六 『その日』
「今日もちょっと瘴気が濃いね」
黄昏時になって、縁側から空を見上げた猿秋が考え込むようにそう言った。猿秋がそう言い始めて一週間ほどが経過したが、イヌマルの目から見たら微々たる変化だと思う。
「確かに濃いけど、気にするようなほどかい?」
同じく縁側から顔を出した京子もイヌマルと同じ意見だった。
「気にするよ。今までほとんど変わってなかったものなんだし」
「……まぁ、確かにそう言われたらそうかもしれないけどね」
「しかし、上から何も来てませんよ?」
「そう言われたらそうでもあるけどね」
キジマルは主である京子を見上げ、「どうしたんですか主は……」と声をかけた。
「手持ちの情報だけじゃなんとも言えないからね。状況を見たら猿秋の言う通りだけど、この状況で上が黙っているのはおかしい。何もないと思うし、何かあるとも思う。軽率に言えないのは上も同じかもしれないね」
「なるほど?」
「貴方は本当にわかっているんですか?」
「わっ、わかってるって!」
仲間外れにされたくなくて口を挟んだが、キジマルの視線が痛くて黙る。新人が軽率に口を挟むようなことじゃなかった。わからないならわからないままで聞いていた方が良いのだろう。
「一度町役場に行って相談した方がいいかもね」
「……猿秋がそこまでする必要があるのかい?」
「ないと思う。俺はただの陰陽師だし、意見を聞いてくれるとは思わない。けど、イヌマルなら」
「えっ?!」
「イヌマルなら話を聞いてくれるかもしれない」
「ちょちょちょちょっ、主?! なんで?! なんでそんなことするんですか?! 主も俺も町役場嫌いじゃないですか! 行けないですよ! 嫌ですよ!」
「俺も嫌だけどこのまま何もしないのも嫌なんだ。父さんも母さんも、姉さんもたいしたことないって言ってるけど、俺はそうだとは思わない。ずっと様子見していたけど、これ以上無視することはできないんだ」
「主……」
それは正義感なのだろうか。世の為人の為に動ける心優しい猿秋が主で良かったと思っているが、同時にそんな猿秋が主でおそろしいと思う。
簡単に命を投げ出してしまいそうで怖いのだ。自分の為に生きてほしいと思うから、猿秋がそう思うまで、そう思ってからも守り続けていかなければと思った。
「……わかりました」
だから頷いた。守る為には傍にいなければいけないと思うから、京子とキジマルと別れて猿秋と共に町役場へと歩き出す。
妖怪は、その道中にも溢れ出していた。顔を顰めた猿秋が今何を思っているのかがわからなくて、イヌマルは何も言わないまま妖怪の元へと駆け出していく。
「あっイヌマルッ!」
制止する猿秋の声で足を止めた。妖怪はイヌマルに気づいており、今から逃げてもつけ回されることは確実だ。
「主! 指示を!」
何も聞かずに飛び出したことを後悔し、何か考えがあるように見える猿秋から指示を仰ぐ。
「逃げろ!」
猿秋は、多分、何も考えていなかった。考えがあったのではなく危険を察知していただけなのだ。
「逃げろって……」
「そいつは危険だ! いや、ちがっ……」
猿秋の考えていることが何一つわからなかった。
「……この町全体が危険なんだ!」
言っていることもわからなかった。猿秋は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
式神と陰陽師は一心同体であるはずなのに、まったく意思の疎通ができない。どうして自分と猿秋の心の距離が遠いのだろう。
「──ッ!」
結界を張って時間を稼ぎ、妖怪がいない方へと走る猿秋の後を追いかける。だが、逃げた道路の先にも。路地裏にも。空にも、まばらではあるが妖怪がいた。
「な、なんだこの数……主、これは一体……?」
「わからない。こんなの初めてだ」
「じゃあ、やっぱり町役場に行きましょう!」
「そうしたいのは山々だけど、見て。妖怪は町役場の方に向かってる。俺たちが行くのは危険かもしれない」
「それってつまり、町役場が一番危ないってことになりませんか?! あの人たちは……千秋様とビシャモンは?!」
「危険が迫っているんだろうけど、あのお方は強い。町役場には結界も張ってあるし、まだ大丈夫だと思う。それよりも、ステラだ」
「え?」
「ステラが、いや、姉さんも父さんも母さんも、この町のみんなが──危ない」
瞬間、茜色の空が毒々しい赤へと変貌を遂げる。綺麗だと思っていた茜色とは大きく異なる、人々を不安にさせるような禍々しさが溢れ出す。
どす黒い瘴気が一気に範囲を広げていった。世界の終わりなのではないかと思うくらい視界が悪くなり、息苦しくなり、どこからともなく現れた妖怪が次々と道を塞いでいく。
「イヌマル、逃げるのは無理だ! 突破するよ!」
「しょっ、承知致しました!」
「とりあえずステラの学校を目指す! もしかしたらもう通学路にいるかもしれない!」
「なっ?!」
それは駄目だ。妖怪が見えない子供たちへの影響はまだないだろうが、妖怪が見える子供たちへの影響はきっとすぐに現れる。妖怪は、見える相手を好むのだ。見えるからこそ陰陽師としての素質があると認められたステラは、まだ、式神も持っていないひよっ子なのだから。
「守りましょう! 主!」
守らなければと、強く思った。猿秋が示した道にいた妖怪を一撃で倒すほどに、ステラを守らなければと強く思った。
「イヌマル……! お前って奴はやっぱり凄いな……!」
感嘆の声を上げる猿秋の目に手にした大太刀の刀身を見せ、九字を切りながらついてくる猿秋の道をこじ開ける。
「──はぁッ!」
殴るように何度も何度も。二十メートル間隔で姿を現した妖怪が束になって襲いかかってきても、斬撃を飛ばすだけで片がつく。
だが、そんなことができる式神はこの町に一体何人いるのだろう。普段の何十倍もの妖怪が黄昏時に闊歩している様は、生まれて二週間ほどしか経っていないイヌマルから見ても異様なもので。ずっとこの町で生きていた猿秋は、混乱しないように必死に頭を働かせていた。
「主! 京子様はどうしますか?!」
「姉さんにはキジマルがついてる! 多分、向こうの方が俺たちのことを心配してるよ!」
それはきっと、イヌマルが生まれたばかりだからだろう。たった二週間ほどでもここまで力をつけることができたが、経験が圧倒的に足りていない。技術だって、力技でなんとか凌げているだけなのだ。
今までずっと面倒を見てくれていた二人が猿秋とイヌマルを心配するのも無理はないだろう。だが、守りたいと本気で思えたから、式神の本来の力が増していくのをイヌマルは肌で感じ取っていた。
「大丈夫ですよ、主」
不思議と落ち着いた声が出てきた。経験が少ない事実が生きたのか、イヌマルは多分、この町の誰よりもこの状況を異常だと思いすぎていない。
「俺が絶対、主をステラ様の元へ送り届けるんで!」
そう思えたらまた力が増していった。緊張していたせいで筋肉が固まっていたが、それも解れているような気がする。
「イヌマル……」
また駆け出す前に後ろを見た。猿秋は、目を細めて唇を噛み締め、いつもの穏やかな笑顔を作る。
「……頼んだよ」
その言葉が救いだった。
『緊急避難命令! 緊急避難命令!』
町中に点在するスピーカーから切羽詰まった少年の声が聞こえてくる。
『町民は皆、陽陰学園生徒会と《十八名家》の指示に従って地下に避難せよっ! これは……コード・ゼロ! コード・ゼロ!』
「コード……ゼロ?」
なんだそれは。わからないが、棒立ちしながら放送を聞いている暇もない。襲いかかってくる妖怪を大太刀で仕留め、驚愕の表情のまま棒立ちしている猿秋の隣に飛び下りた。
「主! コード・ゼロって?!」
「……──うだ」
「え? なんて?!」
「──百鬼夜行、だ……」
猿秋らしからぬ、絶望に満ちたその表情が。震えた声が。まったく動こうとしないその手足が。事の重大さをイヌマルに伝えている。
『俺たちが来るまで家で待機! 外にいる人たちは建物の中へ! 家の中にいる人は、その人たちを入れてあげて! 子供たちの下校時刻と被ってるから、その子たちはなるべく集団で入れてあげて! 頼む!』
そんな猿秋の瞳に光が宿った。
「ステラ……!」
そうだ。立ち止まるのはまだ早い。まだ、彼女を救えていないのだから。
「主! 百鬼夜行って?! 俺たちはどうすればいいんですか?! 避難?!」
「避難はしない! 俺たちは陰陽師と式神だ! 百鬼夜行を終わらせるまでこの地に残り、戦い、必ず勝利する! 百鬼夜行は、すべてを蹂躙する最悪の災いだということを覚えておけ!」
「しょっ、承知致しました!」
「行こう、イヌマル! ステラはきっと避難せずに戦うから!」
その通りなのだろう。出逢って間もないが猿秋の意見に同意する。
ステラも、猿秋と同じように世の為人の為に動ける心優しい人間なのだ。だから二倍おそろしくて、だからすぐさま道を切り開く。猿秋の指示を聞きながら、早く早くと。そして、イヌマルは次第に、ステラがどこにいるのか悟り始めていた。
「イヌマル?! そっちはちが……」
「大丈夫! こっちであってますから!」
「……ッ?!」
「ほら、そこにいますよ! 主ッ!」
毒々しい赤き空の下、数々の住宅に囲まれたアスファルトの道路にぽつんと一人で立つステラ。彼女はじっと屋根の上に居座る妖怪を見つめ、両手を強く握り締めた。
「ステラ様ッ!」
あのまま戦わせるわけにはいかない。まだ狙われているようには見えないが、攻撃したら、絶対に彼女は狙われる。
「ステラ!」
振り向いた彼女は、強ばらせていた表情を緩めた。今にも泣いてしまいそうで、だからイヌマルも泣いてしまいそうになる。
「まだ泣かない! ずっと前に聞かせたでしょ?! これはコード・ゼロ! 百鬼夜行だ!」
「サルアキ……! イヌマル……!」
「大丈夫ステラ様! 俺がステラ様を守るから!」
「あり、がと……」
彼女は泣くのを我慢した。泣く一歩手前なのだから泣いた方が楽になれるのに、猿秋の言うことに従ういい子だった。
そんないい子を殺させはしない。イヌマルは二人を背後に立たせる為に前に出て、アスファルトの道路を蹴った。狙うのは、屋根の上にいるあの妖怪と──この地を闊歩するすべての妖怪だった。