三 『チューニング』
三善家の新しい式神が生まれてから十日が経った。式神だけではなく、陰陽師も含めた三善家の者に一通り挨拶を済ませたイヌマルは、今でも教育係として色々と世話を焼いてくれているキジマルについて回っていた。
イヌマルとキジマルの主は、同じ家に住んでいる姉弟である。当然両親も同居しているが、両親の式神は二人きりで行動していることが多く、イヌマルにとってはキジマルが式神としてのすべてだった。
『──馳せ参じたまえ、イヌマル』
またあの声が聞こえてくる。瞬間移動で応じると、イヌマルの主である猿秋がいたのは、いつものあの家だった。
「昨日よりも早くなってるよ、イヌマル」
黄昏時でもないのに呼び出してきた猿秋は、手を叩いて心から喜んでいる。パソコンに向かっていたところを見るに、仕事中の息抜きとして抜き打ちテストをしてきたのだろう。
「主ぃ、用もないのに呼ばないでくださいよぉ」
式神である以上、手持ち無沙汰は非常に困る。猿秋はそのことをわかっているのかいないのか、毎日そう言っているのに毎日実行してくる奇人だった。
「ごめんごめん。けど、俺たちは戦闘以外でのふれあいもある程度は必要だからね」
「そうなんですか?」
「そう。出逢ったばかりの頃は、特に」
「…………」
「もっと言うとイヌマルにとっては俺が初めての主だから、ある程度はチューニングしておかないと」
「そう、ですね」
ずっと気になっていたことがある。イヌマルにとっての主は猿秋が初めてだが、猿秋にとっての式神はイヌマルが初めてではない。それが、この十日間でわかった唯一ともいえる三善猿秋についての情報だった。
「主」
「ん?」
真っ昼間の太陽の光が縁側の方から差し込んでくる。猿秋は眩しそうにそちらを見、手を翳して遮って、黙ったままでいるイヌマルへと視線を戻した。
「俺たちは心で繋がった主従だけど、黙ったままだと何もわからないよ」
「その……」
言いづらい。だが、顕現したばかりのこの段階で言わなければ一生言えないような気がする。
「……主の、前の式神は誰なんですか?」
たった十日しか一緒にいなかったのに、随分と長い間言えなかった言葉であったかのように感じる。唾を飲み込み、やっと言えたと安堵して、猿秋の顔色を伺った。
「俺の? 誰って言われても、もういないからね」
「えっ?」
「亡くなってるから。何年か前に」
「えっ?!」
すぐにその事実を飲み込むことができなかったが、言われなくても少し考えたらわかることだった。誰と聞いて答えられても、もしイヌマルが知らない式神だったらそれはイヌマルが求める答えにはならない。そういう意味で、前の式神を知りたいわけではない。
猿秋は、式神を持っていなかったからイヌマルをこの世界に呼んだのだ。
それでも、どこにもいないその式神のことを、どういう式神だったのかという意味ではやはり知りたいと思うのだった。
「本当は新しい式神を呼ぶ気なんてなかったんだけど、ステラのこともあるからね。姉さんとキジマルだけじゃ陰陽師として学べることは少ないだろうし、じゃあ俺も新しい式神を呼んでステラの手本になろうと思ってさ」
「……ステラ様の、為に?」
猿秋の為ではなく、ステラの為に?
それが本当のことならば、猿秋の式神としてこれ以上ない屈辱だ。……いや、猿秋はイヌマルの主なのだから本当の意味での屈辱は感じない。それでも、存在意義を見失うのには充分だった。
「そうだよ」
「主」
「ん? 今度は何?」
「俺は三善猿秋様の式神です」
だから頬を膨らます。この人を怒りたいと思う。
「い、イヌマル? もしかしなくても怒ってる?」
「当たり前です! 式神は自分の主の為だけに生まれてくるんです! だから、嘘でも自分の為だと言ってくれないと俺泣きますよ?!」
拳を握り締めてぽかぽかと叩いた。主従なのにこういうことができるのかと自分の冷静でいられる部分が驚いていて、式神としての本能はやっぱり殴っても怒っていた。
「ごめんな、自分の為だよ」
「嘘つかないでください!」
「お前はものすごく面倒くさいね……」
「嘘つかれたらわかります! これも式神の本能なんですね! こんなの要りませんけどそういうことならこっちにも考えがあります! こうなったら命をかけて主の役に立てるように頑張るので、今度俺がこれを聞いた時心の底からそう言ってくださいね!」
殴るのを止めて衣服を掴んで揺さぶると、「わかったわかった止めてくれ」と降参される。
「一体なんの騒ぎだい……」
それでも収まる気配がなかった。リビングに顔を出してきた京子に猿秋を突き出して、「この方は最低最悪の主です! 酷すぎます!」と抗議する。京子はぽかんと口を開けて二人を見比べ、「なるほど」と腕を組んだ。
「仲良くなって良かったじゃないか、猿秋。当面の目標は達成かい?」
「……仲良さそうに見えるのかな、姉さんには」
「今までの二人を見ていたらだいぶ仲良くなった方だろう? こっちはまだ仕事してるんだから静かにね」
「……うん、わかってるよ」
戻る京子に手を振って、手を離された猿秋は自分の衣服を整える。それを見て、改めて細い指だと思った。
九字を切る度に視界に入る猿秋の指がふとした拍子に折れそうで、そんな指でも妖怪が殺せるのだと思った。ステラでも、妖怪が殺せるのだと思った。
「イヌマル」
「なんですか」
「本当にごめんな」
「本当に反省してください」
猿秋は式神としてのプライドをぼきぼきに折ってきたのだから。そう思って、じっと自分を見つめる猿秋の視線がいつもと違うことに気がついた。
「なんですか? 主」
「……いや、あまり気にしてなかったんだけど、お前って確かに変わってるところあるよなぁって」
「それ主が言いますか?」
「お前から見たら俺もそうなの?」
「当たり前です。主は他の人たちとは違う何かを感じます」
「それは俺がお前の主だからとかではなく?」
「それは……そうかもしれませんけど」
「うん。まぁ俺のことを手加減なく殴ったのもただのお前の個性なのかもしれないけどね」
軽く弄られていると思ったが、最初に酷いことを言ったのは猿秋だ。自分はまったく悪くないと思うから謝らないでいると、「そのふてぶてしさも個性なのかな」とため息をつかれる。
「俺は他の式神とは違うんですか? 主の、前の式神とも?」
最初は遠慮こそあったが、そうすることが馬鹿らしく思えてするのを止めた。猿秋は一瞬驚いたようにイヌマルを見、「十日前と全然違うね」と首を傾げた。
「そりゃ、あの時の俺は生まれたばかりだったので」
そう言ったのはキジマルだ。式神の先輩がそう言うのだからこのことに関して疑問に思ったことはなかった。
「にしてもこんなに変わるものなのかな。まぁ、新しい式神なんてイヌマルが初めてだからなんとも言えないけど……お前は前の式神とは全然違うよ」
それは、いい意味なのか。悪い意味なのか。
「姉さんやキジマルが散々言ってた大太刀や斬撃の件もそうっちゃそうなんだけど、俺はそういうものかなって思ってたんだよね。けど、お前のその態度が前の式神と全然違うと変だなとは思うよ。イヌマル、回れ右」
「主ぃ、今真剣な話をしてるんですけどぉ」
「ほらね。俺の前の式神は、こんなくだらない命令にも従ってたんだよ。これは個性とか年齢とか関係なくて、俺自身の力の話だ。俺は確かに陰陽師として長く戦っていなかったけれど、だからと言って一度得た力が衰えることは陰陽師の世界では聞いたことがない。陰陽師としての実力が変わらないはずなのに、俺の式神であるお前が俺の命令に背くということは一体どういうことなんだ?」
「あ、主? もしかしなくても怒ってます?」
この人の式神として生きることを誓ったのに、命令に背くことがそんなにまずかったのだろうか。今からでも回れ右をしたら許されるのだろうか。
「いや、別に怒ってないよ。おかしいよねって話だからさ」
慌てて回れ右をした。「だから違うって」と体の向きを戻される。刹那に猿秋の黄色い瞳と目が合った。自分の瞳もそんな瞳だったとすぐに思った。
「わかるか? 俺は陰陽師として一人前だった。それは前の式神が証明していたことなんだ。式神というのは、陰陽師が半人前か一人前かで聞ける命令の幅が違う。一人前だった俺の命令を、あいつはなんでも聞いてくれたんだよ。だからお前もなんでも聞くはずなんだ。これは式神の意思ではなく、本能なんだから」
つまり、イヌマルが自分の意思で回れ右をしても意味がないということか。本能で回れ右をしないと正常の式神ではないということか。
「じゃあ、俺は……」
言葉に詰まった。今考えていることを言葉に出すことが辛くて、唇をきつく噛んだ。
「──お前は間違いなく特別な式神だよ」
肩に手を置かれた。肯定された気がしたが、果たしてそれは、本当にいいことなのか。悪いことではないのだろうのか。そう思って、改めて一人で思考する。
「……失敗作って、ことですね」
それでも、完全に悪いことだという判断しか出てこなかった。
「違うよ、イヌマル。別に悪いことじゃない。お前は特別な式神だけど、どれもこれも全部お前自身の個性だ。失敗なんてことはない」
「捨てないんですか? 命令を聞かない式神なのに?」
あり得ない。そう思ったが、猿秋は否定せずにまた肯定した。
「当たり前だろ、俺にはお前が必要なんだから」
「…………」
そう言ってくれる主で良かったと心から思った。
「よし。そうと決まったら出かけるぞ」
「えっ? 出かけるってどこに?」
「町役場だ。とりあえず、前例がないか調べないとな」
「だからってなんで町役場になるんですか!」
「陽陰町の町長が陰陽師の王だからだよ。町役場は王の城だ、あそこに行けば陰陽師に関する資料が読める」
「……な、なるほど」
ならば拒否する理由はない。イヌマルは頷いて、さっさと準備を進める猿秋を待った。
「そういえば、お前にはまだ話してなかったかな」
「何をですか?」
「この町について。あまりにも当たり前のことすぎて話すのを忘れていたよ」
「話すことなんてあるんですか?」
「あるよ。この町は山々に囲まれた小さくても大きな町でね、山のように巨大な結界が張ってあって、町の外に妖怪が逃げないようにしているんだ」
「…………」
「そして、この町には《十八名家》という十八にも及ぶ名家が存在している。町役場の町長で、陰陽師の王でもあるあのお方の一族も《十八名家》だ。その家の頭首だからあの方は町長で王なんだけどな」
「それってどういうことですか?」
「《十八名家》の一族の人間は、この町に欠かせない職業を家業としている人たちなんだ。あのお方の一族は政治家で、医者や教師や警察官、裁判官や検察官もほとんどが《十八名家》の人間で埋め尽くされている。この町は、そういう町なんだ」
イヌマルは外の世界を知らない。だから、そういうものなのだと思った。猿秋もそういうものだと思っているのが感覚でわかった。
「よし。行くか。ついでにこの町を案内するよ」
「えっ、マジで?! ありがとうございます主!」
「お前は本当に別人みたいになったね……。姉さ〜ん、ちょっと出かけてくる〜」
「主! 早く行きましょう!」
口角を上げて応じた猿秋について行く。主である猿秋の背中は、先輩であるキジマルとはまた違った背中だった。