なんでグリゴレとエヴァが? イヌマルの仲間って思われてるから?」
花の疑問はもっともだろう。グリゴレとエヴァはそこにいただけであって、彼らに何かをしたわけではない。
「現状、理由はそれしかありませんよね」
段々と肩身が狭くなってきた。慎重に行動していたはずなのに、何故こんなことになってしまったのだろう。
「そうまでして侵入者を殺したいの?」
「侵入されたら不味いものが中に眠っていたのかもしれませんよ」
「いや、単純に犯罪だからじゃないかな……」
「お。少年の方が動きました。イヌマル、止めなさい」
拒むことはしなかった。イヌマルはすぐ傍の扉を開けて廊下に出て、足音を響かせながら階段を上がる少年を待つ。
「エヴァは外へ」
「はーい!」
少女の相手になるのは殺意を向けられているグリゴレとエヴァの二択だったが、グリゴレは迷うことなくエヴァを戦場に送り込んだ。何も疑問に思わず元気よく窓を割って落ちていったエヴァはある意味無敵だ。無敵過ぎて加減がわからず、時々大怪我を負って帰ってくることがあるが、太陽を苦手としているグリゴレが戦力外なのは確かで。部屋の中央で身を寄せ合ったティアナとレオとステラと花は、息を殺して戦闘が始まるその瞬間を待つ。
「あっ」
少年の髪の色が見えた。大太刀を腰に出現させていつでも抜刀できるようにするが、このまま戦闘に入っていいのだろうか。イヌマルがしくじったせいで起きてしまった諍いならば、誤解を解いただけで終わる戦いならば──このまま戦闘に入るのは間違っている。
「見つけたぞ、〝亜人〟」
少年の緑色の瞳がイヌマルを捉えた。その声は先ほどよりも低く、鋭く、イヌマルのことを軽蔑しており──思わずぶるりと身が震える。
「殺す」
この瞬間も、少年は同じことしか言わなかった。イヌマルはすぐさま抜刀し、飛んできた少年の蹴りを峰で受け止める。
エヴァの遠吠えが町に響いた。ここだけではなく向こうも始まってしまったらしい。
「ストップ! ストップストップストーップ! 勝手に部屋に入ったことなら謝るから! ごめん! だから許して!」
「許されるわけねぇだろ!」
「気持ちはわかるけど! 少なくともグリゴレやエヴァは関係な……おうわぁっ?!」
「イヌマルッ?!」
ステラの叫びが聞こえる。自分は大丈夫だ、そう言おうとしたが少年がステラの存在に気づいてしまう。
「主ッ!」
少年が繰り出し続けた蹴りは受け止められるものだったが、生身のステラが受けたら即死だ。そう思うほどに素早く重い。結界があっても大丈夫だと断言できないくらいに──この少年は、強い。
だが、駆け出した少年が蹴り殺そうとしたのはレオだった。レオはすぐに腕で防ぐが、見開いた双眸からレオにとってもある程度のダメージが入ったのだと想像することができる。
「レオ! 下がれ!」
大人しく下がったレオは、そう命じたティアナにすべてを託した。だが、少年はティアナの方を──その上ステラや花の方も見ないまま、レオに執着した攻撃を続ける。
「お前が倒したいのは俺じゃないのかよ!」
叫んだイヌマルの方も、何故か見なかった。
事態に気づいたグリゴレがレオのフォローに入ろうとするが、少年はグリゴレの方に狙いを変える。
「えっ?!」
「イヌマル! 下へ! エヴァが劣勢です!」
何故グリゴレの方は見るのか──。そう考える暇もないまま、イヌマルはエヴァが割った窓から外に飛び出した。
眼下には腕から血を流すエヴァがおり、近隣住民が騒いでいる。だが、どこか様子がおかしい。突然始まった殺し合いに怯えているわけではないようで──それどころか、エヴァを殺そうとしている少女を応援しているようで。狼の耳と尻尾を生やした半獣姿のエヴァを全員で罵倒していて、一年前の事件を思い出す。
この町はなんなのだろう。拭い切れない違和感が体中を駆け巡った。
エヴァが悪者にされているのは、わかる。だが、間違いなく亜人と言える少年少女を応援する気持ちがわからなかったのだ。
思えば、この町の人間は誰一人として不安そうな表情を見せなかった。イヌマルたちが今まで関わってきた人間たちから滲み出ていた恐怖は──欠片もなかった。




