十七 『黒と赤』
「ギルバート……」
もしもすべてが手遅れでなかったら、ギルバートがレオとグリゴレと同じようにあの古城で笑って暮らす世界が見たかった。もしもギルバートの罪が償って許される罪ならば、生きていてほしかった。
『言ったはずだ。手を出した奴らは殺された、全員その命で償ってる』
ギルバートはイヌマルの目の前でギルバート自身の母親を殺している。すべてのもしもは、絶対に叶うことのないもしもだった。
「…………ギルバート、せめて、あと少しだけ」
イヌマルは大太刀を出現させ、抜刀する。これで切れるのはギルバートで、人々で、建物だ。
「もう少しだけ、生きてくれ」
走ってここまで向かっているエヴァに、こんな別れを味合わせたくない。捕まって、駆けつけることができないノーラに──村の終わりは見せたくない。
イヌマルは辺りを走り回った。どこに行っても村人がいたが、誰とぶつかってもすり抜けていくイヌマルは村人を気にせずに走り回った。
どこに行っても。どこに行っても。人がいる。どこかなんてどこにもない。
イヌマルは辺りを見回して、ステンドグラスがあることに気づいた。古城にもあるあれがガラスであることがわかっていたイヌマルは、誰の手も届かないくらい高い位置にある三枚のそれを連続で割る。
近くにいた村人が驚いた気配がしたが、誰も叫ばなかった。叫ぶことができないほどに黒い煙が充満しているのだ。そこから煙が出ていけばいい。せめてそれだけはと思っていた。出入口に転がっていた死体のほとんどが焼死体でなかったことを確認していたイヌマルは、それだけで救われる命があるかもしれないと思っていた。
低い位置にガラスはない。石造りの協会で、イヌマルが簡単に壊せる箇所はない。
「クソッ!」
ただ時間だけが過ぎていく。その間も村人たちが倒れていく。
この場で生きるほとんどの人間が、生きることを諦めていた。
「…………」
どうすればいいのかわからない。このままここにいると、イヌマルも危ないとわかっているのに。イヌマル自身が死ぬことは、許されないことなのに。
視線を巡らせて生きる道を探す。生きる為にイヌマルが見つめていたのは、出入口だった。
再び出入口に飛んで、重厚そうな扉を睨む。重厚そうだが、ここだけは石造りではない。木造だ。出火場所ということもあってイヌマルが充分に刀を振り回す場所も確保されており、大太刀を振り回して炎で脆くなったそれを破る。なるべく早く片づけたつもりだったが、イヌマルの真っ白な着物は──真っ赤な炎によって燃やされていた。
「ッ!?」
式神が死なないなんてことはない。猿秋の前の式神が誰であるのかは知らないが、死んでしまったという事実は知っている。このまま炎を放置していたら、イヌマルも死ぬだろう。出入口付近に転がっていた死体の山の一部のように、死んでしまうのだろう。
「イヌマルッ!」
誰よりも早く駆けつけてきたのは、狼に変身したエヴァとエヴァの背中に乗ったステラだった。
「いっ、嫌! イヌマル燃えないで! 死なないで!」
式神と陰陽師は写し鏡だが、取り乱すステラを襲う痛みはないようで。イヌマルは唾を飲み込んで、安心させるように笑う。
「主、俺は大丈夫」
普通の人間よりも頑丈な体でできている式神だ。燃えていても今すぐ死ぬわけではない。
「そんなことより消火を。中にもの凄い数の人がいるから」
「えっ」
「エヴァ、中にギルバートもいる」
「グルルルルッ!」
言葉が伝わらなくても、中にいるのがわかったのだろう。炎を躱して中に突っ込んだエヴァは多分、ギルバートしか見えていなかった。
「エッヴァ!」
狼姿のエヴァが中に入ったら絶対に全員が混乱するだろう。慌てて追いかけていくイヌマルをステラは止めることができなかった。
炎を避けて死体も躱したイヌマルは、視線を巡らせてエヴァを探す。出入口付近にいた村人たちはエヴァの登場に気づいていたようだが、誰も騒がず逃げ惑わなかったからだろう。奥のステンドグラスの方にいる村人たちは誰もエヴァの登場に気づいていないようだった。気づいていなかったが、出入口が破壊されたのは気づいているようだった。
全員が、出入口から出られると思っている。だが誰も向かわなかった。どこにいても見えているのだ。出入口の手前にある死体と炎が。それらが邪魔をしているとわかっていたのだ。ただそれだけが一番の壁で。ただそれだけで、全員が死ぬ。
「…………」
あの炎をステラが消火できるとは思わなかった。ステラの力を侮っているわけではない。あの辺りに水がないのだ。だから、相手がクレアとグロリアでも消火できないと思っている。
イヌマルが協会の中でなんとかできるのは、死体の山だった。あの死体をこの大太刀で斬って斬って斬り続ければ──問題は炎だけになる。
炎をどうにかすれば、生きている全員が逃げることができる。あの死体の山を斬れば──。
抜刀した大太刀を握り締める。歩いていく。駆けていく。炎をどうするのかは考えていない。炎はどうすることもできない。瞬間に出入口から溢れてきたのは、大量の水だった。
「──ッ?!」
イヌマルの全身が濡れる。炎が、消える。残されたのは真っ黒に焦げた着物だけ。崩れた死体の、たった一つだけしかない山だけ。
──今だ。
イヌマルは迷わなかった。生者を守る為に死者を斬った。開いた道を塗りたくっていたのは、焦げた黒と血の赤で。
振り向いたイヌマルが視界に入れたのは、煙を吸い込んで動けない村人たちだった。開かれた出入口の方をただただ見つめながら倒れている。彼らの命の炎は、今にも消えてしまいそうだった。




