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深潭逆乱舞  作者: 朝日菜
第三章 星の旅立ち
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一  『怖いこと』

 家具しか置いていない簡素なティアナの部屋に古城の住人を全員呼び出し、ベッドに下ろして眠りについた彼女の身に何が起こったのかを説明する。

 クレアとグロリアに運ばせた狼の遺体を見ても人狼だとは思えなかったが、同じ亜人としてわかるのだろう。グリゴレが神妙な面持ちで頷いた。


「あの村に下りることは反対しません。ただし、ティアナには申し訳ないですが私は先に行きますよ」


「もちろん。もう五人くらい亡くなってるんでしょ? グリゴレが行かないともっと多くの人が悲しむから、早く行ってあげて」


「えぇ。これ以上咎人を野放しにしておくことはできません」


「それって一人で大丈夫なのか?」


「大丈夫と断言することはできませんが、混血に負けたことは一度もありません。まぁ、犯人が混血と決まったわけでもありませんが」


「俺も行く」


「貴方は今回も留守番ですよ、レオ」


「俺も行く」


 イヌマルとステラに合わせて日本語を話すようになったレオは、一年前の彼と比べると驚いてしまうくらいに身を引こうとしなかった。

 しょっちゅう外に出るグリゴレは普通の服を着ているが、本人がティアナに頼み込んで作ってもらったお揃いの軍服がレオに勇気を与えているのだろうか。兄であるグリゴレの赤眼をじっと見つめ、自分の心をきちんと伝えている。


「置いてかないで」


 それだけがレオの永久の意思だった。グリゴレは唾を飲み込んで、「いいのですか?」と確かめる。


「ティアナの傍にいなくても」


「ッ」


 何を言われても絶対に引かない、そんなレオの意思は多分簡単に崩れ落ちた。びくんと両肩を震わせて、しっかりと伸びた牙で自らの唇を噛んで、出血させる。


「ティアナも、兄さんも、心配……」


 その唇の隙間から出てきた答えが今のレオのすべての世界だった。

 一年前、自分の暴走を止めてもらった恩をティアナに感じているらしい。イヌマルもグリゴレも全力を尽くして戦ったのに、何故ティアナだけなのかとは思っているが。


「貴方に心配されるほど衰えていませんよ」


 盛大な溜息を吐いたグリゴレは、今日も通常運転だった。一年前のあの日が奇跡だったのかと思うくらい、グリゴレのレオに対する態度はそれほど軟化していない。それでもレオは今まで一度も折れなかった。


「……俺も行く」


 彼は今日も折れようとしない。


「何故」


 それ以上に彼も折れない。


「戦いたい」


「何故」


「ティアナに、恩、返す。その為に……強くなる」


「断ってもついて来ますか?」


 その問いに、レオは頷いて答えた。グリゴレによく似た赤眼はまっすぐで、もう何を言っても聞かないだろう──そう思わせるくらいの強さがあった。


「わかりました。準備しなさい」


「ッ! あ、ありがとグリゴレ」


 今日という日がなんでもない一日だったら、レオはもう少し笑っていただろうか。

 ティアナの負傷──それも人狼に噛まれたという事実がレオの笑顔を曇らせており、「おめでとう」と祝えるような雰囲気でないことを強く感じる。


「では、私ももう出ます。また後で」


「あ、あぁ、後で……」


 無駄に重厚な扉が開いて、すぐに閉まった。ティアナの寝息だけが聞こえてくる。先ほどまでの苦しそうな表情が消えたのは、ティアナの傍に椅子を置いて腰かけているジルの魔法のおかげで。ジルでさえ、その後のことは祈ることしかできなかった。


「……ティアナを村に下ろすことはできないよね」


「うん……ジル、ティアナのことは任せてもいい?」


「えぇ、もちろんよ。村のことは貴方たちに任せてもいいかしら」


「もちろん!」


 何故かはわからないが必死になってそう答えた。隣にいるステラに手を繋がれて握り返す。ステラとイヌマルも祈ることしかできなかった。


「しょうがないなぁ〜、わたしも行ってあげるよ〜」


「クレアは頼まれてないからいい」


「No! イヌマルどうして最近酷いの〜?!」


「嫌われるようなことばかり言うからだよ」


「グロリア〜! グロリアもステラに嫌われろ〜!」


「わたしはグロリア好きだよ」


「No〜!」


「ありがとう、ステラ。わたしも下りるから一緒に行こう?」


「ノー! 主は俺と一緒に下りるの!」


「あははっ。イヌマルとクレア、最近ちょっと似てきたよね」


 グロリアをステラから引き剥がしているとはなから笑われる。クレアは完全に不貞腐れており、ジルとティアナがいる空間だけが異世界のように剥がれ落ちていく。


「わたしは残るよ」


 その世界に飛び込んだのは花だった。


「四人とも、気をつけてね」


 微笑んでいるがどこか寂しそうに片手を振っていた。


「ジル、何か必要なものある? わたし持ってくるよ」


「大丈夫よ、花。必要なものがあっても自分で用意できるから、貴方もイヌマルたちと一緒に行きなさい」


「えっ」


「自分の見た目が周りと違うからって引きこもってばかりいるのはよくないわ」


「ち、違っ……わたしはジルとティアナが心配で……」


「行きなさい。私たちは大丈夫だから」


「でも……」


「私のせいで人を恐れてしまったのよね。けれど、この世界はとても広い。恐ろしい人たちばかりではないことは知っているでしょう? 他の人たちと違っていても大丈夫よ。違うことは決して恥じることではないわ。だから、行きなさい。人狼が怖いと言うのなら、引き止めないけれど」


 イヌマルの前でジルがこれほど多くの言葉を発したのは初めてかもしれない。彼女はいつだって多くを語らないが、彼女は古城の主として全員から慕われている。その姿は全員の本当の祖母のようで、優しい微笑みを怯える花に向けていた。


「怖く、ない……人狼は怖くないの」


「そうよ。怖くない。貴方にとって一番怖いことはなぁに?」


「一番、怖いのは……わたしの居場所がなくなること」


「なら行けるわね。この古城のように、どこまでも」


 後ろ姿しか見えなかったが、花がこくりと頷いた。イヌマルを除いたらこの古城の住人の中で最年少者となる彼は、背筋を伸ばして「行ってくるね!」と元気に答える。

 この一年で成長したのはレオだけではない。花も、そしてステラも、日に日に大きくなって立っている。それに比べて自分はどうだろう。大きくなれているのだろうか。


「えぇ」


 自分たちを視界に入れていたジルの微笑みだけは、よく見えた。


「気をつけてね」


「あ、うん、気をつける」


「人狼がいたら噛まれないように」


「気をつける!」


「人狼を見つけたら?」


「えっ」


「人狼に噛まれた人がいたら?」


「えぇ……っと」


 どうする? どうすればいい? ティアナに言われた通り行くことしか考えていなかった。自分たちは人狼だらけかもしれない村に下りて何をすればいいのだろう。


「誰か、人狼がなんなのかは知っている?」


「なんなのか、って……」


 部屋の隅に置かれた遺体を確認した。何度見てもただの狼だ。


「吸血鬼に比べたら知ってるわけじゃないけど、噛まれたら狼になるってことは常識だよね。ティアナがどうなるかはわからないけど」


「感染で種族が増えるなんて穢らわしい……何故神は人狼を野放しにしているんだろう」


「それが神の意思なんじゃな〜い?」


「適当なこと言わないで。殴るよクレア」


「も〜、怖いよシスター」


「本当に怖いのは神の怒りだから。そうでしょ? マッドサイエンティスト」


「No! マッド違う!」


「二人とも、話ズレてる」


 ステラに突っ込まれてすぐに口を閉ざした二人は本当に大人なのだろうか。しっかりと落ち込んで互いに目配せをしている彼女たちが成長したのは語学だけで、中身は何も変わっていない。


「狼の姿にもなれるけれど、ずっとその姿というわけではないのよ」


 クレアとグロリアのやり取りを見てもまったく咎めない──というか見なかったことにしたジルを見て二人はますます落ち込んだようだった。


「人の姿にも、半獣の姿にもなれる。彼らは噛まれたら永遠に狼のままというわけではないのよ」


「えっ」


「けれど、人狼は狼の姿のまま亡くなったら人の姿には戻れないのね。もうどんな姿をしていたのかはわからないけれど、その人を村に帰してあげて」


「あ……う、うん」


 相手が狼だったから、ティアナを襲っていたから、躊躇いなく殺した。その選択肢が間違いだったような気がして──というか早計だったような気がして心が軋む。


「そんな顔をしないでちょうだい、イヌマル」


 そんな顔って、どんな顔? ステラを見下ろそうとしたがステラにそんな顔を見せたくなくて必死に堪える。


「貴方がしたことは、〝亜人の掟〟を考えたら正しいのよ」


「けど、その人がその〝亜人の掟〟を知らなかったら……」


「知らなかったら殺さなかった? 襲わないでと説得した?」


「……それは」


「イヌマル、貴方の行いは人の世界でも正しいのよ。大丈夫、迷わないでちょうだい」


「そうだよイヌマル。悪いのはイヌマルじゃなくて襲ってきた亜人の方なんだから、そんなに思い詰めなくても大丈夫だよ」


「…………」


「人狼が人を襲っていたら、人を守る為に殺しなさい。人狼に噛まれた人がいたら、他の人を守る為に保護しなさい。噛まれた人をよく見て、声を聞いて、生かすか殺すかを決めなさい。人と人狼が共存できるかはわからないけれど、貴方たちが、人間と亜人の架け橋になってあげて」


 それがジルの願いならば、叶えてあげたい。それが村人たちの願いならば、叶えてあげたい。


「人間と亜人は相容れない者ではない。それは私たちがよくわかっていることでしょう?」


「それはもちろん!」


「えぇ。お願いね」


「わかった!」


 二年前に妖怪を殺した。

 一年前に亜人を殺した。


 意思疎通ができない妖怪を殺すことは決して苦ではなかったが、人と同じように生きている亜人を殺すことは辛かった。

 それは今でも変わっていない。それでも人間を守る為に自分ができることを精一杯にする。それが殺すことならば、今回も──先ほどと同じように、躊躇わない。


 誰が〝亜人の掟〟を決めたのだろう。いや、誰がではないのかもしれない。亜人たちが自分たちの身を守る為に自然とそうなったものが掟となったのかもしれない。

 自分たちが牙を剥かなければ、人間も牙を剥かない。それが人間の世界での常識でもあるのに、何故人狼はティアナを襲ったのだろう。それが亜人の──というか人狼の同胞を増やす為の本能なのだろうか。


 狼の体を担ぐ。ティアナの方が軽かった。そんな狼をクレアとグロリアに任せてしまって申し訳ないと思いながら、グリゴレとレオが出ていった重厚な扉の方へと歩く。


「行ってらっしゃい、みんな」


 振り返ると、眠るティアナと微笑むジルがいた。


 自分が一番怖いと思うのは、大切な仲間を亡くすことだ。その仲間を守る為ならば、どれほど辛くてもこれから先何度だってイヌマルは亜人を殺すだろう。その度に沈んでいくのだろう。

 あまりにも深すぎる暗闇の底を想像した。そこから世界を見上げている自分の姿を想像した。輝く光には手を伸ばしても届かない、そんな思いを自分やネグル兄弟以外の住人に味わってほしくない。



『この世のすべてには意味があるんだよ。覚えておくように』



 今でもかつての主だった猿秋さるあきの言葉は覚えていた。今でもその言葉の意味はわからないが、いつかわかる日が来るのだろうか。

 今イヌマルがしていることには意味があって、思っていることにも意味があって、答えを得る日が来るのだろうか。


 その日がどれほど遠い未来なのかはわからないが、誰も欠けないでいてくれたら──そう願わずにはいられなかった。

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