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深潭逆乱舞  作者: 朝日菜
第三章 星の旅立ち
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十八 『月だけが見ている』

「…………」


 手遅れではない。誰も手遅れではないはずだ。イヌマルは納刀して近くで倒れている少年に触れ、呼吸をしていないことを知る。隣にいる男性も。その隣の女性も。誰も呼吸していないことを知る。


 息が止まってしまうかと思った。守らなければならない人たちの亡骸を斬って斬って斬り続けたのに、それに意味はなかったと言われているようで吐き気がした。溢れ出してくる涙の止め方をイヌマルは一つも知らなかった。

 どうしようもない無力感に襲われる。ステラにどんな顔をして会えばいいのかわからない。クレアにも、グロリアにも、はなにも、猿秋さるあきにも──そして。


「エヴァ……」


 名前を呟いた。そうだ。エヴァだ。エヴァがまだここにいる。


「……エヴァ!」


 名前を呼んだ。この中でイヌマルの声を聞くことができるのはエヴァとギルバートだけで。その希望に縋って歩いていく。

 ギルバートがいる位置は覚えていた。ギルバートがいる位置にいる人々は、辛うじて意識があるようで。イヌマルはその中から灰色の狼と狼に背負われた黒髪の少年を見つける。


「────」


 良かった。二人はまだ、生きている。


「エヴァ! ギルバートを外へ!」


 イヌマルはギルバートの救出を急いだ。他の誰かではなく、何故ギルバートを真っ先に助けたのだろうと自分自身でも思ってしまった。エヴァはギルバートを乗せたまま出入口の方へと駆けていき、イヌマルが斬って退かせた亡骸の血の道を飛び越えていく。

 そんな風に、イヌマルも誰かを助けなければならなかった。だが、イヌマルの手は誰の手を掴んでもすり抜けていった。


「…………」


 彼らが立って、歩いてくれたら。彼らが支え合って、外に出てくれたら。

 そんなことを考えるが、誰一人としてそのような体力が残された者はいなかった。


 ここにずっといるわけにはいかない。ここにいても何もできない。


 イヌマルはゆっくりと、力なく出入口の方まで歩いていく。その間、エヴァが何往復もして人々を外に出していた。そのような体力があるのはエヴァだけだった。

 外に出て、夜空を見上げ、協会の前に倒れている村人と彼らを助けようとする村人を視界に入れる。彼らを手伝っていたのはクレアとグロリアだけだった。二人とも医療に精通しているわけではないが、何もできないというわけではない。指示を出し、動き、助けようと努力している。そんな風にイヌマルも動いていたかった。


 二人への羨望を飲み込んで、イヌマルは視線をさらに巡らせる。イヌマルにとってのすべてはステラで、ステラと同じくらいに大切に思っているのは花だ。その二人は村人の家の前に座り込んでおり、どこか具合が悪そうに見えた。


「主ッ! 花ッ!」


 慌てて声をかけて大切な二人の元へと走っていく。二人はずっと俯いていたが、イヌマルが来たとわかった瞬間に顔を上げた。


「イヌマル……!」


「一体何が……!」


「な、何も……何もない」


「そんなわけない!」


 現に、イヌマルは上手く動けないほどの無力感に苛まれている。こんなにも無力な気持ちになるのは自分自身を責めているからで──ステラもきっと、そう思っているからで。


「……違うの」


 涙を流しながら否定するステラの力になりたかった。


「違うって……だから何が……」


「わたしたちね、陰陽師おんみょうじの力を使ったの」


 答えたのは花だった。


「え?」


 花には陰陽師の──猿秋の血が入っているが、今の花の職業は祓魔師ふつましだ。陰陽師ではない。


「ステラに手伝ってって言われて、それで二人で水を出して……」


 二人の表情に疲労が見えた。二人は慣れない陰陽師の力を使って疲れてしまったということなのだろう。


「……そ、か」


 イヌマルも力が抜けてしまった。もう何もできることがないならば、こうして力を抜いて本当に何もできない状態になってしまった方が楽になれるような気がした。


「そっか……」


 煙を吸って具合が悪くなったという理由でなくて本当に良かった。もしそうだったら今以上にしんどい思いをしていただろう。


「……イヌマル、大丈夫?」


「……どうだろ」


 大丈夫だと答えることができなかった。大丈夫だと答えても、ステラにはすべて見透かされるから。


「……イヌマル、どうして、こんなことになっちゃったんだろ」


「……わからない」


 流れるようにそう言ったが、イヌマルには一つだけ心当たりがあった。

 倒れている村人たちの中にいる、ギルバート。彼を追い詰めてしまったことがすべての引き金だったのかもしれない。


 ギルバートを追い詰めたのは自分だったのか。

 それともエヴァだったのか。それとも。


「ティアナやジルに、なんて言えばいいのかな」


 また俯いた花は、古城に残してきた二人のことを考えていた。


「二人とも……悲しむかな」


 この村の結末は最悪なものだった。何人が亡くなったのかも何人が生き返ったのかもわからないが、誰も幸せになれない結末だということは確かだった。

 ティアナもジルも、この話を聞いて怒ることはないだろう。だが、悲しむことはあるだろう。二人には悲しんでほしくなかったが、例え全員で口を噤んでも魔女である二人の視界には絶対に入る。嘘を吐くことは絶対にできない。


「悲しむと思う」


 ステラはあからさまに落ち込んでそう答えた。ステラが落ち込むとイヌマルも落ち込んでしまう。二人はそういう風にできている。


「悲しませたく……なかったなぁ」


 涙を流して花が答えた。花がここに来た目的を思い出したイヌマルは、そんな花の気持ちに寄り添って「大丈夫だよ」と言いたかった。


 だが、何が大丈夫なのか。

 大丈夫なことなんて何もなかった。


 去年の事件と今回の事件。こんなにも結末が違うのは何故なのだろう。一体何が違うのだろう。

 今すぐにグリゴレとレオに会いたかった。二人の声が聞きたかった。二人の気持ちが知りたかった。二人とギルバートを会わせたかった。ギルバートを殺すのはその後でいい。そう思っているが、今この瞬間にギルバートの命が消えてしまうかもしれない。


 そんなのは嫌だと叫びたかった。


 本当に叫びたかったのは、ずっと村人のことを助けているエヴァの方だっただろう。エヴァのことを思うと、そしてノーラのことを思うと──叫ぶこともできなかった。

 空を見上げて、輝く丸い月を見つめる。今夜は冷たいくらいに綺麗な満月だった。その満月が消えかけた頃、そして太陽が昇った頃、ずっと動き回っていたエヴァが倒れる。協会の中に残されていたのはイヌマルが斬った亡骸のみで、エヴァはすべての村人を救出して、泥まみれの地面に倒れていた。


「エヴァ!」


 その頃には動けるようになっていたイヌマルは、クレアとグロリアの手伝いを止めてエヴァの元へと全力で駆ける。

 ステラも、花も、そしてクレアとグロリアも揃ってエヴァのことを囲んだ。


「エヴァ! エヴァ! 生きてるかエヴァ!」


 ギルバートだけでなく、エヴァにも死んでほしくなかった。ギルバート以上に死んでほしくなかったのがエヴァだった。

 エヴァは罪を犯していない。エヴァに非は一切ない。最初から最後まで善良な村人だったエヴァのことを、イヌマルもステラも愛していた。エヴァが笑って暮らせる世界が見たいと思っていたのに、こんなにも残酷なことはない。


「大丈夫……疲れて寝てるだけだよ」


 そう言ったクレアの言葉を信じたかった。


「……よ、良かった、なら、良かった……」


「も……いや……怖かったよ……」


 火事を知ってから夜が明けるまで、何人の村人が亡くなっただろう。医者はたった一人しかいないと聞かされたが、その医者も犠牲者の中で。クレアとグロリアがいなければ誰も助けることができなかっただろう。

 生き残った村人と、助けることができた村人は、人口の一割にも満たなかった。この村のほとんどの村人が煙と炎によって旅立ったのだ。


 その事実を受け入れなければならない。その事実を抱えてこれからも生きていく。


 だが、どうしても助けたかったギルバートが助かった事実は、忘れてはならないことだと思った。助かった村人の中に含まれているギルバートは、やはり人狼の子供だった。助からないと思われていたのに生還してしまったその生命力は、どう考えても人間のものではない。それは、どうしようもないくらいに亜人のものだった。

 エヴァが疲れて眠っているという結果で済んだのも、人狼故だろう。噛まれなければ、すべての村人を協会の中から出すことはできなかった。満月でなければ、すべての村人を協会の中から出すことはできなかった。


 その事実だけで、運命の神がすべてを見放しているわけではないと思うことができた。


「……さ、立とう。まだ終わってないよ」


 生と死の間をさまよっている村人の数は百を超えている。全員が立ち上がって、全員を助けようとまた動く。

 助ける為の機械はなかった。助ける為の道具もなかった。村は未だに高い壁に囲まれている。外部に助けを求めることを最初は試みようとしたが、銃口を視界に入れてしまったイヌマルは、外に出ようとするクレアとグロリアを泣きながら止めることしかできなかった。


 そんな世界を、うっすらと見える満月が見ている。

 そんな世界で、エヴァとノーラはどうやって生きればいいのだろう。


 そんな世界で、ギルバートはどんな風に生きれば良かったのだろう。


 今ならばわかる。ギルバートの気持ちも、事件を起こし続ける亜人たちの一部の気持ちも。こんな風に叫ばないと誰も気づいてくれないから叫び続ける彼らの気持ちが痛いくらいに理解できた。が、それ以上の痛みを抱えていることも理解していた。

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