六 『意味』
「おわぁ……」
ステラがいる村に戻り、頼まれていたものをクレアに渡したイヌマルは、完成した〝口輪〟をつけているエヴァからゆっくりと視線を逸らす。
「……何これ」
村長から与えられた部屋はカーテンをしっかりと閉めて外からまったく見えないようにしており、何故か部屋の外に出されたステラと花はエヴァの今の状況を知らなかった。
隅に立ってイヌマルからもクレアからも距離を取っていたグロリアは、肩を竦めてこう答えた。
「倫理的にはちょっと不味いかもしれないけど、喋れるようにはなる〝器具〟だね」
グロリアも完全には受け入れていないようで、苦肉の策であることが伺える。だが、クレアだけは満足そうに頷いていた。
「よし! Good Morning Eva!」
クレアがエヴァに話しかけるが、エヴァは口輪に興味があるのかそれにずっと触れている。外されないといいのだが──簡単に外されるようなものをクレアは作らないだろう。クレアのそういうは信頼しているイヌマルだが、そう思わせているほどに──ジルやティアナに負けないほどに、科学者であり技術者でもあるクレアは古城での日々に貢献しているのだと再認識した。
「Hi, I'm Claire.」
また話しかける。エヴァはクレアを見もしない。ずっと口輪に触れているのに。
「嫌われてるのかな」
「かもしれない……」
「そんなわけないから!」
「いやでも現実見なよ……」
「見てるけど! 諦めるの早ぁい!」
「クレアみたいに実験結果が出るまで待てないからね」
ベッドに飛び込んで暴れるクレアを、グロリアもイヌマルも止めなかった。唯一クレアに近づいたのはエヴァで、まさかと思った瞬間にクレアの真上へと飛び込んでいく。
「Ahhhhhhhh?!」
子供ではない女性が上に乗ってきたのだ。その反応は当然だった。
『クレア、大丈夫?!』
『襲われたの?! イヌマルは?!』
「あっ大丈夫大丈夫! だから二人は心配しなくてもいいから!」
『するよ心配! だって何も見えないんだから!』
『開けるからね! ……なんで鍵かかってるの?!』
「えっ鍵かかってるの?!」
「念の為にね」
「そういうのは言って?!」
最年少だからか式神だからか、何故かそういった情報は共有されない。落ち込んでしまいそうになる日もあるが誰もそういうつもりはないらしく、抗議しても意味ないような気がして強くは言えないが。
「Eva! Stop! Eva!」
『だから何が起きてるの?! あっ、I'm sorry for being noisy.』
「えっ、花、誰か来たの?」
「うん、村長の孫の人が……エヴァの親が来たから会わせてあげることはできるかって」
孫というのは、早朝に見たあの女性のことだろうか。
「…………ど、どうする?」
急に無言になったクレアとグロリアはあまり乗り気ではないらしいが、エヴァの今のこの状況がいつも通りなのかは確かめておかなければならない。
「とりあえず会わすだけ会わせてみよう。知らない人ばっかで混乱してるだけかもだし」
『わ、わかった。いいよって言っておくね』
ステラと花を外に待機させていて良かった。エヴァをクレアから引き剥がし、クレアとグロリアに両側を任せて先に外に出る。
そこでステラと花と共に待っていたのは、やはり今朝の孫娘──エヴァよりも三歳ほど年上に見える若い女性だった。
「Good morning. How do you do? I’m Leonora Clark.」
「Hi, Miss. Clark. I’m Claire Duncan.」
「なんて?」
「I’m Gloria Cartwight.」
「花、翻訳……」
「ただの挨拶だよ。あの人は村長の孫娘のレオノーラ・クラークさん。ちなみに村長はエドモンド・クラークさん」
「レオローレレオローラレオ……れ……」
「レオノーラさん」
言いづらい。略したらレオナルドと同じレオになるから略さないが。
「言いづらいならノーラさんにしたら?」
「えっ、レオじゃないの?」
「それはレオナルドの愛称。レオノーラの愛称はノーラの方がよく使われてるかな」
「難しすぎる……」
意味がわからなくて混乱する。いや、こんなところで混乱してどうするという話ではあるが。
イヌマルは深呼吸をして背筋を伸ばし、外に出ていく全員を見守る。ノーラに連れられて下りた一階の客間にエヴァの両親はおり、そのすぐ傍に立っていたのは、エヴァが噛まれたあの時も傍にいた少年だった。
「Mom! Dad! Gilbert!」
駆け寄ろうとするエヴァを止めようとして引きずられるクレアとグロリアを後ろから引く。前に進めなくなったエヴァは不思議そうに振り返ってイヌマルを見つめ、不満そうに頬を膨らまそうとしてできないことに気づいてしまった。
そう。エヴァには今口輪がついているのだ。喋ることはできても膨らますことはできない。それはもう我慢してもらうしかないのだが、エヴァはようやく口輪が窮屈なことに気づいたらしく──今度は外そうと躍起になった。
「Eva……!」
母親の声に我に返ったエヴァは、嬉しくなってまたそちらを向く。だが、両親の瞳に恐怖が宿っていることに気づき──抱き締めようと上げていた手をだらんと垂らした。
不自然な赤い瞳が自分たちを見ていることに気づいたのだろう。それは愛する娘のものではない、人狼になった少女の瞳──エヴァの両親は視線を逸らした。口輪で視線を逸らしたイヌマルのように。
「…………」
喋らなくても喜怒哀楽だけはよくわかる少女だった。だから、エヴァが傷ついていることだけは嫌というほどにわかってしまって苦しかった。
室内の沈黙を破ったのはノーラで、エヴァではなくエヴァの両親に声をかける。一言二言だけ言葉を交わした次の瞬間に部屋から出ていった両親をエヴァは追いかけることができず、縋るように──一人残った少年を見つめた。
エヴァからギルバートと呼ばれた少年は、緑色の美しい瞳でエヴァの不自然な赤目を見つめ返す。その瞳の中に敵意はなく、心からエヴァを心配するようなそれで。それだけでエヴァが大泣きする。
すぐ傍にいたクレアとグロリアがエヴァの背中を優しく擦るが、それさえもエヴァにとっては嬉しかったらしく涙は一向に止まらなかった。
「とりあえずは大丈夫そう?」
「うーん、確かにここから人を噛むようには見えないしなー」
「じゃあわたしたちは席を外す?」
「外すというか……あっちが気になる」
まだ遠くまで離れていないはずだ。見るとクレアとグロリアと目が合って、イヌマルはステラと花と共に部屋の外に出る。
エヴァの両親は、玄関の方でエドモンドと何かを話していた。いや、訴えているように見える。その訴えがなんなのかはまったくわからない。
「エヴァを処刑してください、だって」
わかっていたのはどちらの言語も理解できる花だけだった。
「あの子は化け物です、化け物は死ぬべきです、死んでいった他のみんなに申し訳ないです、他のみんなと同じように殺してくださいって」
「エヴァは他の人狼とは違う! エヴァはまだ誰も殺してない!」
「まだ誰も殺してないのに死んでしまった人狼なら他にもいたと思うよ」
「ッ」
「でも、そうやって殺すのはもう止めてほしいよね。怖がってたら何も変わらないから」
それは自分自身のことを差しているのだろうか。花は彼らと違って一歩を踏み出した立派な子だ。花よりも一回り二回り大きな大人があんな様子ではこの世界は息苦しい。そう思う。
「村長はなんて?」
「否定的だよ。村長はこの町の悲劇を終わらせたいみたい」
「なら良かったけど、エヴァの両親があぁだと他の住人がどう思ってるのかは気になるな……」
「そう……だね。ちょっと見てくるよ」
「じゃあわたしも行く。イヌマルは留守番ね」
「えっなんで?!」
「エヴァが起きてるなら、イヌマルはエヴァの傍にいた方がいい。エヴァを止められるのはイヌマルだけだってさっきのでもわかったから」
「……わかった。ただし、なるべく遠くに行かないように!」
ステラと花は顎を引き、何も知らない子供のような無邪気な笑顔を作って玄関にいる彼らの間を通り過ぎる。
クレアが科学者でグロリアが祓魔師であることは周知の事実だが、二人が何者であるのかは誰も知らない。ステラはグロリアの妹だと思われ、花はその友人だとでも思われているのだろうか。何者でもないただの子供ならば誰も警戒しない。クレアとグロリアに知られたら不味いことならば誰も二人には口を割らないと思うが、それはそのままでも問題ない。イヌマルが本気を出せば、どんな話も嫌というほどに耳に入ってくるのだから。
イヌマルは踵を返して扉が開けっ放しの客間に戻る。エヴァはギルバートと親しそうに話しており、それを見ていたクレアとグロリアは明らかに不満そうな表情で互いの顔を見つめていた。
「普通に話せるじゃん……」
イヌマルの口から漏れ出た感想とまったく同じ感想を持っていたらしい。ぐるりと振り向いて何度も首を縦に振った二人は、ノーラから不思議そうな表情で見られていた。
それにしても、ギルバートは一体何者なのだろう。最初は弟かとも思ったが、明るいグレーの髪を持つエヴァら親子とはまったく異なる黒い髪を持っている。
エヴァは癖のない真っ直ぐな髪で、ギルバートが癖のある髪であることも、二人が兄弟でないことを表していた。
「クレア、グロリア、そのまま聞いていてほしいんだけど」
ノーラから不気味だと思われないようにイヌマルの存在を無視し始めた二人に告げる。
「さっきレオに会った時、レオが人狼一家の仕業かもしれないって言ったんだ。人狼一家ってのは繁殖で増えた人狼のことで、そっちは満月の夜になっても理性を保つことができるって。だから、人狼一家を探して──で、倒せば、この村の悲劇は終わるかもしれない」
そうであってほしいと願う。きっと、エドモンドもノーラもそう思っている。
「エヴァの両親はエヴァのことを殺してほしいって言ってた。娘はもう人狼だって……他のみんなと同じように殺してほしいって」
クレアとグロリアはきちんとイヌマルの言うことを守っていた。何を言っても一切反応しない。無視されているのではなく最初から自分なんてこの世界にいなかったかのような──そんな扱いで心が軋む。
だが、両親から拒絶されたエヴァの方がもっとずっと辛くて苦しかったはずだ。あの口輪に隠れた笑顔の下の本当の表情はどうなっているのだろう。気になってもそれを暴くことはできなかった。
「そんなことさせないって思ったら頭掻いて」
このままなんの反応もないのは耐えられない。縋るような思いで最後の最後に声をかけると、二人はしっかりと頭を掻いた。
それがこんなにも──胸が溢れるほどに嬉しいと思う日は多分もう二度と来ないだろう。
今もギルバートに抱きつこうとしているエヴァの気持ちがよくわかる。だからといってエヴァにギルバートを抱き締めさせることはできない。だから、イヌマルもクレアとグロリアに抱きつかなかった。
エヴァと同じように我慢をする。その我慢はまったく同じではなかったが、少しでもエヴァに寄り添っていたくてイヌマルはそうした。
この村のすべてがこんなにも無垢なエヴァの敵かもしれない。早朝に見た庭の景色は今でも強く覚えている。
そんなエヴァの力になりたい。イヌマルは亜人ではないが、亜人と同じような立場にいる者として──人間と違うことに苦しむ誰かを救いたかった。
こんな気持ちになるなんて二年前は一瞬でも思わなかったが、これが多少の──イヌマルがイギリスに来た意味になると信じて疑わなかった。




