五 『カートライト家のステラ』
式神の本能が備わっていない式神は、式神ではない。式神の女王であるビシャモンの言葉が、町役場を去った今でも頭から離れなかった。
生まれたくて生まれてきたわけではない。だから、間違っていたとビシャモンから言われる筋合いはまったくない。そう思って腹が立つが、その苛立たしさを抱いていいのは人間だけだった。
式神の自分にはその苛立たしさを抱く権利がない。そもそも、そう思うこと自体が間違いなのだ。巡る思考のせいで自分まで間違いだと結論づけてしまい、ビシャモンの言葉が正しかったことに気づいて酷く落ち込む。もう二度とビシャモンには会いたくないとさえ思っていたのに、それ故に興味を持たれたのか定期的に彼女に会わなければならなくなって、イヌマルはさらに肩を落とした。
猿秋も、町長であり王でもある千秋に会ったせいか目に見えて疲れていた。
今までの態度で千秋がかなりの権力者であることを認識していたが、それほどまでに格上の相手だったのだと再認識し、千秋と同等の権力者であるビシャモンにまた怯える。
「どうしたの?」
そんな二人を見てステラが声をかけてきた。リビングのソファで打ちひしがれていた二人は、いつの間にか帰ってきていたステラに驚いて背筋を伸ばした。
「ふふっ」
そんな二人を見てステラが笑う。こんなところまで見られたのだから今さら取り繕っても仕方がない。そう思うのに、ステラの前では情けない姿を見せたくなくてどう誤魔化そうかと思案する。
「おかえりステラ」
猿秋は、思いっ切り話題を逸らした。
「ただいま、サルアキ」
ステラは笑みを浮かべたまま答え、猿秋の様子をじっと見つめる。そんな時間に耐えられなかったのか、猿秋は立ち上がってこう言った。
「そろそろ黄昏時だね。姉さんの様子見てくるからちょっと待ってて」
「うん。わかった」
「あ、いってらっしゃい……」
猿秋は振り返ることもなくリビングから出ていく。あの様子だとしばらく戻って来ないだろう。
イヌマルは長い息を吐き、隣にステラが座ったことに遅れて気づいた。
「何かあったの?」
「うぇっ?! 別に何も?!」
「何かあったんだ」
「何もない! ほんとに何も!」
「どうして話してくれないの?」
「いやそれはっ……別に話すことはないからで」
「イヌマルはわたしのこと嫌い?」
「えっ?!」
どうしてそんなことを聞くのだろう。ずっと逸らしていた視線をステラに向けると、ステラはじっとイヌマルのことを見上げていた。
「わたしは、イヌマルのこと好き。キョウコのことも、キジマルのことも、おじさんのことも、おばさんのことも」
「主のことは?」
「サルアキのことも……好きだよ」
「…………」
「何その顔」
「いや、ステラ様こそ」
「わたしは変な顔なんかしてない」
「変な顔っていうかいったい?! えっ、殴った?!」
殴るような子には思えなかったのに、だいぶ強く殴られた腕は地味な痛みを訴えてくる。齢九歳の暴力で痛むような体なのだから、これが妖怪相手だったらと思うとゾッとした。
「それ以上何か言ったら許さないから」
ステラの紺青色の目は本気だ。イヌマルは何度も何度も頷いて、人間というものを──というかステラという人間がどういう人間であるのかを理解する。
「あっそっそういえば! イギリスで生まれたって聞いたけど本当なの?!」
「うん、本当」
イギリスがなんなのかを知らず、あの後イギリスがどこにあるのかを調べたイヌマルは、海を越えてやってきたステラの異国情緒溢れる雰囲気に惹かれていた。
話を逸らす為でもあったが、純粋に気になっていたイヌマルにとって聞ける機会があることはありがたいことだった。
「えーっと、〝ふつまし〟って聞いたけど……それって何?」
サルアキのことも知らないが、ステラのことも何も知らない。イヌマルの周りには多くの〝知らない〟が溢れていた。
「祓魔師は、悪魔に取り憑かれた人から悪魔を追い出すの」
「あ、あくま? 何それ?」
「悪魔は悪魔。こっちにはほとんどいないけど、悪魔と──悪魔と契約した魔女を倒すのが祓魔師の仕事」
「妖怪はいないの?」
「うーん、似たようなのはいるけど妖怪じゃないよ。妖精とか……あれは亜人、っていうのかな? そんなのがいっぱいいるの」
「あじん?」
「吸血鬼とか人狼とかだよ。この町にはいないけど、そういうアニメっていっぱいあるでしょ?」
「…………」
聞いてもなんのことかわからなかったが、式神の家にはテレビがある。チャンネル権はないに等しいが、ステラの為なら戦ってでも奪おうと思えた。
「へ、へぇ?」
「知らないんだ」
「……ごめん」
「いいよ。別に。たいしたことじゃないし」
ステラはそう言うが、イヌマルにとってはまったくたいしたことではない。
この町には妖怪がいる──知らないことばかりのイヌマルはそのことを知っていたが、他に知っていることといえばこの町のことと自分の宿命のことくらいしか出てこなかった。
とてもとても狭い世界と、自分という個。それだけ。何もない。何も知らない。生まれたばかりだと言い訳をするのは簡単だが、知らないままだと言い訳もできなくなる。だから焦る。
ビシャモンのように一刻も早く知識を吸収し尽くしたい。だが、ステラが見せてくれるのはビシャモンもきっと知らないであろう異国の景色だった。それに強く惹かれる自分がいた。
戦う為の知識も大切だが、戦いに関係ない知識も得たい。戦いの為の知識は式神として必要なものだが、戦いに関係ない知識はイヌマルという式神に個性を与える。
それが式神の個性というものに疲弊した自分の求める真なる個性だと思った。
ステラが隣にいてくれるだけで、イヌマルの世界が一気に広がっていく。だから特別なことなのだ。他のみんなが知っている知識ではなく、自分だけが知れる知識を得られることは。
「ステラ様、俺、もっと勉強して誰よりも強い式神になりたい。けど、ステラ様が知ってることももっと知りたい」
「え? う、うん。教えるよ」
「あははっ。やった、嬉しい」
「イヌマルが喜んでくれるなら、わたしも嬉しい。けど、わたしはイギリスのことそんなに知らないし、祓魔師として何かしたこともないよ」
「ほんとに? なんで?」
「わたしは赤ちゃんの時にこっちに来たから、どっちかって言ったらこっちが故郷って感じなんだよね。英語もちょっとしか話せないし」
「あ、そっか。そういうことか。でも、それでステラ様の両親は心配しないの?」
「わたしに両親はいないよ」
瞬間に息が詰まった。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと思ったが、ステラの表情はまったく曇っていない。驚くくらいにさっきと同じ顔で戸惑う。
「大丈夫。死んだとかじゃないから。本当にいないだけだから」
「えっいや、本当にいないって」
亡くなったわけではないのなら、どういう意味での〝いない〟なのだろう。心の声が聞こえるわけではないが、表情から察するに破門されたわけでもないようだ。
本当に、いない。だがそれはおかしなことだった。
親がいて初めて子が生まれることを、イヌマルの血は知っている。そうして三善家ができて、この時代まで受け継がれていることを知っている。陰陽師が誕生して以来ずっと三善家に仕えていたイヌマルの血は、ステラの言っていることを受け入れることができなかった。
「わたし、〝クローン人間〟なの」
だが、すぐに腑に落ちた。そういうことなら何もおかしなことはなかったが、〝クローン人間〟という存在が、どれほど罪深いものであるのかに瞬時に気づいた。
「だから、親じゃなくて〝オリジナル体〟。祓魔師でシスターなんだって。会ったことはないけど、わたしのオリジナルだから多分すぐにわかると思う」
日本人離れした顔の造形の持ち主は、ステラであってステラではなかった。柔らかそうな月白色の髪も、紺青色の双眸も、ステラのものであってステラのものではない。そのことを考えると気絶してしまいそうだった。
遠い遠い異国の地に、彼女の将来の姿がある。世界で一番可愛いと思った彼女の本当の姿がある。
そこまで思って、今までステラという人間を見ていたにも関わらず、ステラという人間を──ステラという個を、一気に認識できなくなったことに気がついた。
「名前は」
「グロリア・カートライト」
「じゃなくて、ステラ様の名前……」
瞬間、ステラは不思議そうな表情をした。その気持ちはよくわかる。自分でも何を聞いているのかと思う。
「ステラ・カートライト」
そう言われて初めて、イヌマルはステラ・カートライトという名の個人を知った。ただのステラでもただのカートライトでもない。
彼女はカートライト家のグロリアではなく、カートライト家のステラだ。そう思ってあげないと、ステラが哀れで哀れで仕方がなかった。
「イヌマル、泣いてるの?」
「……泣いてない」
「うそ。泣いてる」
「…………泣いてない」
自分とステラはどこか似ている。ステラがそう言ったわけではないが、自分も彼女も生まれたくてこの世に生まれてきたわけではないのだ。
やり直せるなら、普通の式神として生まれたかった。カートライト家のステラとして普通に生まれた彼女と共に、手を取り合って生きたいと願った。
「どうしてイヌマルが泣くのかな」
呆れた声は猿秋のもので、彼も知っていたのだと思う。
「イヌマルにはちゃんと話してなかったね。ステラは祓魔師の〝クローン人間〟として、陰陽師になる為に俺の家に来た子なんだよ。代わりに俺の〝クローン人間〟をその祓魔師の家に預けててね、彼もステラと同じように才能があるみたいで、グロリアちゃん喜んでたよ」
いや、彼こそがステラよりも知っていた。
「グロリアと会ったことあるの?」
「ないよ。定期的にメールしてるんだ、お互いのクローンが迷惑をかけてないかなって」
「わっ、わたし……迷惑?」
「まさか。ステラはいい子だし、向こうの俺もいい子だって言われてる。心配するようなことは何もないよ」
ステラがほっと息を吐いた。イヌマルは猿秋を見上げ続けた。
「主にもクローンがいるんですか?」
「うん。……あ、イヌマルが心配するようなこともないよ。あの子は祓魔師になる子だから、式神は持たない。俺の式神はイヌマルだけだよ」
別に、嬉しいとは思わなかった。相手に式神がいてもいなくてもどっちでも良かった。
ただ、猿秋も手を貸したのだと思った。
「サルアキ、今日はどこに行くの?」
「姉さんが仕事終わってないみたいだから、俺たち三人で近所を回ろうか」
「うん。わかった」
「わかりました」
ステラに続いて立ち上がる。準備を終えた猿秋と共にステラを守りながら外に出ると、真っ赤に染まった世界が三人のことを待ち構えていた。
「……あれ?」
そう声を漏らして猿秋が立ち止まる。先に出ていたイヌマルは振り返り、同じく不思議そうに猿秋を見上げるステラと共に首を傾げた。
「主?」
「あ、ごめん。なんでもないよ」
「主ぃ、嘘つかれたらわかるって前に俺言いましたよね」
「確かに言ってたね。けど、たいしたことないよ。今日は瘴気が濃い気がするなぁって、それだけだから」
嘘をついているようには見えなかった。だからイヌマルは納得し、猿秋と共に妖怪を探す。
祓魔師の家に生まれ、陰陽師になる為に育ったステラは、そんな二人の後を黙って追いかけた。