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深潭逆乱舞  作者: 朝日菜
第三章 星の旅立ち
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序幕 『噛み跡』

 それは大地から離れているが、灰色に濁った雲に覆われた天空には一生手が届かない位置に浮かんでいる。イヌマルはバルコニーに出て、変わりゆく外の──森だらけの世界を見下ろしていた。

 季節は夏に入ったがまったく暑いと感じない。そう思うのは太陽を遮る曇り空のおかげであり、古城を覆う薄い水の膜のおかげでもあった。ウェパルと契約したジルの魔法によって今日も周囲から姿を隠すことに成功している古城は、森の木々にぶつからない程度の高度を保ってゆっくりと進んでいる。歩いた方が早いとも思うが、それくらい遅い速度だからこそ快適に過ごすことができていた。


 古城がジルとティアナの魔法とクレアの技術によって動く城になってから早一年。最初は戸惑いもあったがすぐに慣れ、住人たちと〝日常〟と化した日々を暮らす。

 移り変わる景色のおかげか真新しいものを視界に入れることが当たり前になり、同じく真新しい者だったグリゴレとレオも今となっては立派な古城の住人になっていた。イヌマルもステラも除け者ではない。もう随分と前から受け入れてもらっていたが、ようやく住人の一員になれたと思って嬉しくなった。


 大切な人と別れることがないそんな日々が、一年前よりも好きだった。


 古城が動く城になったきっかけの事件は未だに鮮明に覚えている。混血の吸血鬼が起こした事件。混血に限らず罪を犯した者は亜人の掟に従い排除しなければならないことを。

 グリゴレは今でも罪を犯した吸血鬼を狩っており、古城の行き先はすべて彼が決めている。だというのに古城には一年の半分くらいしか滞在していない。以前はレオも連れていたが一度暴走した彼を連れていく気は今でもないらしく、レオはずっとお留守番を言いつけられていた。クレアが作成した薬のおかげで血を舐めても暴走しなくなってきたが、グリゴレは爆弾を抱えたくないらしい。グリゴレが狩りに出かける度にもどかしそうな表情で見送るレオの横顔が、記憶に残って離れなかった。


「イ〜ヌ〜マルッ!」


 大きな音を立ててバルコニーの扉を開けたクレアは、白衣に付着した真っ黒な汚れを気にすることなく近づいてくる。

 イヌマルが着ている着物の色も真っ白だったが、目の前に立たれただけで少しくすんでしまったような気がした。


「おつかいお願い! これ買ってきて!」


「これって……」


 渡されたメモ帳には箇条書きで多くの品物らしきものが書かれていた。だが、殴り書き同然の英文を正しく読んで理解することはまったくできない。


「……無理」


「えっ、なんで?! 行ってよイヌマルが一番暇人なんだから!」


「これじゃ読めないからだよ!」


「えぇ〜! イヌマル、わたし日本語喋るから英語早く読めるようになってよ!」


 クレアの言う通り、一年前と比べると彼女は確実に日本語が上手くなっていた。発音は今でも怪しいところが多々あるが、伝わらないわけではない。伝えたいと思ってくれていて、聞きたいと思っているからこそ、自分たちの意思は通じる。そのことには物凄く感謝している。

 だが、それとこれとは話が別だ。この殴り書きからは相手に伝えたいと思う心がまったく見えてこない。自分だけが伝わればいいと思っているような文字を死ぬほど努力して読む必要はまったくない。


「本当にそういう問題じゃないから。どうしても行ってほしいなら書き直せばいいだろ」


「No! 時間が惜しいんだよ〜、わかるでしょ?」


「まっったくわからない」


「イヌマルのイジワル!」


「クレア、またイヌマル困らせてるの?」


「困ってるのはわたしだよグロリア〜! もうグロリアでもいいから行ってきて、あまり時間ないの!」


「買いだめしておけば良かったのに。クレアってほんとそういうとこ抜けてるよね」


「今はそんな話してる場合じゃないじゃ〜ん!」


 クレアと同じく日本語が上達したグロリアは、自分を強く抱き締めてくるクレアの首根っこを遠慮なく掴む。

 汚れをまったく気にしないクレアと清潔感を保つグロリア。真っ白な白衣と真っ黒な修道服を着ている二人はどこまでも対照的で、クレアから汚れを移されたグロリアは不愉快そうに顔を歪めた。彼女がそんな表情をするのは、かなり珍しいことだった。


 二人の変化は一年前の陽陰おういん町旅行がきっかけだろう。

 だが、決して遊びに行っていたわけではない。クレアは自分自身の〝クローン人間〟コーデリアを、グロリアは実兄のアランを探しに行ったのだ。


 結果、アランは五年前に亡くなっていた。コーデリアという名前の少女はいなかった。


 グロリアは帰国してからも泣いていたが、時々誰かと連絡を取って笑っていた。ステラが誰と話しているのかと聞くと、グロリアは「アイラ」と答えて笑っていた。

 骸路成愛来ろろなりアイラ。名前を聞いても誰のことだかわからなかったが、アイラがアランの忘れ形見であることを聞いた時、ステラの表情にも光が差したのをイヌマルは強く覚えていた。


 アランがグロリアの実兄ならばステラにとっての実兄でもあり。アイラがグロリアの姪ならばステラにとっての姪でもある。彼女はステラの家族なのだ。ステラが生まれた二年後に生まれたアイラがあの町で生きていたなら、町のどこかですれ違っていたかもしれない。もしかしたら、同じ小学校で学んでいたかもしれない。


『会いたいなぁ』


 ステラがそう言った。陽陰町に戻らないと決めていたから、二人は家族として会えなかった。

 一方、必ず取り戻すと言っていたクレアもコーデリアを取り戻すことができなかった。コーデリアという名前の少女はどこにもおらず、綿之瀬有愛わたのせアリアと名前を変えて生きていたらしい。


 アリアは陽陰町で生きていくと決めていた。ステラとは違う決意で生きていた。


 クレアとグロリアと一緒には帰らない、そう言われたクレアは激怒しなかったらしい。


『でも、手放す。許す。クローンにも人権あるって、ティアナと、はなと、ステラが教えてくれたから』


 クレアがアリアにそう返したのだ。そのことを教えてくれたのは、グロリアだった。

 クレアはもう〝クローン人間〟を自分の所有物だとは思っていないらしい。そのことがどうしようもないくらいに嬉しくて、アイラとアリアに一年も会っていない二人は今日も元気に生きていた。


「あ」


 視線を外した瞬間に視界に入ったのは、人々が生きる村だった。まだ微かにしか見えていないが、それなりに大きな村だと思う。

 あの村にはクレアが欲しているものはないだろう。だが、あの村が目的地というわけではない。グリゴレが目指しているのはここよりももう少し南にある街で、そこにはきっと、クレアが欲しているものがある──。


「グルルルル……」


 どこからどう聞いても人間が出せるようなものではない、野性的な唸り声。


「一応聞くけど、クレアとグロリアのお腹の音?」


「そんなわけないでしょ! イヌマル失礼!」


「シッ! 静かに!」


「うぎゅむ」


 祓魔師ふつましでもあるグロリアは何かを悟ったらしい。クレアの口元を手で覆って呼吸まで止めさせ、周囲を異常に警戒し出す。


「グロリア、クレアが死ぬ」


 イヌマルはグロリアほどの警戒心を抱かなかった。妖怪の妖力に気づくことはできても、亜人の魔力に気づくことはできない。その上ここはジルとティアナの魔法に守られた安全地帯だ。危険な者が入ってくるなんてあり得ない。


「ガルルルルッ!」


「……もしかしなくてもなんかやばい?」


 大地から聞こえてくるとするには異様に大きな唸り声だった。クレアとグロリアは全力で首を縦に振り、イヌマルにぴったりと張りついて安全を確保する。


「主ッ!」


「あ〜! イヌマルわたしを置いてかないで〜!」


「単独行動はイヌマルでも危ないから! 二人とも待って!」


「主〜!」


 イヌマルの本能が守りたいと思うのは、クレアとグロリアではなく主のステラだ。クレアとグロリアが傷つくのも絶対に嫌だが、クレアとグロリアを守るのはステラの安全を確保した後じゃないと絶対にできない。


「あ、る、じ〜!」


「イヌマルうるさい! 気づかれちゃう!」


「あるじぃ〜っ!」


「シッ! 下の方になんかいるかも!」


「下ってどこ!」


「庭!」


「じゃあこっちじゃん!」


「What?!」


 クレアを右脇に、グロリアを左脇に抱えて来た道を戻る。バルコニーに出て正面の灰色の空を見つめ、飛び降りる。


「ぎゃああああああああ?!」


「ふぎゃやああああああ?!」


 真下は森ではなく庭だった。クレアの家族の墓と、花が育てている名も知らない花が咲き乱れている花畑に、四足歩行の見知らぬ獣が存在している。


「だ、れ、だ、おまえ〜!!」


 魂が抜けたクレアの肉親がそのまま埋まっているその場所に、花が心を込めて育てているその場所に、土足で踏み入ることは絶対に許さない。


「ガァルルルルルルルルッ!」


 獣は走った。その先に立っていたのは、ティアナだった。


「ティアナ?!」


 間に合わない。古城のバルコニーから飛び降りたイヌマルは未だに空中に滞在しており、刀を抜いて投げたくてもクレアとグロリアを抱えているせいでそれさえもできない。


「避けろ!」


 叫んだ。ダンタリオンと契約したあのティアナなら大丈夫だろう、信じているからティアナが手を伸ばした瞬間に安堵する。

 びくんびくん。獣の体が不自然に震える。だが、獣が止まる気配はなかった。


「──ッ?!」


 ティアナの群青色の瞳が見開かれる。瞬間に右目に浮かんだのは、ダンタリオンのシジルだった。


「ティアナッ!」


 右に体を移動させたが、腕が間に合っていなかった。ぶしゅっ! と嫌な音を立てて血飛沫を上げたティアナは唇を強く噛み締め、獣を蹴る。


「おぎゃっ!」


「おごぇっ!」


 着地したイヌマルはクレアとグロリアを左右に放り投げた。刀を出現させて抜刀し、すぐに投げ、腕を抑えるティアナの元へと駆けつける。

 重さがある大太刀はイヌマルの想像以上に早く地面に落ちかけたが、きちんと獣の後ろ足を切断して転がっていった。


「ティアナ! 大丈夫?!」


「いや、わからん……」


「じゃあ早くジルに!」


「そうじゃない、そいつは……人狼だ」


 その存在は知らなかったが、口振りからして亜人だろうか。


「そんな……」


「とりあえず傷口洗おう!」


 クレアとグロリアは何故顔色を青ざめさせているのだろう。ジルならばきっと治せるはずなのに。


「ウッ!」


「ティアナ?!」


「大丈夫だ、ダンタリオンが……こいつを殺そうとしてるらしい」


「何?! どういうこと?!」


「イヌマルとりあえず落ち着く、ダンタリオンならもしかしたら……勝てるかも」


「勝てるって何に!」


「ウイルスに。人狼は、噛んだ相手を同族にさせる亜人だから。できることはするけれど、噛まれた人が狼にならなかった例はない」


「え……?」


「いや……聖水なら大丈夫だ、ダンタリオンを弱らせるからいらない……とりあえずお前ら、みんなを呼んでくれ」


「呼ぶし運ぶ! とにかくティアナは休んでろ!」


 数秒しか経っていないのに、尋常じゃない汗がティアナの体中から吹き出していた。もしかしたらもしかするかもしれない、人狼にトドメを刺してティアナを担ぐ。


「近くに、町があったら、グリゴレには悪いがそこにいけ」


「わかった!」


「いや、気を引き締めろよ……そこは人狼だらけの町かもしれないんだからな」


「ひっ」


 近くには確か、大きな村があったはずだ。あの村の全員もしくは半数が人狼だったら──考えただけで吐き気がした。

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