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深潭逆乱舞  作者: 朝日菜
第二章 星の降る地
44/133

終幕 『follow you』

 何も見えない。そう理解したのは二度目だった。

 イヌマルはゆっくりと瞼を開けて、もう二度と見ることがなかったはずの天井を見つめる。おかしな模様ばかりがついている木製のそれにかつては怯えて暮らしていたが、離れて暮らして成長して、あの時の自分は未熟だったと素直に思った。畳の匂いが鼻腔を擽る。手足を動かして空中に投げ出されないことを確認して、頬を抓って夢ではないことを理解して、時間をかけて起き上がった。


「イヌマルッ!」


 そんなイヌマルに気づいて視界に飛び込んできたのはキジマルで、イヌマルはぎこちない笑みを見せる。本当に帰ってくる気がなかったから、こんな風にまた会ってしまったことが恥ずかしかった。


「向こうで何をしていたのですか! 死ぬほど心配したんですよ?!」


 比喩ではないと言っても過言ではないほどのことをしたと思っている。式神しきがみは式神の家でなくても眠って暮らすことができるが、強制的にここに戻ってきたということは休まなければならないほどの重傷を負ったということで。

 壊れて──死んでしまってもおかしくはなかった状況を他でもないキジマルに見られてしまったのだと理解していた。


「ごめん、ほんとに、ごめん」


「ごめんで済むなら帰ってこないでください!」


 式神の能力を使えばステラ以上に簡単に国境を越えて行き来することができるのだが、イヌマルが一年もそれをしなかった時点でキジマルは永遠の別れを覚悟していたらしい。

 向こうで元気に生きているのならそれでいい、便りがないのはいい報せだ──そう思っていたキジマルにとって、イヌマルの突然の帰還は心を砕くものだった。


「ご、ごめん、次があったら気をつけるから」


「次って……貴方、本当に何があったんですか?」


「たいしたことじゃない。ちょっと吸血鬼と戦ってて」


「たいしたことあるじゃないですか。で、ステラ様は無事なんですか?」


「主は無事だよ。向こうには俺と同じくらい強くて頼もしい人がいるから」


「イヌマル」


「ん?」


「貴方は今、幸せですか?」


 愚問だ。すぐにそう思って笑顔で答える。キジマルはイヌマルの瞳の中を探っていたが、嘘でないことは最初からわかっていた。


「……そうですか。なら良かったです」


「あっ、そういえば京子きょうこ様……」


「京子様には言ってませんよ」


「え、なんで?」


「言ってほしかったんですか? 余計な心配をさせたくなかったんです。式神は通常一晩で目が覚めるので、それくらいなら待とうかと。そうしておいて正解だったみたいですが?」


「た、確かに……?」


「イヌマルにも、ステラ様にも、何もなかった。だから私は京子様には何も言わない。それでいいですか? イヌマル」


「……もちろん。ありがとう、キジマル」


 キジマルの優しさが胸に染みる。キジマルが自分の先輩であり京子の式神で本当に良かった。京子の耳に既に入っていたら京子はどうなっていたのだろう。ステラの身を案じてイギリスまで飛んだだろうか。それが悪いことだとは言い切れなかったが。


「で、吸血鬼と戦うってなんなんです?」


「え? だから吸血鬼だよ、本物の」


「……マジで言ってるんですか?」


「マジです」


「マジですか?! 見たい!」


「いやそう言われても……ていうかもう戻っていいですか? 主のこと心配だし」


「私も行きます! 見せてくださいよ吸血鬼!」


「いや……いるかわからないけど」


 告げるとキジマルはあからさまに落ち込んだような表情をした。


「そうですよね……戦ったんですもんね……」


「そういうこと」


 実際はどうなのかわからなかった。式神の家に現れて眠り二十四時間ほどが経過したらしいが、二十四時間もあったらグリゴレとレオはどこか遠くに行っていそうな気がして仕方がなかった。


「……わかりました。早く行ってあげてください、ステラ様は絶対に心配していると思うので」


 だが、ステラに対してはそれが言える。


「俺もそう思うよ」


 心配しているステラ。涙を流しているステラ。まだ十歳の彼女のそんな姿を簡単に想像できてしまうほどに悲惨な一年前だった。


「言うようになりましたね」


 キジマルがそう言って笑ったのは、他でもないイヌマルが笑っていたからで。イヌマルは一瞬だけ舌を出し、キジマルに向かって軽く手を振る。


「イヌマル、最後に」


「ん?」


 去ろうとしたイヌマルを言葉で引き止め、キジマルは再び笑顔を見せた。一年前はほとんど見ることがなかったキジマルの貴重な笑顔だった。



「──良かったです。幸せそうで」



 その言葉がイヌマルの心臓に熱を与える。


「ありがとう、キジマル」


 いつも、いつまでも、イヌマルはそう思っている。





「主ッ!!!!」


 瞬間移動で下り立ったのはステラの隣で、場所は古城の慣れ親しんだ大広間だった。ステラはイヌマルへと視線を移し、「イヌマル……!」とすぐに縋りつく。


「よ、良かった……!」


「おっ、俺も! 良かった〜ッ!」


「感動の再会、か」


「ティアナ! ティアナも良かった〜!」


「うわっ、飛びつくな! 犬かお前は!」


「犬だよ俺の名前はイヌマルなんだから! ほんとのほんとに無事で良かった〜!」


「無事じゃなかったのはお前とネグル兄弟だけだよ。特にお前はどっかに消えたんだから反省しろ反省」


「わかった!」


 本当に反省するつもりはなかったが、ティアナの言うことはすべて素直に聞いておく。本当に、自分と兄弟の人間が無事で良かった。ようやく心から安堵できて、改めてティアナの顔を見つめる。そこに傷はないようだった。


「あれ……?」


 だが、何かが違う気がする。腕の中にいるティアナの顔がよく見えるように体を回して観察する。


「ちょっ?! なんなんだお前は!」


「どうしたの? イヌマル」


「いや……主、なんかティアナの顔違くない?」


「え?」


 ステラだけでなくティアナ本人も気づいていないようだった。最初は軽く抵抗していたティアナだったが、大人しくイヌマルに体を預けて瞳を閉じる。


「あっ!」


「なんだよ。何かわかったのか?」


「目だよ目! 開けて!」


「イヌマル〜、ティアナ〜。仲良くハグして何してるですヨ〜」


「クレア! グロリア! もう主もみんなもこっち来て見て!」


「ねぇイヌマル、ティアナの目が違うってどういうことなの?」


「見たらわかるって! ほら!」


「これは……」


 ティアナの右目の中にあったのは、見たことがない不思議な模様だった。式神しきがみの家の天井のような模様ではなく、人が考えて作り出された家紋のような印なのだ。


「……そこにあったんですネ」


「なるほどな。確かにここは盲点だった」


「え? 何? なんで? これ何? なんでみんなわかってるの?」


「ジルおばあちゃんとずっと暮らしていたし、わたしたちは悪魔に詳しいから」


 いつの間に姿を現したのか、背後には随分と久しぶりに会ったような気がするはながニコニコと笑って立っていた。花もあれが何かわかるらしい。自分たちはまだ古城の人間になり切れていない──そう強く感じてしまう。



「これはダンダリオンのシジルですネ」



 祓魔師ふつましであるグロリアが告げたのは、ティアナが契約した悪魔ダンダリオンの名だった。


「し……じる?」


 聞き慣れない単語が当たり前のように飛び出してきて困る。


「紋章みたいなものだよ。これが体に刻み込まれている人を魔女って呼ぶんだって」


「へぇ〜……」


「どこかにはあると思ってたんだが、ずっと見つからなくてな。助かったよ、少し安心した」


「いや、俺は別に何も……」


 自分はただ、ティアナの顔を見つめていただけだ。それを口に出すことはできなかった。


「ていうことは、ジルの体にもあるの?」


「えぇ。左の二の腕にあるわ」


 何気ないステラの疑問に答えたジルも神出鬼没で、この城のゴーストは自分ではなく自分以外の全員なのでは思ってしまう。


「おばあちゃん……二人は?」


「大丈夫よ。すぐに目を覚ますわ」


 ティアナが尋ねた二人というのはネグル兄弟のことだろうか。キジマルにはいないと言ってしまったが、彼女たちは二人を連れて帰ってきたらしい。


「目を覚ますって、もう?」


「もうも何も、それを言ったらイヌマルだってもうですヨ?」


「ヴァンパイアの再生能力も式神の再生能力もすごいですヨ〜。研究したいくらいですネ!」


「絶対嫌だ」


「すごい拒絶……」


「ちょっと待て。吸血鬼も式神も確かにすごいのかもしれないが、一番すごいのは私のおばあちゃんだぞ」


「それは魔女だから? だったらティアナももう魔女じゃ……」


「いや、おばあちゃんは回復魔法を使うことができるんだよ。ウェパルは水と幻の悪魔だから城を隠すこともできるし、おばあちゃんがウェパルと契約を結んだ理由が〝治癒〟だから人を治すこともできる。おばあちゃんはすごい魔女なんだよ」


 言葉の節々からジルへの深い愛を感じた。二人は同じ肉体を持つ人間なのに、本物の祖母と孫のような関係を築いていて時々驚くことがある。そんな二人が身近にいるからか、グロリアとステラも本物の姉妹のように見える時があった。


「……ん? じゃあティアナは何ができるんだ?」


「幻を見せることとかだろうな。ダンダリオンは幻を得意としている悪魔だから」


「じゃあウェパルと同じ……」


「のようでちょっと違うんだよ」


「?」


「ウェパルは水が主力の悪魔で、幻を出すことしかできない。ダンダリオンは幻が主力の悪魔で、人の脳みそに干渉してそれぞれ違う幻を見せることもできるちょっとえぐい悪魔なんだ」


「え、えぐい……」


「ま、他は知らないけど」


 自分のことなのにティアナはあまりわかっていないようだった。完全に理解した上で契約をすることができないのだろう。悪魔は滅多に表の世界に出てこない。世の中の魔女は全滅状態で、仮に増えていたとしてもそれを知る術はない。ジルとティアナという魔女の仲間がいることが異様になっている世界なのだ。


「実はね、シジルの場所も重要なのよ」


「え? そうなの?」


「そうよ。シジルというのは悪魔の噛み跡、悪魔が宿っているって考えた方がいいのかしら。シジルがある場所に魔力があって、そこだけ普通の人とは違うのよ」


「てことは腕だけゴリラってこと?!」


「イヌマル失礼」


「正解よ。ティアナの場合、見ようと思えば肉眼で見れないものも見えるはず」


「じゃあ、ティアナはえぐい幻を使う魔女で、めちゃくちゃ目が良くて、契約を結んだ理由は……」


「〝戦闘〟、だな」


 断言したのはティアナ本人だった。


「えっ」


「戦う、止める、私がやらなきゃ──そう思っていたからさ」


 そう思わせてしまったのはイヌマルだ。イヌマルが不甲斐なかったからなのだ。


「ティアナ、俺……」


「謝るなよ、イヌマル」


「っ」


「言っただろ? 私は歴史を変えるって」


 ジルが傍にいたからか、ティアナはすべてを言わなかった。イヌマルはそんなティアナの意思を尊重し、口を閉ざした。


「行ってみるか? レオとグリゴレのところに」


「……行く」


 断るという選択肢はなかった。行かなければ、会いたいと強く思っていた。先を歩くティアナの後を追いかける。イヌマルの傍にはステラがおり、クレアとグロリアと花もついて来る。

 少しだけ会うことが怖かったが、全員がいれば、怖さなんて何一つないと心から思えた。


「グリゴレ!! レオ!!」


 大声で叫ぶ。その声で起きればいいとも思っていた。


「……うるさいですね」


 レオよりも軽傷だったグリゴレは既に起きており、人を殺しそうなほどの憎悪が込められた視線に怯む。なのに何故かイヌマル以外の全員はまったく怯んでいなかった。


「……すみません」


「で? レオの様子は?」


 中に入り、並べられたベッドの片側で眠るレオへと視線を移す。イヌマルが見たあの野性味溢れる雰囲気は一切なく、年相応の顔つきは穏やかな表情で安堵した。


「おかげさまで落ち着いてますよ」


 彼の寝顔は、あの時の様子を知っている花以外の全員に希望を与えるような寝顔だった。


「良かった……」


「しっかし、物好きですよね貴方たちは」


「え? 物好き?」


「レオを救ってくださったことには感謝しています。貴方たちのあの時の感情は私にもなんとなく理解できるものですし、だからこそ素直に感謝できます。けれど、見ず知らずの赤の他人を──自分たちを傷つけた赤の他人を家に運んで看病するなんて、狂ってるとしか言いようがない。こんなこと言いたくありませんし思いたくもないですが、何か企んでいるとしか思えないんですよ」


 運ぼうと言い出したのも、この城に運んだのも、看病をしたのも、イヌマルではない。誰だったのかは知らないし多分聞かない限り知ることもないないのだろうが、そんなことを言われて何も言い返さないようなイヌマルではなかった。


「絶っ対に企んでない!」


 場合によっては噛みついてやる、そんな意思を持って反論する。


「企んでいるような人たちに見えるのか馬鹿! 助けたんだから最後まで助けるのが人間だろ! ていうか普通ならそうする! 俺ならそうする! そもそも俺人間じゃないけど!」


 グリゴレもレオも人間ではない。この場にいる本物の人間はクレアとグロリアだけだ。それでも、全員の魂は人間と大差ないと思っていた。


「……だから、うるさいって言ったでしょう。大声を聞くと頭が痛くなるんですよ」


「あっごめん」


「謝るんですね。こちらの完全なわがままなのに」


「グリゴレが嫌な思いしたなら謝るよ」


「そうですか。なら、私のことを疑ったことも謝ってほしいですけどね」


「それもごめん」


「どっちも微妙に軽い謝罪ですね……。ま、それが貴方らしいと言えばらしいですが」


「なんだよそれ」


 褒められている気がしなくて頬を膨らませた。

 グリゴレはそんなイヌマルを目に止めて吹き出し、口元を手で覆ってげらげらと笑う。相変わらず笑いのツボがわからない人だ、その方が機械のようではなくて良いと思うが。


「失礼。もう、私の負けです」


「戦ってたのか?」


「比喩ですよ、比喩。日本人……というか貴方ってほんとクソ真面目ですね?」


「クソって日本語よく知ってたな……」


 本当に不思議な吸血鬼だ。一体どんな人生を歩んだらグリゴレのような男が誕生するのだろう。


 気になって、歩み寄りたくて、少し歩いて。


「よっと」


 グリゴレがベッドから抜け出した。


「う〜ん、もう少し寝ていたらどうですヨ?」


「傷は治っても疲労は簡単にとれないですネ」


「というか、普通に傷口開いちゃうと思うよ? ジルおばあちゃんの回復魔法は応急手当同然だから」


「あぁ、ありがとうございます。でも私のことはもういいんで、レオのことを頼んでもいいですか?」


「え? 頼む?」


「はい、そうです。ここって貴方たちの家ですよね?」


「合っているが、こっちの質問に答えてくれないか? 私たちが今、お前から何を頼まれたのか」


「……だから、レオですよ。レオナルド・ネグル、私の弟です」


 頼むというのは、イヌマルが受け取った通りの頼むなのだろうか。本当にそういう意味での頼むをグリゴレは言ったのだろうか。


「頼むっていうのは、治療するってこと?」


 イヌマルの代わりにステラが尋ねる。


「それもありますが、人生を預かってほしいという意味ですね」


 イヌマルはまだ、何も言えなかった。


「どうしてワタシたちがレオ預かるですヨ」


「ちゃんと説明しなきゃ納得しないですヨ」


「私は今までも、そしてこれからも、混血狩りをしなければならない立場にある純血です。それはレオもそうなんですが、見ての通りうちのレオは吸血鬼として未熟です。……いえ、未熟ではないですね。未熟ではないですが、最も危険な吸血鬼であることは間違いないです」


「…………」


 そんなことはないと断言することができなかった。否定することはレオのことを見ていないのと同義で、だからといって肯定することもしたくなかった。


「一度だけあぁなったことがあると言ったような気がするのですが、私ではもう止められないことは貴方たちもわかっていると思います。なので、止められる貴方たちのところに置いておきたい。その方がお互い不幸なことにならなくて済むと思うんですよね。今までずっと一人で狩っていたようなものなので、別にいなくてもいいですし──お荷物だったのでお嫌でなければ引き取ってくれませんか? あれ一人実家に帰らせるのも胸糞が悪いですし、貴方たちならレオのことを大切にしてくれるでしょう? 私なんかよりも」


 言っている意味がわからなかった。わかりたくなかった。唇をきつく噛み締めてグリゴレの瞳の中を探ろうとするが、心を閉ざしたグリゴレが真実を語ることはなかった。


「話したいことはそれだけか」


「えぇ。そうですね」


「レオの気持ちは無視するのか」


「私があれの気持ちを考えるとでも?」


 本当につい最近までそうだったのだろう。放たれた言葉に悪意はなく、それが当然だとでも言うような言い方だった。


「グリゴレの気持ちは?」


 納得できなくてそれだけを漏らす。英語ができないイヌマルでも、あの時のあの言葉の意味は理解できた。聞いていたから怒りに任せてグリゴレを追い出すことができなかった。


「さっき言った通りですよ」


「本当にそう思ってる?」


「しつこいですよ」


「そんなに聞いてない」


 早くこの会話を終わらせたい、そんな雰囲気が滲み出ているからイヌマルはやはり引き下がれなかった。



「──グリゴレも一緒に俺たちと生きよう」



 イヌマルはそれを願っていた。


「人の話聞いてました? 私には活動が……」


「やらなくていいなんて言わない。けど、ここを拠点にするとかやり方は色々あると思う」


「……嫌ですよ。ここは交通の便がが悪すぎます」


「いいや、この土地は捨てるぞ」


「え? 捨てる? え、ここを?」


「ティアナは何言ってるですネ?」


「引っ越しをするってことですヨ?」


「そうだ。ここにはもう住めない、その意味がわかるだろう?」


 イヌマルはまったくわからなかったが、花を含めた全員が理解しているようだった。


「どういうこと?」


「隠しきれなかったの。あの町で、レオたちのこと」


「あっ」


「そういうことだ。おばあちゃんだけじゃなくてレオたちも狩りの対象になった、外に出たらすごいことになっているぞ」


「まぁ、私は全員を殺して旅に出ることくらい造作もないですがね」


「止めろ、悪化する」


「……それだとグリゴレが〝亜人の掟〟を破ることになるしね」


「それに、殺さなくてもいい。幸運なことに私が力に恵まれたからな」


 この言葉の意味もよくわからなかった。


「ダンダリオンだよ。あいつらの脳みそをいじって記憶を消すんだ。私にとってはこれが一番の造作もないことだな」


「ぎょえっ」


「なんだその反応」


「いや、えぐいなと……ていうかティアナ、みんなに認められる魔女になりたいって」


「言ったがどうした? あいつらの頭の中は魔女に対する偏見だらけだ。嘘塗れだ。それをなかったことにして何が悪い。ついでにレオの記憶も消せて一石二鳥だろ」


「えぇ……?」


「イヌマル、世の中には知らなくていいことがたくさんあるですヨ。アイツらは少し知りすぎた、怯えすぎた、知らないままでいることが幸福に生きれる人たちもいるって、イヌマルもそう思うですヨ?」


「それは……そうかもだけど」


 グロリアの言うことは理解できるが、納得はできない。もっと別のやり方があるんじゃないかと思ったが、この町に蔓延っている何かをイヌマルは正しく認識できていない。口出しはとてもじゃないができなくて、また、この町の人間になり切れていないと強く感じた。


「安心しろ。捨てるのは土地であって城じゃない。この城ごと国中を旅するのがそんなに悪いことだと思うか?」


「思わないけど、ジルおばあちゃんは? いいよって言ってるの?」


「ダンダリオンの報告ついでに事情を説明して許可は貰った。寂しそうな顔をしていたが、古城と周辺の大地を持っていくならいいと」


「だ、大地ですネ……?」


「あ、もしかしてそこの墓ですヨ?」


「そうだな。ダンカン家の墓のことだ」


「そっか。ならわたしは賛成だよ、なんだかすっごく楽しそう!」


「わたしも賛成。いろんなところが見れるのは、嬉しい」


 大切なステラに笑顔が戻る。イギリスに来てからずっとこの古城と周辺の森のみで暮らしていた彼女にとって、この提案は願ってもない話だったようだ。


「ちょっと待ってください、私抜きで話を進めていますが、私は……」


「断る理由があるの? グリゴレ」


 イヌマルは言葉が詰まった瞬間を見逃さなかった。グリゴレは恨めしそうにイヌマルを見下ろし、「ですから」と腕を組む。


「どうしてそこまで……貴方たちは一体なんなんですか」


「私は一緒に行こうなんて一言も言ってないけどな。この町から離れる、行き先は特に決めてない、レオを止められる奴と拠点がほしいなら勝手について来ればいい、それだけだ」


「ワタシも賛成ですヨ。この町と────聖職者デーモンたちと離れるは幸福ですネ」


「ワタシも研究の巾が広がりそうなのでノープロブレムですネ! それと……」


 スキップをしながらグリゴレの目の前まで移動したクレアは中身と年齢がつり合っていない。グリゴレは一つ年下のクレアの動向を警戒していたが、クレアがこの部屋までついて来た理由が彼女の掌の中に入っていた。


「……多分ですが、この薬使ったらヴァンパイアの発作はある程度収まると思うですネ」


 試験管の中に入っているのは液体だった。それは何故か血色で、グリゴレがごくりと喉を鳴らす。


「これは……」


「イヌマルがくれた手術器具から採った血で作ったですヨ」


「……は?」


「ヴァンパイアは何よりも愛している血を制限するではなく、普段から摂取するが良いですヨ。これは血に見えますが、血と同じ成分が入った血っぽいジュースですネ! これで耐性をつけたら飢えによる反動はないですヨ、多分!」


 ドヤ顔のクレアから押しつけられたそれを眺め、グリゴレは困ったようにイヌマルを見やる。


「グリゴレ、俺は……」


 自分は、自分に視線で縋ったグリゴレに一体何が言えるのだろう。まだ一年しか生きていない未熟な自分がどんな言葉を言ったらグリゴレは笑顔になるのだろう。


「……これは、俺が言われた言葉なんだけど」


 救われてほしい。イヌマルはグリゴレと一緒に生きたい。

 イヌマルはグリゴレと自分を重ねて見ていたのかもしれない。レオを守ろうとするグリゴレと、ステラを守ろうとする自分だから──グリゴレだけが泣いてしまう世界はレオにとって優しくないと理解していた。


「グリゴレは今、どうしたい? レオはグリゴレにどうしてほしいと思ってる?」


「何を言って……なんで私の話になるんですか」


「グリゴレの話だよ。レオよりもグリゴレの方が心の声が強いし、レオはグリゴレの言うことだったらなんでも従うと思うから、グリゴレの心の声が聞きたいんだよ」


「私は……」


「また口を閉ざした! 本当は何か言いたいことがあるんじゃないか?!」


「……本当に、貴方はずっとうるさいですね」


「これがうるさいならずっとうるさくする! 俺はレオだけじゃなくてグリゴレにも幸せになってほしい、二人が不幸になるところは見たくないから!」


「言ったでしょう、私たちは赤の他人ですよ?」


 そう言って寂しそうな瞳を見せるから、イヌマルはグリゴレの手を死んでも離したくないと思った。


「だからなんだよ! 俺たちは亜人同士なんだから! 助け合って生きたいって思っちゃ駄目かよ馬鹿!」


 心の声の限界だ。これ以上はもう叫べない。


「────」


 グリゴレの喉が微かに震えた。グリゴレの片方の肩が、若干沈んだ。


「っ」


 グリゴレが驚いた表情を見せたが、グリゴレの袖を引っ張ったレオは随分と前から起きていた。瞳を開けてグリゴレの背中を見ている姿を、イヌマルたち全員が目撃している。


「I'll follow you.」


 置いてかないで。そう言っているような気がした。


「わたし、は……一人でも生きていけます」


「それで?」


「けど、そんな人生は要りません」


「じゃあ」


「そこまで言うなら一緒に生きてあげますよ。その方が数倍も……数百倍も楽しそうなので」


「そうだね。人生は、楽しい方がいいよね」


「主〜! 俺は主と一緒に生きることができて幸せだよ〜!」


「そうなんだ」


 気持ちの温度がまったく噛み合っていない気がする。それでも、式神の家に強制的に戻されて再認識したのは間違いなかった。


「決まったな。ほら、全員で引っ越しの準備をするぞ」


「え、ティアナがやるんじゃないの?」


「これから全町民の記憶を消しに行くんだ。そっちはお前らが全部やれ」


「ひぃ?! イヌマル〜、グリゴレ〜、重いのは二人にお願いですヨ〜!」


「というかワタシは早くオウインチョウ行きたいですヨ?!」


「後ででいいじゃない。ティアナは待ってくれないよ?」


「ティアナの鬼〜!」


「待ってくれないのは町民の方なんだが?」


 全員が騒ぎながら部屋を出ていく。



「二人とも──ありがとう、みんなに笑顔をくれて」



 イヌマルはグリゴレとレオに向かって笑みを零し、前へ進む星の欠片たちを追いかけた。

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