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深潭逆乱舞  作者: 朝日菜
第二章 星の降る地
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十四 『心の声』

「グリゴレ!」


 名前を呼んで慌てて駆け寄る。中に下りずに待っていたグリゴレは何故か少しだけ驚いたような様子で、イヌマルをまじまじと眺めた後に「なるほど」と小さく声を漏らした。


「面白いですね、式神しきがみという存在は」


「え? 面白い?」


「瞬間移動ができるって物凄く便利じゃないですか? 犯罪に手を染めてもすぐに現場から逃走できるってことですよね?」


「そんなことに使うわけないだろ!」


「じゃあなんの為に使うんですか?」


「それは妖怪と戦う為……あ」


「『あ』?」


「グリゴレ! 俺、先に行くから!」


 出会ってから数時間が経って、ずっとグリゴレを監視することに力を注いでいたが、次の犯行場所がある程度特定できた以上は早くその場所に駆けつけた方がいい。

 グリゴレのことをずっと疑い続けていたが、グリゴレは自分が思っている以上に頭が良いわけではなかった。そんな彼が今まで一度もボロを出さなかったことも相俟って、イヌマルの中での彼という存在はほとんど白に近いものになっている。離れていても大丈夫だと思う。


「は? ……あぁ、わかりました。なるほどそういうことですね」


「そういうこと! 俺は上から探すから、グリゴレはここから下りて探してほしい!」


「くっさい下水の中に行くのが嫌で躊躇っていた相手にそれ言いますか? まぁいいですけど。私瞬間移動できないんで」


「任せたグリゴレ!」


 イヌマルはたったそれだけを告げて、瞬間移動で下水の出入口から離れた。


 式神の家で普通に暮らしている式神たちが、陰陽師あるじに呼ばれた瞬間に馳せ参じることができるように。古くから──いや、正確な年数はわからないくらいに太古から自分たちにはそんな能力が備わっている。自らの家である式神の家と主の間の移動は当たり前に。主以外の誰かや知っている場所へ向かうことも、相手を思い浮かべれば当たり前に。ただ、知らない場所はそうではない。自分たちはそこまで万能ではない。

 再び高い場所に上ったイヌマルは、下水の出入口だと地図で示されていた一つ目の場所をじっと見つめる。人間が作成した地図を読むことはできないが、方角はわかる。空間を把握する能力も、人間よりかは遥かにある。そこに飛ぶ、そう決意した瞬間にそこへ飛べる。


 ティアナやグリゴレの元へ飛んだ時よりも遥かに集中した。全身の産毛が逆立っているような気がする、髪の毛は完全に逆立っているだろう。

 風が吹いた。陽陰おういん町ではよく吹いていたそれがこの町でも吹いている。あの町では一つに絞れない様々な匂いがしていたが、この町では夜になっても土煙のような匂いしかしない。そんな風と共に瞬間移動をしたイヌマルは、辺りを見回して再び町の匂いを嗅いだ。ここもぬるい風が吹いている。血の匂いはここにはない、それらしい人影もまったくなかった。


「次!」


 声に出して自らの意思をきちんと示す。グリゴレと別れた下水の出入口からこの場所ははっきりと見えていたが、グリゴレが次の場所と言っていた場所はこの場所から肉眼で見えるか見えないかという場所にあった。

 ならば手前にあるどこかで一度瞬間移動をする。一回目、二回目、そうして姿を現したイヌマルは再びぐるりと辺りを見回し、夜空に青い閃光が打ち上げられているのを視界に入れた。


 緑色にも赤色にも色を変えながら輝くそれは町全体を照らすものではなくて控えめで、それでも流れ星が落ちてきたと勘違いしてしまうほどの明かりが存在を主張している。

 眠っている人間はその光に気づくだろうか。カーテンに遮られていたらその光はまったく通らないだろうが、町中を歩いている人間がいたら確実に気づくような明かりだ。それがあまりにも美しすぎて息を呑む。打ち上げ花火というものをテレビで何度か見たことがあるが、ステラが嬉しそうに見せてくれた線香花火の写真に似たものを感じる。


 目を奪われていたのは何秒くらいだっただろうか。


「っ、ティアナ?!」


 それが合図だということは聞いていなかったが、こんな辺鄙な町で様々な色に光る閃光が夜空を駆ける理由はそれしかない。ティアナが助けを求めている、レオが戦っている、それがわかるからこんなところで立ち止まっている場合ではない。

 イヌマルはすぐにグリゴレの元へと移動した。真っ暗な下水道を足音も立てずに歩いていたグリゴレはイヌマルの登場に再び驚き、「貴方ですか。……まったく、心臓に悪いですね」と愚痴を言う。


「合図が来た!」


 その声が下水道の中で響いた。鼻がもげるような悪臭がイヌマルの鼻に襲いかかったが、構わずグリゴレに向かって声を上げる。


「出よう早く! 俺は先に行ってるから!」


「当然です! が、多少はどこにいるのかちゃんと合図を出してくださいね!」


 ティアナとレオが担当していた場所も、ティアナの合図が上がった場所も、ここからだいぶ離れていた。被害者が血を流していたとしても、ティアナかレオが血を流していても、吸血鬼とはいえグリゴレには絶対にわからないだろう。


「わかった!」


 頷いて移動した上空は、閃光が駆けた跡をまったく残していない不思議な空間だった。火薬のような匂いさえ一切ない。人々が普段利用しているような光のエネルギーを限界まで上げて発射したようなものなのだろうか。

 足を下に向けて着地場所を探すイヌマルは、レオとティアナが揃っていることを確認する。吸血鬼と思われる者と格闘術で戦っているのは体格に恵まれているレオだけだ。戦闘で使用したことが一度もないであろう魔法道具を山ほど抱えているのがティアナで、そんなティアナをこちらも出会ったばかりのレオが全力で守っている。


 被害者はティアナと年齢が近く、その上性別まで同じだった。少女と女性の間に位置するような──写真で見る限りでは大多数の人間がそうだと思うほどの美女たちだったと記憶している。

 ティアナはそんな彼女たちに負けず劣らずの美女だった。同年齢の人よりは目が大きく、顔立ちも非常に整っているとイヌマルは思う。夜に映える銀色の髪はふわふわで、それが当たり前でないことも。花が持っているような群青色の瞳の色が濁りのないもので綺麗だということも。スタイルだって引き締まっていることも美女の条件であることを知っている。ティアナがそういう姿形をしている少女だということは、あれがジルの過去の姿ということだった。だと言うのに、ティアナの顔を見てもこの町の住民は絶対に何も思わない。誰かが一度見たら町中に噂が広まると断言できるほどに、この町はジルに対しての憎悪を長年募らせている。


 それでも、一日中この町にいても何もなかった。ティアナが何回かこの町に買い物に出ていても、何もなかった。


 ということは、この町の住民は誰もジルの顔を知らないのだ。ティアナのような年齢の頃も、今の年老いた姿も。

 魔女というだけで会ったこともない相手に憎しみと怒りを募らせた彼らの心がわからない。イヌマルは一年ほどしか生きていない赤ん坊同然の存在だから、教えてもらわないと理解ができない。教えてもらってもきっと理解できないだろう、そういうことだけはわかっていた。


「レオ!」


 名前を呼んで彼の傍に着地する。レオは来ると思っていなかったのだろうか。グリゴレに似た驚きの表情をイヌマルに見せ、すぐに真顔に戻って戦いを続ける。


「イヌマル!」


「ティアナ! あれが?!」


「そうだ! あれが……あいつがそうだ!」


「わかった、なら俺も……!」


 戦おう、そういう意思はあったが二人の吸血鬼の間に入ることができなかった。

 加勢することができないくらいに熾烈な争いを繰り広げることができるのは二人が二人だからだろうか。それとも吸血鬼という種族自体がそうなのだろうか。


 何もない空間から日本刀を出して抜刀をしたイヌマルは、構えるだけ構えて何もできずにただ立ち尽くす。


「……ティアナ、さっきと同じ合図を出すことってできる?」


「できるが……一体何をするつもりだ?」


「グリゴレを呼ぶ約束をしてるんだ」


「あぁ……そういうことか。わかった」


 納得したティアナが魔法道具の山の中から取り出したのは、拳銃だった。一体細い体のどこに隠していたのだと思うほどに腕で多くの魔法道具を抱えているのに、その中から拳銃を選んで取り出したティアナの思惑もわからない。

 本当に夜空に向けて発泡したティアナだったが、自分の耳もイヌマルの耳も、レオの耳も塞がせようとはしなかった。驚くほどに音がなく、匂いもなく、ただ光だけが闇に向かって突き進んでいる。それが魔法道具なのだろう。イヌマルが辛うじて知っている常識を常識ではないと否定するその光の道は、真下から見ると巨大な光の柱だった。


 住宅街のど真ん中。家を避けるように道路で戦いを繰り広げている両者の表情がよく見える。

 レオの表情も、フードで表情を隠している女性の吸血鬼も──



「え」



 ──声が漏れたのは、その顔に見覚えがあったからだった。


 ローブと呼ぶものなのだろうか。それで全身も隠していた吸血鬼の体格さえわからなかったが、その顔を見ただけで吸血鬼がどういう姿をしているのかもわかる。


「そう。奴なんだ」


 あんなに弱そうに見えていたのにレオと対等に戦っていたのは、イヌマルたちが使用している宿屋の老婆だった。


「なん、で……」


 背骨が曲がっているような老婆だ。そんな彼女が若き吸血鬼の──その上純血のレオに適うはずがない。グリゴレを呼ぶまでもないはずなのに、この現状はなんなのだろう。


「……どういうことなんだ、ティアナ」


「どういうこと、の範囲が広すぎてどう答えていいかわからないんだが、とりあえず被害者は出ていない。下水道から出てきたわけでも窓から侵入しようとしていたわけでもないんだが、ここに駆けつけた瞬間に同族だってわかったらしくてな」


 老婆の目は、赤く光っているわけではなかった。初めて見た時と同じに見える榛色の双眸は年相応に垂れ下がっており、レオと互角に戦う様とあまりにもかけ離れすぎていて脳が混乱する。


「じゃあ、なんで宿で会った時にあの人が吸血鬼だってわからなかったんだ?」


「混血は昼間の気配と夜中の気配が違っていたり、血を飲んだか飲まなかったかでも気配がまったく違うらしいからな。吸血鬼の血が騒ぐ、というのか? あのおばあさんが宿にいたままで血を飲んでいる夜中だったらわかるんじゃないか?」


「なるほど……なるほど?」


「私も吸血鬼のことはレオからの情報しかないからね。そういうものだととりあえずは受け入れているよ」


 それほどまでに吸血鬼としての血が薄いなら、ますますこの戦いが長引いている理由がわからない。見かけによらずレオの力が弱いのだろうか。老婆が強いとはどうしても思いたくないし信じたくもない。老婆が強い理由を想像しただけで反吐が出そうになるからだ。


「……ティアナ、俺たちにできることって、何があるかな?」


「できることは一つじゃないさ。きっとな」


「……色んなことができる、ってこと?」


「少なくとも私は、おばあちゃんと同じ血肉を持っている」


 ごくりと思わず唾を飲み込む。そういう表現をされると無性に悲しい思いをしてしまうのは何故なのだろう。



「だから、なんでもできる──」



 ティアナ自身は魔女ではなく、魔女も契約した悪魔によって能力が違うという話もちゃんと聞いている。

 だからティアナのその話は真っ赤な嘘だ。どうしてそんな嘘を吐くのだろう。ティアナとジルは確かに同じ血肉を持っているが、その心はティアナのものなのに。



「──そんな人に、ならなければ」



 彼女が出した結論も、イヌマルにとっては悲しいものだった。

 どうしてそんなに自分自身を殺そうとしてしまうのだろう。グロリアとステラとは大違いだ。特に同じ〝クローン人間〟であるステラとは大違いだ。


 グロリアはグロリアがグロリアであると思っていて、ステラがステラであると思っている。それぞれの個性を、個を大事にしている。

 ジルもティアナのことを自分自身だとは思っていないはずだ。ティアナのことを孫のように思っているはずなのだ。ティアナだけが自分はジルだと思っている。ジルにならなければならないと思っている。


 少しでも何かが違っていたら、ステラもティアナのようになってしまうのだろうか。

 そうなってしまったら寂しいと思う。止めてほしいと思う。ステラはまだ何も言っていないが。


「ティアナ」


「なんだ、イヌマル。さっきから何度も何度も……」


「俺は、ティアナのままでもいいと思う」


「……え?」


 意味がわからない、そんな声が彼女の中から漏れたような気がした。今までずっとそれが当然だとでも思っていたような、そんな反応だった。


「行こう、ティアナ」


「行くって……」


「レオの力になろう」


「……わかってる、私もそうしたいよ」


 だが、それが彼女の心の声だということもわかっていた。

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